新1万円の男 | kouseisogoのブログ

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 今年上期に新1万円札が出る予定である。その新札に載る男が渋沢栄一。彼は明治時代の企業家として八面六臂の大活躍を見せ、日本資本主義の土台を築いた人物である。その功績は、世界で経営の神様と称されるかのピーター・ドラッガーが絶賛するほどである。

 栄一は日本の全ての企業を造ったと言ってもいい。これから彼の足跡を俯瞰し、もし読者の琴線に触れたならば 願わくば新札と仲良くしていただきたい。(笑)

 

 

         

          渋沢栄一

 

 1840年生まれの彼は農民の家に生まれた。農民とは言ってもいわゆる「経営農民」すなわち本来の畑作の他、物品製造や販売に至る商行為までを手掛ける大金持ちだったのだ。しかしまだ身分制度がある世の中、無能な役人達に頭を下げねばならない。これが嫌で大の侍嫌いだった。

「実業家が国家を救う」がモットーの「倒幕派」だった。そして反幕府活動を目論み役人から目を付けられていた。これに困った彼は、少々顔見知りの一橋家家臣平岡円四朗に相談を持ちかけた。一橋家は徳川家を継ぐべく組織された寄せ集め集団だったので、平岡は優秀な人材を求めていた。そこに栄一が来た。で、即刻一橋家家臣にさせられたのである。

 1866年徳川家茂(いえもち)が大阪城で病死すると、一橋家君主の一橋慶喜(よしのぶ)が徳川慶喜として第15代将軍となった。何と倒幕の栄一は皮肉にも幕臣になってしまった。

 

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 栄一は新組織造りの為、その才能を発揮する。財源を確保し軍隊を組織するなど、新幕府の体制を整えた。

 この働きが認められ1867年将軍の弟昭武(あきたけ)ら一行に随行してパリ万博を見学する。時に栄一27歳、彼の運命を決する旅となった。二か月後、仏に到着した一行は 欧州先進国の豊かさを目の当たりにし、その活力と規模に驚愕したものだ。栄一は特に仏銀行における合本体制(資本を集結させるしくみ)に感嘆した。この豊かな社会は資本を集めそれを運用することで実現する。個人では不可能な巨大資本は皆で金を出し合えば可能だ。それを合本組織(株式会社)で運用する。まとまった資本があれば何でもできる! 

 

 1867年パリ万博に日本一行  渋沢は後列左端

 

 彼が帰国後、幕府は倒れ明治維新が始まった。渋沢は真っ先に合本組織「商法会所」を創設した(1868)。また大隈重信の要請で大蔵省に任官、郵便制度を造り鉄道敷設をした。しかし大久保利通とソリが合わず退官。

 1873年「今の商人は頼りない!」とばかりに自ら実業家に転身する。近代国家を建設する手法を学んだ彼には、他人の行動がじれったく思えたのだろう。まず第一国立銀行(我が国初の銀行)を創設。次いで帝国ホテル・東京ガス・東京海上保険・鐘ヶ淵紡績(その後のカネボウ)・王子製紙・東京製綱・東京建物・東京株式取引所などを造った。こうして彼の生涯で延べ500以上もの会社や組織を構築したのである。

 

 

             

      武士嫌いの渋沢、武士姿は嫌そう?     

 

 

 1882年に創設した共同運輸(船便輸送)は、同業者である岩崎弥太郎(やたろう)の三菱商会(現三菱グループの祖、旧九十九<つくも>商会)と競合した。

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 ここで栄一のライバルとも言うべき弥太郎についても書いておく必要がある。

 彼は栄一とは違い土佐にある貧困の武家に生まれた。父は郷士の位を売り、酒浸りで職がなかった。それを反面教師に弥太郎は勉学に励む。

 「武士の商人化こそが経済の原動力になる」

との自説を持っていた彼は、資本を統合する株式会社ではなく、あくまで個人資産の運用によるワンマン経営こそが 日本経済を拡大する道だと考えた。

 弥太郎は学問を深めるべく、吉田東洋が営む「少林塾」に入る。ここでも才覚を発揮した彼は東洋の信頼を得た。

 そして彼にも運命の時が訪れる、師匠の東洋が土佐藩大老に抜擢されたのである。弟子の弥太郎は当然土佐藩士となる。そこには師匠の甥にあたる後藤象二郎がいた。後藤は「土佐商会」を束ねていた。この組織は藩の財政を担う重要組織である。弥太郎はここに配置された。商会は外国に土佐の郷土品を売りさばく為、長崎にその拠点を置いていた。やがて主任となった弥太郎は長崎に赴任する。

 

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 この新天地は活気があった。彼は様々な客に酒を振る舞い遊郭などに接待する。大きな注文を取る為である。だがそのうちに自分もその味を覚え、やがて接待費たる藩の公金を使い込んでしまう。その額、半年で約1万両 ── 現在の数億~10億円を酒と遊郭に貢いだのだ。何とも破天荒な遊び方ではある。1か月に1億円を使ったとして1日300万円以上・・・・

 尋常な感覚とは思えない。一説によれば、弥太郎はこの遊興によって「接待」の大切さを学んだとあるが、それは後付理由だろう。私はそうは思わない。後で困る事は必定。彼の無責任と無節操が目立ち、先見の明などうかがえない。幼少の頃における赤貧、その苦痛からの反動としか思えないのだ。一万両に登る公金使い込みなど切腹あるのみである。

 

 

           

    億単位の遊びに興じた岩崎弥太郎 三菱グループ創始者

 

 だが彼は悪運強くそれを免れた。なぜなら上司たる後藤が弥太郎に輪をかけた遊び人だったからである。土佐商会は別名「阿呆商会」と呼ばれるほど湯水の如く接待費を浪費している事を世間は知っていた。

 廃藩置県後も弥太郎主導のもと、土佐商会を九十九商会と名を変え、更に三菱商会となって活躍する。

 

 

              

    岩崎の上司 後藤象二郎  彼の遊興は岩崎以上だった

 

 特に1871年(M7)台湾出兵の際、兵士や物資輸送を「中立堅持」の立場から拒否した米英海運会社を見た政府は「いざという時当てにならない」と考えた。そこに三菱が名乗りを上げ、海運役を一手に引き受けた為に巨額の利益を得る事ができた。加えて政府は三菱に12隻の船の無償供与と年間25万円(約20億円)の助成金を与えた。

 これを契機として三菱は様々な分野で躍進をする事になる。そして日本の四大財閥の一角を担う存在となるのである。

 他の三財閥は三井・住友・安田である。三井は1673年三井高利(たかとし)が大名向け高利貸しの利益で京都に呉服「越後屋」を開設。銀行や他の商業にも手を広げて三井財閥の基礎を築いた。住友は1690年からの別子(べっし)銅山に始まり、広瀬宰平(さいへい)や伊庭貞剛(いばさだたけ)の努力で事業を近代化・多角化した。(銀行・倉庫・電線・伸線など) 安田財閥は安田善次郎による銀行・保険業を基礎として発展した。

 

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 話を戻そう。

 栄一の共同運輸と弥太郎の三菱商会との競合である。両社はダンピングのやり合いで、当時東京~横浜間の運賃5円50銭が75銭にまで下げてしまった。だがこれでも済まない。果ては運賃はタダの上、お互いが景品まで付けての客の奪い合いとなってしまった。資本主義の原則たる「自由競争」の弊害がモロに出てしまった。残るは船の速力で勝負・・・・ これではもうマンガである。案の定「海運業」は破綻寸前になった。

 そんな時ライバル弥太郎が胃がんで死去(50)した。これを潮時と見た政府の井上馨(かおる)が両社間に介入してダンピング合戦は終わった。ここに共同と三菱を合わせた「日本郵船」が誕生する。この会社は10年余りで何と世界主要都市航路のほとんどを開設したのである。

 三菱はその後、弟の弥之助に引き継がれ 更なる発展を見せる。なおかの三菱マークは土佐藩紋章と岩崎家家紋が元になっている。

 

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 日本は富国強兵を目指して、一刻も早く列強に匹敵する国力を持つべく非常な努力を重ねた。この趨勢は栄一の願望を強く後押しする形で彼の行動を推進させ、大胆な企画を次々と実現させた。こうして先に述べた500を超える彼の起業は実現し、大きな富を生み出していった。

 

 日本は自然災害が多い。その上戦争での巨額な損失がある。日清・日露戦争を始め 特に第二次大戦では日本全土が焦土と化した。まああのゴジラが出現しても、せいぜい首都圏の一部を蹴散らす程度だが、B-29のべ300機による爆撃は、あらゆる社会秩序や制度、産業が全て灰燼に帰し、日本はどん底に落ちたものだ。だがそんな中にあって先人達が築いた産業基盤と、それを具現化する国民のエネルギーは決して滅ぶ事がなかったのだ。

 日本は高度経済成長を企画し日本再構築を目指した。有能な政治経済の指導者達はよく国民を統率し、国民もそれに答えて頑張りを見せた。その力は 戦争の痛手を補ってなお余りあるものだった。そして日本の立ち直りは他に類をみない わずか数十年という短期間で達成された。この破竹の勢いは 列強諸国を驚嘆させたものだ。

 

 明治以来、渋沢栄一らが先頭に立って築き上げた日本の原動力は、地中に撒かれた種の如く 雨が降ろうが風が吹こうが決して朽ちることが無い。

 

 彼は岩崎と同じく私生活も派手だったらしい。栄一68歳の時、浮気相手との間に子供が生まれてしまった。それが世間にバレた際

 「若気の至りだ」

と述べたと言うエピソードがある。68で若気の至り・・・・。かって100歳越えで有名になった双子姉妹はTV出演やCMなどで、多額のギャラが入った。その使い道を聞かれた時

 「老後の為にとっておきます」

と述べた事を思い出した。

 歳を意識して時に焦ったり まだ若いと励ましたり、逆にもう歳だからと諦めたり などの自己規制をする事は愚行なのかも知れない。いつでも常にマイペース ── 無為自然の寿命全うがいい。

 

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 1916年(T7)、栄一は76歳となった。この年 彼の著「論語と算盤(そろばん)」が世に出た。孔子の儒学の教えに従い 栄一の経営哲学を説いたものである。経営者のバイブルとして親しまれている。彼の薫陶を受けた多くの後輩達は立派に成長し 各企業は順調に発展した。これを見た彼は、第一銀行を除くほとんどの企業から退く事を決意した。そして以降   社会公共事業に余生を送る。

 

 引退してから15年を経た1931年(S6)、渋沢栄一永眠。91歳だった。以後「日本資本主義の父」と称される。そして約1世紀を経たこの度、新札1万円の「顔」になって我々の前に復帰する。

 

 偉人達の足跡を辿るにつれて、私は人の運命たるものが「人との出会い」にあるのではないかと考える。それを呼び込むものは己の器量や才覚、常に自己を磨いておく事だ。つまり「よき運命は己が呼び込む」という事である。

 

 そして冒頭で述べたが このオッサンも彼の生きざまに思いを馳せ、せいぜい彼と仲良くしたい(笑)。