5000円の男 2 | kouseisogoのブログ

kouseisogoのブログ

ブログの説明を入力します。

 ここでは新渡戸稲造(1862~1933)の略歴を紹介する。

 

 1862年(文久2)幕末 陸奥国岩手郡(岩手県盛岡市)、武家の三男として生まれる。家は代々南部藩要職を務める名家。

 

 曾祖父惟民(これたみ)は兵法学者だったが、ある時藩主への進言が反逆とみなされ一家は下北半島に追放され生活は困窮を極めた。 

 祖父傅(つとう)は武士を廃業し材木商で身を立てる。後年藩からの許しが出て家名復興を目指し、不毛の原野「三本木原(さんぼんぎはら 青森県十和田市)」の開拓を申し出る。十和田湖から用水を引き「稲生川」を造り田畑を広げ商人を誘致した。

 

 この功績が認められ、父十次朗は江戸留守居役に抜擢される。

 

       

           稲造の父 十次郎        稲造幼少の頃 いかにも悪ガキ・・・・

 

 稲造は気の強い腕白坊主、いわゆる「悪ガキ」として近所では有名だった。母を独占したいこの三男坊は客が来ると「用事がすんだら早く帰れ」と平気で言い放ったらしい。

 1866年 稲造5歳 「着剣の儀」を行う。(子供を碁盤の上に立たせ、帯剣させて祝うと同時に武士として認める儀式)父は「今日からは武士として立派に生きよ」と言い渡した。

 同年、十次朗は藩財政を救う目的で 藩主南部利剛(としひさ)に仏国との貿易を進言する。だが藩主は攘夷論者、この進言に藩政を乱すものとして激怒した。新渡戸家は蟄居閉門(ちっきょへいもん:地中の虫の如くじっとして外へ出ることを禁じる罰)を申し渡された。

 その翌年父は病死。母せきは「これからは新しい教育が必要だ」と考え、稲造を叔父の太田時敏(ときとし 元南部藩士で東京在住だった)の元へ養子に出した。

 

        

          母せき                 叔父 太田時敏

 

              * * *

 

 時は1868年 明治維新が始まった。

 伯父に引き取られた稲造は ここでも持ち前の負けん気で勉学に励み 抜群の成績を上げた。 

 1877年 稲造15歳、東京外国語学校では英語が最優秀の成績。次いで北海道札幌農学校に入学した。初代学長は有名なクラーク博士。 ただし稲造は2期生であり1年契約の博士とは入れ違いだった。それでも博士が築いた学風は稲造に多大な影響を与えた。クリスチャンになったのもこの頃である。当時同校は全国から秀才が集まる超エリート校だった。後に東京大学に進学した稲造は、その余りのレベルの低さに嫌気が差し東大を退学、米国留学を決意した。

 

 農学校時代のあだ名は「アクティブ」。 きっと闊達な言動をしていたのだろう。しかしキリスト教に改宗後聖書を読んで、武士道精神とのギャップから考え込むようになった。すなわち聖書の教えは「名誉などにこだわるな」、ところが武士道では「名を残す働きをすべし」。

 家名の為に頑張って来た彼は迷ったのである。あだ名は「モンク(修行僧)」に代わった。

 悶々と過ごす日々の中で英国思想家トーマス・カーライル著の「サーター・リザータス(衣装哲学)*1」に出会う。「思い悩む者は、最も身近な義務を果たせ。さすれば次の義務が明らかになる。」という言葉に感化され迷いが払拭され、再びそれまでの自分を取り戻したのだった。彼はこの書を30回以上も精読したと言う。

 

          

          農学校時代 気の強さはそのままのようだ

 

*1 原題は「仕立て直された仕立て屋」の意。人間的制度や道徳は、全て存在の本質が その時々に身に着ける衣装であり、一時的なものに過ぎない とする哲学。 

 

           * * *

 

 1884年(M17) 米国名門ジョンズ・ホプキンス大学に留学 22歳。叔父の時敏は全財産を投げ打ち、稲造の渡航費や滞在費など一切を工面して支援した。稲造は同校で農学・政治学・経済学を学ぶ。更に 独留学などを経て学問の幅を広げた。

 

 ある時、キリスト教集会で大富豪の娘メリー・エルキントンと出会う。

  

         

                 メリー・エルキントン

 

 稲造は初めて彼女と遭遇した際、「何と気品がある女性なのだろう」と思った。話を重ねるに従って、彼女は教養もあり穏やかで優しい心遣いを示した。この米国女性は彼を夢中にさせたようだ。

 彼女は率直に問うのだった。

 「なぜあなたは悪くも無いのに謝るの?」

 「なぜあなたは不安な時でも笑っていられるの?」

 稲造は苦笑しながら答えたものだ。

 「それは多分ボクが日本人だからでしょう。」

 

 彼は日本語の「すみません」「御免下さい」など挨拶代わりの言葉を英語で言っていたのだろう。また感情をあからさまに表情に出さないのは日本人の美徳とされているから、その調子で過ごしていたものと思われる。実際に日本では怒りなどをすぐ顔に出す人は「未熟者」のそしりを受けるものだ。

 

 彼女の父は二人の交際に大反対だった。当時の日本人はどこの馬の骨かも分からぬ野蛮人 という見立てが常識だったから。

 「新渡戸が家に来ても絶対に中へ入れない」

と娘に言い渡した。だが父親の意志に反し 6年後に二人は結婚する。この米国人家族の心境や如何に・・・・。

 

          * * *

 

 1891年(M24) 稲造29歳で妻メリーと共に帰国。札幌農学校教授に就任した。しばらくして 近くに無料の「遠友夜学校」を建て、貧困で学べない子供達に勉学を教えた。昼は教授職、夜は講師というハードな毎日だった。

 

    

 

 そんな無理がたたり、35歳で神経症に陥る。全快には7、8年を要すと診断された。そこで全ての職から退き、妻を伴い療養を兼ね再度渡米。1898年の事である。ここで彼の運命を決定付ける出会いが訪れる。ベルギー法学者ド・ラブレー教授との邂逅である。教授は稲造と公園散歩の途中に言った。

 「では宗教を教わらない日本人は、一体どうやって善悪を知るのですか?」

 稲造は絶句する。日本人は西洋人同様、いや時にはそれ以上に厳格な行動規範を持っている。だがその理由をうまく説明できないのだ。妻メリーは以前から日本人の道徳性に気付いており、その理由を夫にたずねていた。稲造は日々、日本人がそうである理由を考えた。その結果、「武士道」に行き着いたのである。この結論を基に「武士道」を執筆、1900年(M33)に同書を発刊した。

 

        

                   当時の新渡戸夫妻

 

 そして「武士道」はベストセラーとなった。以降、新渡戸は米国で日本人として最も名声を博した存在となる。同時に世界でも名の知られた日本人となった。国際連盟の初代事務次長に抜擢されたのもこの頃である。帰国した際には高等教育の普及に尽力し、京大・東大教授を歴任、女子教育にも力を注ぎ、東京女子大初代学長や津田塾大顧問を引き受けた。

 国内ではこの頃 軍部の暴走が続く。彼は国際人の立場から苦悩し、日本が国連を脱退した時は絶望感を抱いた。

 「日本を滅ぼすものがあるとすれば、それは共産主義と軍部だ。」

そう考えた。

 

 1933年第5回カナダ太平洋会議で演説、自分の理想論を述べた。そしてこの二ヵ月後、彼はカナダの病院で生涯を閉じた。残ったメリー夫人は日本に戻り「遠友夜学校」を再開させた。我が国では軍国主義が頂点を迎えようとしていた時期である。

 「私の故郷は日本です。」

 帰国理由を聞かれた夫人はそう答えたと言う。その5年後、療養先の軽井沢にて彼女も81歳の生涯を閉じた。

 

           * * *

 

 以上で「5000円の男」の話は終わる。

 

 日本人は「武士道精神」から善悪を学ぶ。宗教教育だけに因らない。

 ところで善悪と一口に言うが、その定義は時代や人種により相違することはこれまでにも述べて来た。(カーライルの「衣装哲学」でも その旨を明言している) そんな曖昧な基準を放置したまま、いや正確には曖昧さに気付かぬまま、「自己の宗教が教示する善悪」を信じて疑わない。ところが、その教示は 他のそれと同じではない。

 ある時、異教徒どうしが出会ったとしよう。お互いが信念上の価値観を主張しても決して交わらない。各々自分の枠内で構築された価値観だからである。子供の頃から体に染み込ませているものだ。二人が出会って懐から取り出したカードを見せ合う時、互いのそれを見て「何んじゃこりゃー!」と叫ぶのは当然なのだ。次には「こりゃ、まともな人間じゃないわ」と。これで両者間に一体どんな望ましい関係を築けると言うのか?

 実際歴史上の宗教紛争では、カードを見せ合う機会すら無かったはずだ。理解不能で妙ちくりんな言葉を話すし、服装・食事・習慣も違う。そんな奇妙で野蛮この上ない奴らの「信念」など、自分達の「信念」からすればどうでもよい。一瞥する事すら無かったはずである。「我々の神」を冒涜する者、信じない者は断じて許しておく訳にはいかないのだ、ロクな良心を持っていないはずなのだから。

 かくして宗教は平和・平等を謳いながら、異教徒には差別や排斥・搾取そして死を求める。人間が信仰する宗教だからそうなるのだ。宗教による団結は 同時に他宗教の疎外という形となり そこに紛争が起きる事は必然である。現在全人類の85%以上が何らかの宗教信者である。もし宗教が我々を平和に導くのなら、とっくの昔にそれが実現されていなければならない。

 

           * * *

 

 武士道に忠義はあっても神はない。そして人々の共存を前提に仁や礼を徳目として定めている。新渡戸は特にこれらの実践躬行を説いている。ともすれば教養段階としての知に終始しがちな観念的人道や真理 ── だがその実践こそが大切だと。いわゆる知行合一(ちこうごういつ)*2である。

 

*2 知行合一は中国明代の陽明学基本理念。実践を強調される言葉として使用されやすいが、本来は知と行とは同じ比重である。

 

 新渡戸の懸念は武士道の衰退であった。西洋文明を貪欲に取り込み一刻も早く近代化を図りたい日本において、伝統は一時忘れ置かれた位置にあった。確かに世はその趨勢にあったが、しかし凄まじい発展を遂げた日本とその国民は伝統を継承している。それは彼らの中で「捨て難く価値あるもの」との賢明な判断がなされたからである。高層ビルの隣りに昔ながらの神社仏閣がある。洋服姿の日本人に混じって、着物姿の女性がひと際目を引く。材料吟味の末、美しく盛りつけられた和食は品位と節度を旨に造られている。ただ「てんこ盛り」を求め腹を満たそうとする動物の本能を戒めているのだ。強固な伝統を下地にしてこそ、その上層に発展が乗ることができたのだ。


 彼の心配は幸いにして杞憂に終わったのではないかと思う。彼はこの優れた哲学をいつの時代にも日本人の徳目として第一級行動規範にするべきだと願っていたに違いない。そしてその要旨は今でもこの国土に根付いている。