「横山紘一」 3部作 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

「横山紘一」 3部作

「横山紘一氏」の公開動画は「唯識論」を系統立てた解説内容で、3部作が一堂に公開されるのは日本で初めてです。⇒3部作目は一部のみ公開

公開動画は削除される事がありますので、関心のある方はダウンロードしお楽しみ下さい。

「始まりの無い、はじめから、終わりのない、終わりの中で、いま、ここに存在するイメージ図」

「一人一宇宙ごっこ」の世界へようこそ、ほとんどの人が、わかったようで、わからないまま「一人一宇宙」の「刷り込み⇒刻印付け」で彷徨っています。ヨーガは具体的な悟りの方法では無く「思い込み」「信じ込み」の「自我機能同期」の世界観でしかありません。「不安の補完現象」です。

「横山紘一氏」の「探求物語」は、

先般、紹介の映画「三蔵法師・玄奘の旅路」「ブッダの世界観」と同じでした。わかりますか?

「知の巨人」ともてはやされた「立花隆氏」も同様な「探求人」「観光旅行者」だったのです。「知の巨人」とは「メディア情報」「インターネット情報」が名付けた名詞でしかありません。

古今東西の「偉い人」「有名人」のいわゆる「人生」は、生物個体種「人間(ヒューマン)」としての意識現象は同じだったという事です。「生身感覚」の上に成り立っている「自我機能同期」には気づかぬままの「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びだったのです。

 

横山氏のガイドで「唯識ごっこ」をお楽しみ下さい。現実現象は「ごっこ遊びの循環」でしかありません。「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びです。百回視聴しても「意識はグールグール」です。

毎日の「メディア情報」「インターネット情報」の世界を見れば「ごっこ」である事がわかります。

こころの時代「唯識・心の秘密を解く」 23年前 横山氏当時61歳

「やさしい唯識・心の秘密を解く」2024-02-24 06:20:31

Ⅰ-「唯識・心の秘密を解く」

1-「一人一宇宙」2001年4月15日

2-「心が迷う」2001年5月20日

3-「意識のはたらき」2001年6月17日

 

Ⅱ-「唯識・心の秘密を解く」 

4-「心は微細に働く」2001年7月15日

5-「自我への執われ」2001年8月19日

6-「一切は心が生ずる」9月16日

 

Ⅲ-「唯識・心の秘密を解く」

7-「新しい身体観」10月21日

8-「識の中の自然」11月18日

9-「ヨーガの生活」2001年12月16日

 

 Ⅳ-「唯識・心の秘密を解く」

10-「覚醒の朝を迎える」2002年1月20日

11-「他者に生きる」2002年2月17日

12-「唯識をいまにいかす」2002年3月15日

 

「唯識入門」 3時間6分20秒2010年9月1日

要約コメント・公開用2「唯識入門」 2024-02-23 08:27:06

「唯識入門講座―本とDVDで考える本当の生き方」横山紘一 14年前70歳

第1章  “唯識”を学ぶ(“唯識”の教理“唯識”の歴史)

第2章 “唯識”に生きる(ヨーガ(瑜伽)の実践深層心からの浄化)
第3章 “唯識”を活かす(他人と自分菩薩として生きる)

横山 紘一(よこやま こういつ、1940年(昭和15年)- 2023年(令和5年))1月9日。83歳没 法名は一如 1997年興福寺で得度

タイトルの「DVDで考える本当の生き方」とは、横山紘一氏自身の「探求旅行」のキーワードでした。

こころの時代「唯識を生きる」 7年前 横山氏当時77歳

Ⅰ「唯識を生きる」 非公開

1-「唯識の基本思想」2017年4月16日

2-「唯識・自分とは何者」2017年5月21日

3-「唯識を体得する」2017年6月18日

 

Ⅱ「唯識を生きる」 公開済み

4-「深層・健康」2017年7月16日

5-「唯識の科学性」2017年8月20日

6-「唯識・いのちの時代」2017年」9月17日

 

〈唯識論〉の特徴を端的に示します。

1.   存在するのは「唯だ識のみ」、心だけである。したがって、心の外に「もの」は存在しない。⇒「心理主義」の世界観⇒古今東西のお話し、「心」の不安の補完用語が定着化している現実現象が在る事には「自我機能同期」さん方、全く気づけません。

2.   心には表層心と深層心とがあり、深層心として阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)とがある。⇒「心」大好き人間は「刷り込み⇒刻印付け」現象です。⇒「意識現象」と「心理的現象」の混同が当たり前の「刷り込み⇒刻印付け」

3.   心を深層から変革すれば、自分が、世界がかわる。⇒「変わった人はいません」「思い込み」「信じ込み」の宗教的信仰者でしかないのが現実現象

「心」ほど身近でありながらとらえどころのないものはありません。しかもそのありようによってはこれほど自分をくるしめ、まよわすものはありません。実生活のなかで〈唯識〉をいかすことができれば、まよいからぬけだして生きていくことができます。

「唯識観」の歴史

紀元四、五世紀には、無著(むじゃく)と世親(せしん)というインド北西部出身の兄弟によって〈唯識〉が組織体系化されました。

兄の無著は、部派仏教を最初は修しましたがそれに満足せず、大乗仏教の「空」の思想をまなびました。そして『摂大乗論』(しょうだいじょうろん)において唯識思想を理論的に体系化しました。

弟の世親も、部派仏教に最初は属していましたが大乗仏教に転向し、唯識思想をさらに発展させ、『唯識二十論』や『唯識三十頌』(ゆいしきさんじゅうじゅ)として〈唯識〉を集大成しました。

 

その後、中国の僧・玄奘(げんじょう、602〜664、『西遊記』の主人公・三蔵法師)がインドから中国に〈唯識〉をつたえ、彼の弟子である窺基(きき、632〜682)が〈唯識〉を根本の教理とする法相宗を確立しました。

 

日本へは、飛鳥・奈良時代につたえられ、南都仏教のなかで隆盛をみるにいたり、仏教の根本思想として宗派をこえてまなばれるようになりました。

〈唯識〉の基本となる重要な思想はつぎのとおりです。

1.   一人一宇宙である

2.   私たちが見ているのは心の中の影像である

3.   他者のお陰で自分は生きている

4.   知るのではない、知らしめているのである(唯識の原語)

「一人一宇宙観」

眼をとじてみてください。すると眼の前にあったすべてのものがみえなくなる一方で、ほかの誰もがはいってくることができない世界があることに気がつきます。そこで腕のどこかをつねってみましょう。いたみを感じるのは自分だけです。いたいという感覚が生じるのは自分のみです。おなじように、眼をあければ、眼の前のものは自分だけに見えるのであって、自分の眼の感覚(視覚)が生じているだけだと気がつきます。あなたが世界(宇宙)を見る、その感覚はあなた自身のものであり、ほかの誰のものでもありません。「一人一宇宙」といってもよいでしょう。このようなことは現象であって、信仰の対象ではありません。

 

唯識学派の人々は、心は、つぎの八つのタイプ(八識)から構成されると考えました。

表層心

 感覚:「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」

 思考:「意識」

深層心

 自我執着心:「末那識」(まなしき)

 根本心:「阿頼耶識」(あらやしき)

 

わたしたちは眼を開けて、多くのものを見ます。たとえばAさんを見ます。これは、眼の感覚(視覚)がはたらいているのであり、「眼識」(げんしき)とよびます。眼は、感覚器官のひとつであり、そこからはいってきた情報は、心の作用(人間の情報処理のしくみ)によってひとつの像をつくりだします。この像は、心のなかに描かれた絵⇒イメージです。

 

同様に、耳・鼻・舌・身も、情報をとりいれる感覚器官であり、それらをとおして、聴覚・臭覚・味覚・触覚がはたらき、対象を直接に認知します。

 

そしてさらに心のなかで感覚は鮮明にされ、概念的にも対象が把握されます。このようなはたらきをするのが「意識」です。たとえばあなたはAさんがきらいだとします。Aさんを見たその瞬間は誰であるかわからず、きらいでもすきでもありません。しかしつぎの瞬間、過去のいきさつからAさんの「像」にきらいという「感情」を付与し、きらいだという「言葉」で色づけをします。

 

嫌いな人にであったときに生じる嫌悪感、欲しいものを見たときに生じる欲望といった感情がなまの感覚情報に色づけをあたえます。私たちは、嫌いな人が眼前にいると思っていますが、実際にはこれらは全て、自分の心の中でおこっている過程にすぎません。

 

そして深層心(心の下部構造)としては「末那識」(まなしき)と「阿頼耶識」(あらやしき)があり、末那識は自我執着心で、表層心がエゴ心でけがれる原因となる識であり、阿頼耶識は一切を生じる「種子」(しゅうじ)を有する識です。種子とは、阿頼耶識のなかにあって、あらゆる現象を生じさせる原因のことです。

 

眼をとじて心のなかをしずかに観察してみると、種々の「影像」と「感情」と「言葉」がふかいところからつぎつぎとふきだしてくることがわかります。そのふかいところが阿頼耶識です。心のなかにあらわれてくるすべては、阿頼耶識といういわば「絵師」がえがき表現したものであり、人それぞれの阿頼耶識のありようがことなるので、「一人一宇宙」の心のありようも相違してきます。

 

〈唯識〉とは、正確には、「唯だ知る」のではなく、「唯だ知らしめられている」という意味です。

たとえばひとつのリンゴを前にして、眼をとじたりあけたりしてみると、眼をあけたとき、リンゴを見まいとおもっても見えざるをえません。つまり、わたしたちはリンゴを見るのではなく、見せられています。リンゴは、知らしめられています。では、なにが知らしめているのかというと、〈唯識〉では、深層の根本の心である阿頼耶識であるとこたえます。

また仏教では、「他者の存在のお陰で自分は存在している」と考え、これを「縁起の理」といいます。「縁」とは「(自分以外の)他の力」であり、この他の力で生かされていることを「縁起」といいます。

「観想縁起図」をながめていると、存在するのは、無量無数の他の力だけであり、自分は、ただ他の力で生かされているだけだとわかります。他の力だけがあるのであって、「自分」など存在しないことに気づいてきます。 ⇒「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの世界です。「唯識遊び」は今日も循環しています。