現在も令和2年の「熊本豪雨(令和2年7月豪雨)」によりまして八代~人吉~吉松間で寸断されております肥薩線で運行されておりました優等列車は、平成29年のダイヤ改正によりまして、上の画像のキハ40系気動車で運行しております「かわせみ やませみ」が熊本~人吉間で運行されておりまして、観光列車と言う事もありましてこれまでも多くの乗客が利用されておりました。
この列車は、さかのぼりますと特急「九州横断特急」・「くまがわ」を継承する形で運行されておりまして、特急列車としての役割も果たしておりました。それでも座席は様々な区分が存在しておりまして、まさに特急列車ではありましても、「D&S列車(デザイン&ストーリー列車)」とも呼ばれる事もありまして、観光列車としての意味合いが強いのではないかとも言ってもいいかとも思います。
そして、熊本~人吉間では「かわせみ やませみ」とともに特急列車としても運行されておりましたのが、人吉~吉松間のいわゆる「山線」では普通列車として運行されておりました、以下画像のキハ40系気動車(キハ140-2125・キハ47-9082・キハ47-8159)運行によります「いさぶろう」・「しんぺい」も存在しておりました。
改めまして、「いさぶろう」・「しんぺい」の愛称の由来でありますが、「いさぶろう」が人吉駅→吉松駅間の愛称でありまして、人吉駅~吉松駅間が建設されました当時の逓信大臣でありました山縣(やまかた)伊三郎から、「しんぺい」が吉松駅→人吉駅間の愛称でありまして、同じく人吉駅~吉松駅間が建設されました当時の鉄道院総裁であった後藤新平の名前からこの愛称が付けられております。
この「いさぶろう」・「しんぺい」の現在の姿となりましたのは平成16年からでありますが、この姿からもわかりますように、深い赤地の古代漆色に塗り替えられまして、かつ車内も大掛かりに改装されているなど、従来のキハ40系気動車一般車両とは大きく異なった車両となっているのが「いさぶろう」・「しんぺい」でもありました。
尚、当ブログでNO.2921・NO.2922の2回にわたりましてご紹介しましたように、この「いさぶろう」・「しんぺい」は新たな久大線の観光列車に生まれ変わるために、10月4日の小倉総合車両センターへの団体臨時列車の運行を持ちまして、運行を終了する事が決まっております。そして、かつての発着駅でありました吉松駅へも9月17日・18日に団体臨時列車が宮崎~鹿児島中央間の運行で経由しておりましたが、もう「いさぶろう」・「しんぺい」として入線する事はなくなっております。
所で、この「いさぶろう」・「しんぺい」が運行開始されましたのが平成8年でありましたが、当時の使用車両は画像のキハ31形気動車でありまして、車内は座席の上に畳を敷きました、いわゆる簡易お座敷列車として運行されていた列車でもありまして、車内での案内も、運転士が名所におきまして停車しまして案内を行っていたなど、現在の姿とは大きく異なっておりましたのが当時の「いさぶろう」・「しんぺい」でもありました。
けれども、その「いさぶろう」・「しんぺい」もその後キハ40系気動車に移行される事になりますが、その「いさぶろう」・「しんぺい」の元祖の姿を残しておりましたのが、肥薩線の「川線」におきまして運行されておりました、「九千坊号」でありましたが、ここからはこの列車に関しまして皆様にご紹介してまいります。
この列車は、平成17年10月から平成20年3月のダイヤ改正時まで土日祝日限定で運行されておりまして、鹿児島線にも乗り入れまして熊本~人吉間を快速列車として運行されておりました。車内は当初の「いさぶろう」・「しんぺい」で見られておりました簡易お座敷構造となっておりまして、より車内でくつろげるような形となっていたのが特徴でありました。もちろん、「川線」の名所区間では停車するようになっていたなど、観光列車としての役割も果たしておりました。
この「九千坊号」には画像のようにヘッドマークが取り付けられておりましたが、この愛称の由来は、昔、中国揚子江上流にいました河童が住家を変える事となりまして、中国から渡来しまして、この球磨川一帯に上陸、住み着きました河童を言いまして、その後、悪事が多かった事から、筑後に移動し、落ち着いたとも言われております。ちなみに、久大線田主丸駅が河童の形をした駅となっておりますが、ここにいた河童たちが、その球磨川におりました、「九千坊」と言われた河童たちと言われております。
その後、平成20年3月ダイヤ改正から「九千坊号」は設定されなくなりましたが、しばらくは肥薩線の普通列車におきましてヘッドマークの掲出はなされておりました。しかし、ヘッドマークの掲出もされなくなりまして、この「九千坊号」も過去のものとなってしまいました。