心訳「般若心経」解説1 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

心訳「般若心経」解説1

公開用2・抜粋「自我を削る」12分23秒

「解説」をお伝えします。「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びです。

 

「生きて死ぬ智慧」⇒「般若心経」全文

人はなぜ苦しむのでしょう・・・本当は野の花のように私たちも生きられるのです。

もしあなたが、目も見えず、耳も聞こえず、味わうこともできず、触覚もなかったら、

あなたは自分の存在をどのように感じるでしょうか、これが「空」の感覚です。

 

「人はなぜ苦しむのでしょう」は、「自我機能」と言う「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びによる「自己・非自己」の対立・拮抗の現象が生成されているからです。⇒「誕生後」に作られる「自我機能」⇒「刷り込み⇒刻印付け」により「苦しみ」が湧き出て来るのです。

 

「あなたは自分の存在をどのように感じるでしょうか、これが「空」の感覚です。」

「『空』の感覚」と言われても、わからないのが一般的理解です。

「『空』の感覚」は「何も無い事」と表記されてもわかりません。何故ならば、全てが「言葉」「文字」による現象変換だからピンと来ないのです。

 

「現象還元」すると「自然現象の全てが「『空』の感覚」に近い感じです。わかりやすく言い換えるならば「空気」の感じです。呼吸している現象は「空」の働き作用です。

誕生後の言葉・文字の習得の現象も「空」の働き作用です。

仏教用語への囚われは「思考・概念」による「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びになって現象化しているのです。

 

全てを知り、悟った方に謹んで申し上げます。

聖なる観音は求道者として、真理に対する正しい智慧の完成を目指していた時に、

宇宙に存在するものには五つの要素があることに気づきました。

 

宇宙に存在するものには五つの要素があることに気づきました。

五蘊とは、人間を構成する5つの要素だと解釈されています。

色蘊(しきうん)

肉体などの物質・受蘊(じゅうん)

苦楽などの感覚・想蘊(そううん)

イメージするもの・行蘊(ぎょううん)

意思や意識・識蘊(しきうん)認識や判断

般若心経は「五蘊皆空(ごうんかいくう)」とし、この5つの要素には実体がないと説いています。⇒「五感」とは違います。

 

存在の五つの構成要素(五蘊=ごうん)は、色(=しき、物質)・受(=じゅ、感受)・想(=そう、表象)・行(=ぎょう、意志)・識(=しき、認識)とされています。色以外は精神作用です。存在の構成要素の5分の4を精神作用としているわけですから、仏教がいかに精神作用を重視しているかということがわかります。「言葉」「文字」による意識の現象支配です。

「蘊」の意味 1-つむ。たくわえる。2-おく深い。おくそこ。おだやか。

仏教用語の解説の全ては「全身の在り様」を無視した「分離・分断・分節・細分化」する「思考・概念」により作られています。

このような「分離・分断・分節・細分化」する「思考・概念」の働き作用が「自我機能同期」の現象化なのです。

「自分自身」を「自分」と「自身」に分けているのです。このような働き作用は現代人の「思考・概念」も同じです。

 

お聞きなさい。これらの構成要素は実体を持たないのです。

形のあるものは形がなく、形のないものは形があるのです。

感覚、表象、意志、知識も全て実体がないのです。

 

これらの構成要素は実体を持たないのです。

「『実体』を持たない」のは当たり前です。「働き作用」は「生身」があって始めて「実体」と言う「現象化」が起きて来るのです。

言葉で「否定」されると、意識が混乱します。「実体が無い」と言う「刷り込み⇒刻印付け」用語による「反作用」が現象化するからです。

 

「般若心経」の「否定形」の様々な表現は「作用面」を否定し「働き作用」の「反作用」を呼び起こす方法だったのです。「自我機能同期」の方々には慣れていないので難しく感じるのです。「感じる」「感じている」は「我が身」「自身」があるから「感じる」「感じている」のです。

 

お聞きなさい。彼はこれらの要素が「空」であって、生じることもなく、無くなることもなく、汚れることもなく、綺麗になることもないと知ったのです。

 

生じることもなく、無くなることもなく、汚れることもなく、綺麗になることもないと知ったのです。

わかりやすく言い直すならば、「常に一定である」という事です。

わかりやすい実例、地球上の動植物が呼吸しているという現象は「空気⇒酸素」が常に一定だからです。⇒「自然法則」「一定の法則」とは「作用反作用」を含みます。

 

お聞きなさい。私たちは広大な宇宙の中に存在します。宇宙では形という固定したものはありません実体がないのです。

宇宙は粒子に満ちています。粒子は自由に動き回って、形を変えてお互いの関係の安定したところで静止します。

「粒子」の概念は現代理科の知識です。残念ながら「粒子」は、私たち人間の感覚では感知・検知できません。

 

「固定」と言う「概念」は「人間(ヒューマン)」が現象変換した意識現象です。現実現象としては「対象化」されたモノの事です。しかし、現実状態は絶えず運動しています。実例⇒細胞運動等

 

お聞きなさい。形のあるもの、いいかえれば物質的存在を私たちは現象として捉えているのですが、

現象というものは時々刻刻変化するものであって、変化しない実体というものはありません。

実体がないからこそ、形を作れるのです。実体がなくて、変化するからこそ物質であることができるのです。⇒「作用反作用」がわかれば、わかります。

 

お聞きなさい。あなたも宇宙の中で、粒子でできています。宇宙の中の他の粒子と一続きです。ですから宇宙も「空」です。

あなたという実体はないのです。あなたと宇宙は一つです。

 

「唯識論」で言う「一人一宇宙」です。⇒横山紘一氏

「 唯識 」すなわち「 唯だ心だけが存在する 」という思想が仏教にあります。 古典物理学の唯物論とは真反対の思想です。 唯識論の横山紘一氏は「意識の探究者」でした。「お話し探求者」でした。人々は意識である「唯識現象」ではなく「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの「唯識」に付着するだけです。「生身知らずの、戯言循環」です。

 唯識塾 サイト参照の事 *http://www.kouitsu.org/ext5.html

  普通、 私たちは自分の外に事物が自然があると思っています。 たとえば、 眼の前に一本の木があるとします。 そして三人いれば、 三人がその一本の木を見ていると考えます。 しかし、 木は一本ではなくて三本あるのです。 なぜなら、 一人ひとりにとっての木は、 それぞれの人の心の中に生じた 影像 であるからです。 いや、「 木は外にある。」と言い張ってもそれはたしかな判断ではありません。 なぜなら、 だれ一人自分の心の外へ出たことがないからです。 だから木が外にあるとしても、 その木を直接認識した人はいないのです。 他人という存在についても同じです。 ある人を見ていると言いますが、 私は私の外に抜け出したことはないのですから、 その人は木と同じく私の心の中の影像です。 本当に私たちは「 一人一宇宙 」に閉じ込められた、 いわば囚人のようなものです。


  自分とは 縁起 によって生じる心の中の宇宙にすぎません。 私たちは言葉によって「 自分 」を無理に作りだし、 それを「 他人 」と対立させます。 また、「 自 」、「 他 」、「 自他間の行為 」を分別して右往左往しています。 しかし、 縁起の理を理解し、 言葉に捕らわれないで「 そのときになりきって生きること 」によって 無分別 となり、「 自 」が仮にあるとしても、 その「 自 」は「 他 」によって生かされてあると知って「 ありがとう 」という感謝の気持ちが強くなってきます。

  縁起とは、 単なる原因と結果の関係ではありません。 唯識論における繋がりを表す「 空 」の思想であるところの「 縁起 と 無分別 」です。

「 一人一宇宙 」という発想は、 特殊相対性理論を正しく理解するための大きな理解になると思います。

  ここに光を出し続ける光源があります。 それに対して多数の人が 思い思いの方向 に 思い思いの速さ で等速直線運動をして移動しています。 このとき、 彼らが見るその光源から伝わってくる光の速さはすべて同じであるというのが「 光速普遍の原理です。」そして、 Aさんから見たBさんに対する光の速さは、 Bさんが見る光の速さと異なるので、 同時性が消失するとかなんとか言って騒いでいるのです。

  自分の世界においては点でしかない他人も、 各自が無限に広がる独自の世界を持っていることは、 みんな知っています。 そうです、 アインシュタインの相対性理論における慣性系( 時空間 )は、 このようなイメージで捉えなければならないのです。 あなたの慣性系にとってはあなたの有する慣性系は無限に広がる空間ですが、 私の慣性系にとってはあなたの有する慣性系は無限に広がる空間ではなくて点でしかないのです。 ここを間違って、 みんなに共通する慣性系があると常識的に考えてしまうと、 相対性理論の矛盾に陥ってしまいます。 アインシュタインですらそこで間違てしまっているののですから、「 相対性理論 」って不思議なものです。