「総勘文抄」⇒「三世諸仏総勘文教相廃立」 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

「総勘文抄」⇒「三世諸仏総勘文教相廃立」

仏教教学では「宇宙即我」「一人一宇宙」等と表現されています。誰一人「生身感覚」で読んだ人はいません。「思い込み」「信じ込み」の「思い」の世界を循環しているだけです。⇒「信じて」「行じて」の「一人旅」です。

「言葉」「文字⇒イメージ」遊び⇒「言葉」の「変換ごっこ」「用語変換ごっこ」になっています。

実例⇒日蓮教学の「刷り込み」「条件付け」「上書き」教材の「三世諸仏総勘文教相廃立」等は「人間(ヒューマン)」の「言葉」「文字⇒イメージ」遊びの典型的パターンです。

 

「一人一宇宙」の根拠は「マルチ転写」による「体感・気づき」です。「自我機能同期」だとアントニオ猪木の「馬鹿な一人旅」になります。

「自己機能同期」⇒「生身感覚」だと「一人一宇宙」が「同化」します。「体感覚知」します。

「三世諸仏総勘文教相廃立」現代語訳1279年⇒743年前 「総勘文抄」と表記⇒日蓮ではなく「偽書」であるとの議論もありますが、「伝統文化現象」から見るとどうでもいい事です。残されている現実現象にメッセージ性があるからです。

三世諸仏総勘文教相廃立 0567:04~0558:12第14章 衆生即万法の深義を明かす

 

現代語訳

 総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきである。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのである。これは華厳経の文の意である。

 妙楽大師の止観輔行伝弘決巻六には⇒自我機能同期による「写し」「転写」「翻訳」の現象の根拠です。

「この身の一つ一つが天地の姿に摸倣していることが分かる。

頭の円いのは天にかたどり、

足の四角形なのは地にかたどり、

身中が空虚であることは虚空をあらわしている。

腹が温かいことは春と夏に法とり、

背中が剛いのは秋と冬に法とり、

四体は四時に法とり、十二の大節は十二ヵ月に法とり、

三百六十の小節は三百六十日に法とり、

鼻の息の出入りは山の沢や渓谷の中の風に法とり、

口の息の出入りは虚空の中の風に法とり、

両眼は日月に法とり、その開閉は昼夜に法とり、

髪の毛は星辰に法とり、眉は北斗星に法とり、

脈は江河に法とり、骨は玉や石に法とり、皮と肉は土地に法とり、

毛は叢や林に法とり、

五臓は、天においては五星に法とり、

地にあっては五岳に法とり、陰陽においては五行に法とり、

人の世においては五常に法とり、心においては五神に法とり、行においては五徳に法とり、刑罪においては五刑に法とる。いわゆる墨・劓・剕・宮・大辟である(この五刑は人をさまざまに傷つける刑罰で、その数は三千の罰があり、これを五刑という)。

天地の主領においては五官にあたる。五官は下の巻八に博物誌を引いてあるとおりであり、いわゆる苟萠等である。

 

天に昇っては、五雲ととなり、これが変じて五竜となる。また心蔵を朱雀とし、腎蔵を玄武とし、肝蔵を青竜とし、肺蔵を白虎とし、脾蔵を勾陳とする」と述べている。

 また同じく止観輔行伝弘決には「五音も、五明も、六芸も、皆この五蔵から起こっている。

更にまた内を治める法にあてはめてみれば、

覚る心が大王となっては、百重の内に在り、外に出るときは五官に衛られる。

肺を司馬とし、肝を司徒とし、脾を司空とし、四支を民子とし、左を司命とし、右を司録として人命を支配している。

また臍は太一君等というのであり、天台大師の釈禅波羅蜜次第法門のなかに詳しくその相を明かしてある」と述べられている。

 人身の本体を詳しく調べてみると、以上のとおりである。

ところが金剛不壊の身を生滅無常の身であると思う誤った思いは、たとえば荘周が見た夢の蝶のようなものであると、妙楽大師は止観輔行伝弘決に釈されているのである。

 

 五行とは地水火風空である。五大種とも、五薀とも、五戒とも、五常とも、五方とも、五智とも、五時ともいうのである。これらは本来ただ一つの物であるが、経々によってさまざまに説かれるのである。内典と外典とその名目が異なるだけである。

 法華経にはこの五行を開会して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。

 

 この五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。

「本覚の如来」とは「気づきが、〇〇が如く来る」の事です。「記憶」の蘇りにより現象化すると言う事です。

「総勘文抄」の文言は、「自分自身」の「身体(からだ)」が「大自然の姿」の「写し・転写現」である事が語られています。

 

お伝えした文言は「マルチバース」「マルチ転写」の世界です。

横山紘一氏は「一人一宇宙」を「唯識論」から提唱しています。いずれも「生身感覚」抜きの「物語」「ストーリー」でしかありません。「体感読み⇒自然同期」できないからです。「智慧の完成」に至らないからです。

「理屈」で理解するクセ「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びが「自我機能同期」に定着しているからです。

 

「一人一宇宙」の視点

私たちは1つの共通の宇宙に住んでいると思っている。しかしそれは、人間同士が言葉で語り合うことで、「ある」と認め合った抽象的な存在に過ぎない。

朝、目を覚ますと、その人の宇宙がいわばビッグバンを起こして再び生じる。個人が毎朝経験するこのビッグバンによって生じた宇宙には、決して他人が入ってくることはできない。

この「一人一宇宙」を〈人人(にんにん)唯識〉という。3人いれば3つの世界がある。たとえば「そこに1本の木がある」と3人で言い合うとき、3人の外に実在する1本の木があるのではなく、一人ひとりの心の中にある木の影像(観念)があるだけである。3人が言葉をとおして、あたかも1本の木があるが如くに認め合っているに

すぎないのだ。

一人一宇宙だから、その個人の気分がすぐれなければ暗い世界となり、うれしいことがあれば明るい世界に変わる。私たちは、自分の心の中にある一宇宙に閉じ込められていて、そこから抜け出すことはできない。

「一人一宇宙」を「閉じ込め」と見るのが「自我機能同期」です。「自己機能同期⇒生身感覚」となると「解放」と見る事が自然にもたらされるのです。「一人一宇宙」が「同化」するからです。

参考ブログ

「一人称感覚」の世界 2022-10-22 06:48:26

2001年(平成13年)4月から2002年(平成14年)3月までNHK 12回放送

同じ内容の書籍があります。「唯識の思想」講談社学術文庫[2358]2016年3月10日発行