かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2018年12月8日(土)19:00開演の空転幾何区『Twilight』についての劇評です。
 
 金沢大学の学生を中心に結成された演劇ユニット、空転幾何区の第2回公演『Twilight』(作・演出:川端大晴、佐藤史織)を見た。タイムマシン研究所を舞台に、時空移動を夢を実現させた青年の友情を描いた作品だった。研究所の青年、相沢(船橋徹也)はパイロットとしてタイムマシンで過去へと出発するが、失敗に終わる。ここから物語が始まる。2度目の出発が成功し、相沢は過去に戻る。彼が過去に戻った動機は、2年前に親友の結城(能沢秀矢)がタイムマシンの事故でいなくなったことにあった。相沢はその事実を過去に戻って研究員に伝え、事故を防ごうとしていたのだ。過去に戻った相沢は、事故を防ぐためのメモ書きを過去にいる研究員に渡し、自分は未来に戻るが期待通りの結果が得られない。再び過去に戻り、結城のいる現実を取り戻そうと過去に変化を与えるがうまくいかない。何度か過去や未来を行き来する中、ある過去の時点で結城に出会う。結城はタイムマシンの事故でいなくなったが、死んだわけではなかった。結城はタイムスリップしていたのだ。相沢も時間を超えて移動したが、相沢が変えた過去により未来がおかしくなっていることに気付き、それを修正しに相沢の後を追うようにタイムスリップしていたのだ。さらに結城は相沢に、何度も書き換えられる過去のせいで、いなくならないはずの人がいなくなることがあると伝え、過去を変えることをやめさせる。ラストでは、相沢と結城は一緒に未来へ戻ることになる。二人がタイムマシンで出発し、舞台は幕を閉じる。
 
 物語の本筋は、タイムマシンに乗りたいと願った二人の青年がそれを叶え、叶えたことによって起こった事件である。二人は思い通りの現実を手に入れるため、過去を変えながら時間を行き来する。しかし、過去を少しいじくっても思ったような未来になるとは限らなかった。ここで、思った未来と違うことが起こっていた、ということを示すためのシーンの作り方はたくさんある。例えば、ある時点で焼きそばパンを食べていたはずの研究員が、過去を変えたことでカレーパンを食べるという未来に変わった。こういった過去を変えたことで思ったものと違った未来(過去の時点から見た未来)のシーンがいくつか出てくる。研究所のチーフ(佐藤史織)が自らを教祖と名乗りおかしな言動をしたり、研究所が水没したり、研究所が宇宙戦艦ヤマトのような宇宙船の操作室になったり、あるシーンではチーフの母(金代晶)が出てきて研究員にお菓子を配り出したりなどした。このあたりのシーンは、作り手が自由に遊べる箇所であり、実際に遊び心が感じられ、観客を楽しませようとしていたが、あまり必然性が感じられないシーンが多かった。笑いとして受け取るには厳しく、観客にウケていたかと言えば内輪の仲間の笑いを超えるものは少なかったように思う。二人の青年を軸にした本筋の部分は、相沢と結城の友情だったり、時空移動に二人がロマンを感じていたことがよく伝わって来た。本筋以外の部分でも、もっと物語に夢中になったり、時間を忘れて楽しめるような要素が欲しかった。

 今回の空転幾何区の公演は、第1回よりも演技の上手い役者が多く、物語もわかりやすくなって、舞台セットもパワーアップしていた。学生劇団ということで、金沢に定着して活動が続けられるのかはわからないが、金沢の若手劇団として継続し、次回もよりパワーアップした作品を観客に届けられることがあれば嬉しい。
この文章は、2018年12月1日(土)19:00開演の劇団暗黒郷の夢『Whiteout』についての劇評です。

 暗黒郷とはディストピアの日本語訳である。金沢市の若手劇団、劇団暗黒郷の夢による『Whiteout』(作•演出:木林純太郎)を見たが、パンフレットにこの作品がディストピア作品であると明記してあった。劇団名にも作品解説にも明記するくらい、よっぽどディストピアが好きな劇団なのだろう。『Whiteout』で描かれていたディストピアは、島を丸ごと私有地にし、そこを拠点として活動する宗教団体の施設を舞台にしたものだった。セットがほとんどない簡素な舞台だったが、幸福と平和を追求しながらもどこか気味の悪いコミュニティの世界観がうまく作り出されていた。
 冒頭、宗教団体内部のシーン。団体のシンボルマークが背後に映し出され宗教音楽のようなものが流れる中、白い服を着た男、ドクター(朱門)と女、シスター(古林絵美)が何かの計画の話をしている。場面がある家庭内に変わり、主人公、警視庁勤務の広野あつし(高田滉己)が妹の女子高生、広野さきか(北国歩実)にお年玉をねだられる。母子家庭で育った仲の良い兄妹の日常。ところが突然、母親が交通事故で帰らぬ人となり、それをきっかけに、兄妹の仲には徐々に溝が出来る。仕事をしながら事故の事後処理に多忙なあつし。母がいなくなったショックで精神不安定になるさきか。やがてさきかは行方不明となる。ある日あつしは上司(田中祐吉)から、さきかが宗教団体ウルスに入信した可能性があること、そして団体が拠点とする島へ行き潜入捜査すれば、さきかに会えることを伝えられる。冒頭でディストピアの世界をちらつかせ、束の間の幸せな家庭の光景は、それとは対照的なディストピアの雰囲気をより際立たせることとなった。
 場面は、ウルスの施設内へ。信者たちは賛美歌のような歌を心を込めて歌い、教団代表者マザー(奈良井伸子)がその教えを語りかける映像を見る。信者たち全員が上下白い衣装、フードを目深に被っており、彼らが拍手をする際は片方の手の上下を逆さまにするという所作も統一されていた。行動を共にし、服装、思想などが統一された中で生きながら、その教えにより幸福を感じる信者たち。さきかを連れて帰ろうとウルスに潜入したあつしは、さきかに目を覚ますよう説得するもさきかには響かず、逆に信者たちに拘束されてしまう。拘束されたあつしは教団が「浄化」と呼ぶ、頭部に取り付けたヘッドギアを経由して脳に電気信号を送られる行為を受ける。浄化がなされた者は脳が信号の影響を受け、マザーの教えを信じ、辛さや苦しみを感じず、幸福感で満たされるようになる。この浄化行為を多くの人に施し、それにより醜い争いのない世界にすることがウルスのねらいなのだ。オリジナルの歌や映像、一般的な普段着とは雰囲気の異なるデザインの衣装など、その世界観を出すための工夫やこだわりが随所に見られた。
 あつしに浄化行為がなされるが、その意思の強さから電気信号の影響が出ない。そこへ教団の実質的ボス、ドクターが現れ、あつしの潜入が全て計画通りであったことを伝える。冒頭でドクターが話していた計画は、あつしのような意志の強い人間に浄化行為を試すことだったのだ。あつしは拘束された状態でありながらも、辛さや苦しみを感じることこそが人間の尊さであり、人為的に脳からそれらを排除してしまうウルスの思想に必死に反論する。それを嘲笑するドクター。あつしは再び電気信号を流され、衰弱状態に。それに追い打ちをかけるかのように、さきかがあつしの目の前で兄との思い出のミサンガを切る。ラスト、一人の信者があつしに近づきフードを取る。その正体があつしの上司だと判明するところで舞台は終演する。
 苦しみという一種の人間らしさを排除しようとするウルス、人間らしさを奪うことで幸せを感じることを否定するあつし。あつしの考えは一見まっとうなようだが、最終的に彼はウルスから抜け出せないであろう状態の中、自分の味方だと思っていた上司にもハメられていたと思わせる終わり方だった。あつしがウルスに巻き込まれてゆく構図。ウルスの世界がディストピアとして描かれながらも、あつしのような根性論的な考え方への皮肉のようにも感じた。
この文章は、2018年12月1日(土)19:00開演の劇団暗黒郷の夢『Whiteout』についての劇評です。

 「劇団暗黒郷の夢」は「ディストピア(暗黒郷)」について「ユートピア(理想郷)の反対語で、反理想郷と呼ばれている」と説明している(パンフレット抜粋)。科学が日進月歩で発達し、それに伴い人の価値観も大きく揺れ動く現代社会は、ユートピアではなくディストピアに近づいていっているのかもしれない。『Whiteout』(作・演出:木林純太郎)はそんなことを考えさせる作品だった。

 冒頭、ドクター(朱門)とシスター(古林絵美)と呼び合う全身真っ白な服を着た2人が、「人類を浄化する」という怪しげな計画を進めている。場面は一転。刑事の広野あつし(高田滉己)と女子高生の広野さきか(北国歩実)は、年は離れているが仲の良い兄妹だ。父を亡くし、母と三人で暮らしている。ある日、警部補に昇進したあつしのお祝いをするため買い物に出かけた母が、飲酒運転の車にひかれ帰らぬ人となる。さきかは明るさを失い、裁判など現実に向き合う兄とは溝が生まれる。そして突然、さきかは姿を消した。捜索しても見つからずに焦るあつしに、組織犯罪対策課の上司である上出警部(田中祐吉)から、さきかは「ウルス」という新興宗教に入信したという情報がもたらされる。あつしは警部からの使命で、妹を取り戻すためにも教団への潜入捜査を決める。教団では女性教祖「マザー」(奈良井伸子)の元、「マザーの愛こそすべて」を信条に、信者には一切の過去を断ち切らせていた。その洗脳は脳へ電気を流すという科学的な手法がとられており、あつしにもドクターの魔の手が迫る。実はあつしは、教団が洗脳方法を完成させるために必要な「意思の強い人物」であり、さきかの入信も潜入捜査も教団が仕組んだ罠だった。

 物語が盛り上がってきた所で突然幕切れとなり、観客にモヤモヤとした気持ちのまま劇場を後にさせるのは、狙ってやっているのだろう。ラストは、信者に囲まれ笑顔のさきかが、あつしのミサンガをはさみで切り落とすシーン。さきか自身が家族おそろいで手作りして兄に贈ったミサンガだ。それが見える場所にいるあつしの表情は放心とも絶望とも取れて、洗脳が完了したのかどうかは不明だ。あつしを主人公としたディストピアとして見ると、最後まで教団側の思想に染まったか曖昧なのは、一見「救いなき世界」を描き切っていないように感じられる。しかし視点をさきかに移すと、別の構図が浮かぶ。

 現実の絶望感から逃れるため入信したさきか。「あのまま泣き続けなくてはいけかったの」と問うさきかに対して、あつしは「悲しみ尽くさなきゃいけない」と理想を語るばかりだ。一方の教団は手段に問題はあれど、「マザーの愛」という無条件にポジティブな感情で、心の闇を塗りつぶして(whiteout)くれる。教団を選んださきかの判断は理解できる。絶望という極限状態を抜きに考えても、「自分が楽しければいい」という反知性主義的な思想と、反論する言葉を失った理性の間で揺らぐ構図は現代社会そのものであり、一個人の中でも日常的に起こりうる状況だ。あつしはまっすぐで妹思いだが、感情的な共感力が少し低い。敢えて観客が一方的に感情移入しないようにしたなら、うまい人物設定だと思う。
 
 教団のディティールがオリジナリティを感じるもの(手を平行に合わせる拍手の仕方など)がある一方で、既存の団体や事件を思い起こさせるもの(ヘッドギアや真っ白な衣装)もあった。後者は必要以上に教団に悪のイメージを抱かせてしまうので惜しく感じられたが、全体的には描こうとしている世界観がはっきりとしているのは好感が持てた。明るさや爽快感はなくても、観劇後に考える端緒を与えてくれる作品。それを生み出すことこそ、私たち近くにも潜む「教団」が唱える「楽しければいい」に対する、確かな反証となるはずだ。