NO.2510 廃止から50年、旧世知原線廃線跡探訪(後編、旧祝橋駅〜合流部〜MR吉井駅間編) | コウさんのコウ通大百科 PART3

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(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)

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 今年で廃止から50年になります、旧国鉄世知原線廃線跡探訪の話題、前回では概要編・旧世知原駅(上の画像)~旧祝橋駅の手前までを皆様にご紹介しておりました。

 

 前回もご紹介しましたように、この旧世知原線は、沿線の炭鉱から採掘されます石炭の輸送のために地元の実力者などの手によって建設されたものでありまして、国有化後は松浦鉄道の前身でもあります旧松浦線の一部としても戦前までは呼ばれていた事さえもありましたが、旧伊万里線開通後の戦後は世知原線と呼ばれておりました。
 
 さらに、周辺の炭鉱が閉山しますと、利用客も大きく衰退、末期には他の盲腸線であります臼ノ浦線・柚木線とともに、「レールバス」ことキハ02形気動車しか走らない路線となっておりまして、炭鉱のあった頃・なくなった頃からしますと大きな違いとなっていた事もお分かりいただけたのではないかとも思います。

 

 それでも、廃止後には西肥自動車(西肥バス)の路線バスが並行する県道54号線を通る形で運行されておりますし、廃線となりましたほとんどが画像のようにサイクリングロードとして整備されておりますので、かつての名残がこう言った形で現在も残されている事に関しましては大変嬉しい事であると言ってもいいのではないでしょうか。やはり地域によりましては跡地活用さえも見られない所さえもありますので・・・。

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 さて、今回後編では前回ご紹介しました旧祝橋駅の手前から、吉井駅までの区間を皆様にご紹介してまいります。

 

 

 以下画像の撮影位置が、(廃止末期時)旧世知原線の唯一の途中駅でもありました旧祝橋駅の構内にあたる部分になります。
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 駅舎に関しましては姿を消しておりますが、ホームに関しましては現在も残されておりまして、それが画像奥にあります倉庫の部分にあたりまして、ホーム上に倉庫が建てられるに至っております。この姿を見ますと、上の画像・以下画像手前にあります踏切があったと思われる場所から中に入った所に駅舎・ホームがあったと思われますので、今の感じから見ますと案外奥に入った印象さえも感じさせられます。
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 (引いた状態で撮影)
 
 (旧世知原方向け)

 

 そんな旧駅の世知原方手前には、西肥バスの祝橋バス停が設けられておりまして、佐々・佐世保方面への路線バスが運行されております。ただ、本数自体もそれほど多くはなく、1時間に1・2本程度しか路線バスが運行されていないのも現状です。
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 また、この駅名・バス停の名所の由来であります祝橋も近くに存在しております。こうして見ましても古い橋である事がわかるのではないかとも思いますが、それほど多くの方々がこの橋を利用して来られていたのではないかと思いますし、橋の気持ちから考えまして、古い分過去の事もご存知ではないかとも思うほどです。
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 旧祝橋駅を過ぎました所にあります、西肥バス橋川内バス停付近へとやってまいりました。ここでは並行します県道54号線よりも高い位置となっておりまして、その部分をかつて列車は走っておりました。ここでは、画像のように駐車場はありますが、これまでのようにサイクリングロードではありますので、バイク・自動車の通行はできません。

 

 ちなみに、この付近に立ててありますたて看板には、「長崎県」と書かれてあります。したがって、これはいわゆる県道の一種になるのか気になる所ではあります。それでもないと、看板に長崎県とも書かないとも思いますので、この部分は本当に気になる部分ではあります。
 
 (別の位置より)

 

 

 さらに進みまして、画像は、西肥自動車(西肥バス)の御橋局前バス停付近の廃線跡区間であります。このサイクリングロード自体も、全線のうち9割で整備されておりますので、このようなサイクリングロードとしての姿もわからなくはない所ではあります。

 

 (吉井方)

 

 (世知原方)

 

 そんな中ではありますが、画像の小川に架けられました橋を見ますと、橋自体は新たに整備されているようではありますが、台座自体は昔のものを再活用しているようでありまして、この細かい所こそ、かつて鉄道橋として使用されていた名残を残している事が伺えております。

 

 

 さらに西へと進んでまいります。画像は車内より撮影したものでありますが(停車して撮影を行っております)、このあたりに旧御橋観音駅があったと思われる場所でもあります。しかし、廃止自体が昭和19年と、戦時中であるとともに1067ミリに改軌した頃でもありますので、残念ながら名残自体は残されておりませんでした。

 

 

 そして、吉井駅から約500メートルほど手前付近へとやってまいりました。これまで約6キロにわたってご紹介してまいりました旧世知原線も、旧松浦線(現松浦鉄道西九州線)と間もなく合流される事になりますし、それとともにサイクリングロード自体も終わりを迎える事にもなります。

 

 (世知原方)

 

 (吉井方)

 

 

 ちなみに、上の画像の撮影位置から少々足を進みますと、画像のように松浦鉄道の線路(佐々川橋梁)が見えてまいります。この姿を見ますと、より吉井駅自体も近くなってくるのではないかと思うほどでもあります。

 

 

 また、現在この付近では道路網の整備もなされておりまして、撮影時は松浦市からこの吉井町、そして佐世保市吉岡町とを結ぶ県道40号のバイパス工事が行われておりました。現在は佐世保市内への重要な道路となっておりますこの県道は、撮影時には橋脚の工事が進んでいた姿が見られておりましたが、そんな重要な道路ができるまでの姿が見られていた頃でもありました。

 

 

 さて、その橋脚を過ぎまして松浦鉄道西九州線との合流部にやってまいりました。実際に画像中央部にあります松浦鉄道線路横の雑草がある部分が、かつての旧世知原線の線路跡となっておりまして、こちらの部分は現在もその名残を残しております。

 

 けれども、それから吉井駅の手前は木々・雑草に覆われておりまして、かつて線路の右側にあったと思われる旧世知原線の線路の面影は見られなくなっておりました。

 

 この踏切の反対側であります、吉井駅側の撮影です。旧世知原線の線路は、画像左側にあったと思われますが、こちらに関しましては旧線路跡に機器類が入ったボックスが置かれておりますので、この名残はもう見られなくなっておりました。

 

 

 こうして、吉井駅にやってまいりました。この吉井駅も、現在は無人駅で2面2線の線路配置の駅となっておりますが、この駅自体も広かったようでありますし、有人駅でもあったでしょうから、かつての分岐駅時代の印象を残している事もわかるのではないでしょうか。

 

 (駅舎)

 

 (ホーム)~画像はたびら平戸口方

 

 (同)~画像は佐世保方

 

 ちなみに、この吉井駅は旧国鉄→JR時には「肥前吉井駅」と称されておりました。しかし、昭和63年の第3セクター(松浦鉄道)化によりまして、現在の名称であります「吉井駅」と称されておりまして、昭和8年の開業から1年間称された名称に59年ぶりに戻った駅でもあります。

 

 

 そんな吉井駅の世知原線ホームは、現在あります2番ホームの反対側であります3番ホームに存在しておりました。それとともに、画像中央の黄色い雑草に覆われている部分にかつての吉井駅へ続く線路は存在していたようであります。

 

 その旧3番ホームです。このホーム自体も、世知原線として使用されなくなった後も保線車両が出入りしていたと思われる事から、線路が現在も残されておりました。しかし、その線路の横には桜の木も植えられておりますし、その下の画像にもありますように、沿線利用者の通り道として使用されている事から、線路自体も寸断されておりますので、もう使用されていないようであります。それでも、線路があるだけでも名残があっていいのではないでしょうか。

 

 (世知原方)

 

 (沿線利用者の通り道として整備(?)された事から寸断された線路)

 

 

 前回・今回と、2回に渡りまして、廃止から50年になります旧世知原線の廃線跡探訪を過去の画像をつかいましてご紹介してまいりましたが、まとめますとほとんどの区間でサイクリングロードとして、そしてそれ以外の所でも、雑草に覆われて残されている所あれば、公園となっている所など様々な姿が見られております。私自身も各地の廃線跡を訪問しておりますが、サイクリングロードに変わったとは言えども詳しく残っているだけでもいいのではないかと思う所ではあります。とにかく、ご覧の皆様もこれで初めて知った方もいらっしゃるのではないかと思いますが、これでこうして鉄道が存在していた事をわかっていただければとも思います。

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 (注)今回の記事は、平成26年に撮影したものを使いまして使用しております。尚、廃線跡区間では現在もほとんど撮影当時とはあまり変化がないとの事であります(他の方のブログやSNS等より)