NO.2509 廃止から50年、旧世知原線廃線跡探訪(前編、概要及び旧世知原駅~旧祝橋駅間編) | コウさんのコウ通大百科 PART3

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(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)

 
 上の画像にあります、長崎県佐世保市吉井町の松浦鉄道吉井駅から、佐世保市世知原町の旧世知原駅間には、旧国鉄の旧世知原線が存在しておりました。

 

 この旧世知原線とは、佐々川流域にあります炭鉱からの石炭輸送のために、明治30年代に九州松浦炭礦専用鉄道として佐々駅~世知原駅間で軽便鉄道として建設が始まったのが始まりでありまして、その後松浦炭礦の鉱業権者であります岡本彦馬氏の個人経営へ移行した事から、昭和7年に岡本彦馬専用鉄道と改称しております。

 

 しかし、この珍しい個人名の鉄道会社も翌年昭和8年には佐世保鉄道に買収、そして鉄道営業を始めまして、その後昭和11年には国有化され、松浦線として営業するようになるも、昭和20年にはこれまで伊万里線と呼ばれておりました有田~伊万里~平戸口(現・たびら平戸口)~肥前吉井(現・吉井)間を松浦線(現・松浦鉄道西九州線)と呼ぶようになりまして、肥前吉井~世知原間世知原線として営業する事になります。

 

 すでに、戦時中でありました昭和19年には軽便鉄道時代の762ミリから現在の1067ミリに改軌されておりましたが、その後沿線の炭鉱が相次いで閉山された事で利用者も衰退してまいりまして、昭和30年代からは、元祖「レールバス」でありましたキハ02形気動車が運行されるほどになっておりましたが、それでも歯止めがかからなかった事もありまして、結局昭和46年には廃止されてしまいまして、その後廃線跡のほとんどはサイクリングロードとして現在に至っております。

 

 

 そんな廃止からもう50年になりますが、私は以前その世知原線の廃線跡区間を出向いておりました。今回と次回では、その廃線跡区間に関しまして、皆様にご紹介してまいります。

 

 

 まず、画像は旧世知原駅跡であった所からのご紹介です。ここは現在は公園(「躍進の泉公園」)となっておりまして、残念ながらかつての面影は見られなくなっております。
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 (「躍進の泉公園」の看板)
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 かつてここには、片面1線のみのホームがあったようですが、炭鉱があった頃にはそれ以上の線路があったのではないかと思われます。それでも、かつて駅があった証としまして、以下画像のようにSLの動輪が保存されておりまして、この動輪こそがかつてここまで鉄道が走っていた名残を残していると言ってもいいかと思います。
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 また、この公園には中倉万次郎と呼ばれる方の頌徳碑が建立されておりますが、この方も佐世保軽便鉄道の設立や、平戸島電燈会社の設立など、地域の発展に務めた方でもあります。まさにこの方があってこそ、世知原線が工事されるに至っておりましたので、この方の存在は大きかった事も言えるのではないかと思います。
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 さらに、この旧世知原駅から100メートルほど東に行った所に、「世知原炭鉱資料館」と呼ばれる資料館があります。ここは元は「松浦炭坑事務所」として建てられたものでありましたが、現在は資料館として現在に至っておりまして、炭鉱に関しました資料や、旧世知原線に関しました資料も置かれております。残念ながら、この訪問時私は中に入る事ができませんでしたが、機会がありましたらご覧になってみてはいかがかと思います。
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 では、ここから吉井駅まで西に進んでまいります。線路は、画像の奥の方まで続いていたのではないかと思われますが、この訪問日の時点でも残念ながら面影を見る事ができなくなっておりました。
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 こちらの画像は、世知原地区では最大の病院であります「松浦病院」であります。旧世知原線の廃線跡を利用しております「サイクリングロード」は、この松浦病院の構内から吉井まで続いておりまして、病院構内までは自動車も出入りする事が可能となっております。

 

 (正面)
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 (サイクリングロード内でもあります病院構内)
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 松浦病院を抜けまして、佐々川の支流にあります川の所に架かる橋へやってまいりました。ここからの区間は自転車・歩行者のみが通る事になりますが、この橋自体は、かつての橋梁をそのまま活用しているようでありまして、その下の画像にもありますように、かつて鉄道が通っておりました橋梁の名残を残している事がお分かりいただけます。
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 (緑色の橋がかつての鉄道時代の名残を残します)
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 橋を渡りまして、先へと進んでまいります。ここを見ましても、道幅自体はそれほど広くはない事もありまして、サイクリングロードらしさが出ている事がお分かりいただけます。
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 さらに進みますと、「3」と書かれた数字が見られておりますが、私自身詳しくわかりませんので、これは何を意味するのか気になる所ではあります。また、自動車の出入りができないように柵が取り付けてありますが、こう言った対策が施されている事はサイクリングロードとしてふさわしい事ではないかとも見ていて思う所でしょうか。
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 ちなみに、ここには画像奥に見えております工場への出入口にもなっておりますが、こうして見ますと、まさに踏切であった頃を偲ばせる所でもあります。特に、以下画像にあります、夜間には閉じられる事になると思われます開閉式の門が、踏切であった頃の姿をより連想させてしまうほどでもあります。
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 (サイクリングロードの部分より、旧踏切の部分)
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 旧世知原駅から約600メートルまでの所であります、西肥自動車(西肥バス)の笥瀬バス停付近までやってまいりました。ここまでご紹介しました中でも、サイクリングロードとして残っている事だけでも、かつての姿がわかる分いいのではないかと思います。この付近では、画像のようにサイクリングロードと一般道路(県道54号)とを並行で進む事になりまして、花壇で境目を作っている事もお分かりいただけますし、並行して西肥バスの路線バスも運行されている所でもあります。こうして見ましても、色々な花が植えているのではないかとも思いますが、それぞれの満開シーズンになりますと、大変美しい姿が見られるようになるようです。
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 (同、祝の原バス停付近)
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  そして、西肥バス太田橋バス停を過ぎた頃には、そう言った花壇との並行した姿は見られなくなりまして、旧世知原線側が高くなってまいります。この画像の姿を見ましても、かつて鉄道が走っていた事が伺える姿である事がわかります。
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 そして、上の画像のカーブを過ぎまして、さらに以下画像のような緩やかなカーブを進んでまいりますと、旧祝橋駅が近づいてまいります。それにしても、この位置にもしも列車が走っていたならば、後ろに見えます木との絡み合いも良かったのではないかとも思います。
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 画像は、上の画像の撮影位置と反対側でありまして、奥に旧祝橋駅があった所になります。この旧祝橋駅付近には、画像中央の棒が見えるあたり及び、その先にあります柵があるあたりに踏切があったのではないかと思われるようであります。それにしても、下の画像を見ましても、かさ上げされている事もお分かりいただけるのではないかとも思います。
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 (逆方向)~かさ上げされている部分がかつての名残を残します
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 今回は、廃止から今年で50年になります、旧世知原線の廃線跡に関しましてご紹介しましたが、ここまでご紹介しましたように、廃線跡のほとんどがサイクリングロードとして整備されている事がかつてを偲ばせる部分も見られる事もありまして良かったのではないかとも思います。やはり、このサイクリングロードのように道路化するか、そのままにするかとなりますと道路化する方が活用する分いいのではないかとも思いますので。次回後編では、この駅名称にもなっております画像の祝橋も近くにあります祝橋駅から吉井駅までの模様をご紹介しますので、次回もご覧になっていただきたいと思います。