心訳「般若心経」解説2
「一人一宇宙」の事です。
心訳「般若心経」公判では一般的な「自我機能同期」の「言葉」「文字」の否定が続きます。
「言葉」「文字」の否定は、ほとんどの人々は慣れていないために混迷・混乱します。先般もお伝えしましたが、意識の「作用反作用」が理解できると誰もが簡単にわかります。
宇宙は一つ続きですから、生じたということもなく、無くなるということもありません。
綺麗だとか、汚いだとかいうこともありません。
増すこともなく、減ることもありません。「空」にはそのような取るに足りないことはないのです。
聞きなさい。だから「空」という状態には、形もなく感覚もなく、意志もなく、知識もありません。
目もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、体もなく、心もなく、
形もなく、声もなく、香りもなく、あなたを触るものもなく、心の対象もありません。
実体がないのですから、「空」には物質的存在も、感覚も、感じた概念を構成する働きも、
意志も知識もありません。眼の領域から意識の領域に至るまで全てないのです。
真理に対する正しい智慧がないということもなく、それが尽きるということもありません。
迷いもなく、迷いがなくなるということもありません。
それは「空」の心を持つ人は、迷いがあっても迷いがない時と同じ心でいられるからです。
こうして、ついに老いもなく、死もなく、老いと死がなくなるということもないという心に至るのです。
老いと死が実際にあっても、それを恐れることがないのです。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを抑えることも、苦しみを抑える方法もない。
知ることもなく、得るところもない。
得るということがないから、永遠なるものを求めて、永遠に努力し、心を覆われることなく、
生きていけます。
心を覆うものがないから、恐れがなく、道理を間違えるということがないから、
永遠の平和に入っていけるのです。
私たちがあらゆるものを「空」とするために削り取り、削り取ったことさえも、削り取る時、
私たちは深い理性を持ち空なる智慧を身につけたものになれるのです。
私たちは深い理性を持ち空なる智慧を身につけたものになれるのです。
「深い理性」「空なる智慧を身につけたものになれる」のは柳澤氏の「思い込み」「信じ込み」です。「深い理性」なる事は誰も検証確認できません。「空なる智慧」の表現は読み手・受け手にとって尚更、チンプンカンプンになります。
真理を求める人は、間違った考えや無理な要求を持ちません。
無常の中で、暮らしながら楽園を発見し永遠の命に目覚めているのです。
永遠の命に目覚めた人は、苦の中にいて、苦のままで、幸せに生きることができるのです。
真理を求める人は、間違った考えや無理な要求を持ちません。
「真理」は「自分自身の現象」の事です。「求める」のではなく「体感すればいい事」です。すると自然に「我が身」から智慧が、その都度、湧き出てくるのです。
深い理性の智慧のおかげで、無常の仏の心、仏の命は、全ての人の胸に宿っていることを悟ることができました。
このように過去・現在・未来の三世の人々と、三世の仏とは、永遠に存在し続けます。
深い理性の智慧もまた、永遠に渡って存在するということです。
それゆえに仏の智慧は大いなるまことの言葉です。一切の智慧です。これ以上のまことの言葉はありません。
一切の苦を取り除く、真実で偽りのない言葉です。その真実の言葉は、智慧の世界の完成において次のように解かれました。
智慧の世界の完成において次のように解かれました。
「智慧の世界の完成」の方法・具体的手法が語られていません。「生身感覚」に気づけ無い「自我機能同期」の「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びに転じているのです。
行くものよ、行くものよ、彼岸に行くものよ、悟りよ、幸あれ、⇒「行くものよ」は「一人旅」「観光旅行」の現象化の事です。
これで智慧の完成の言葉は終わりました。
「智慧の完成」とは「我が身⇒60兆の細胞同期」の現象化⇒「生身感覚同期」の現象化を言います。「生身感覚運動・メタリズム」により自然に現象化します。
お楽しみ下さい。
「自我を削る」⇒「悉有仏性(しつうぶっしょう)」に気づくために「自我を削る」
えっと「悉有仏性」ね、どこに、仏性みんな仏性を持っている本当にそうなんです
人間の頭の中に仏性があるんです。⇒柳澤氏の「物語」「ストーリー」でしかない事に誰も気づけ無いのが「自我機能同期」です。
ただそれに気がつかないで磨いてないから、わからないだけで、そそれに気がついて、あの自我を削って生きさえすれば誰でも幸せになれるんです。
だからそれは私たちの希望でありから、あのやっぱり幸せになって世界が平和になるには、あの人間がそこまで成熟しなければならないと思うで、人間が成熟するっていうことがあのこれからの私たちの大きな課題だと思います。
「偉い人」「有名な人」の観念論⇒「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びでした。