「始めから、終わり」 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

「始めから、終わり」

「始めから、終わり」とは、「自我機能同期」による現象変換です。意識の流れには「始めから、終わり」と言う概念感覚はありません。「自然同期⇒生身感覚」だからです。

「雲の流れ」「水の流れ」「海流」「血流」「呼吸」等の自然現象等には始まりも無ければ、終わりもありません。あるのは自然同期のタイミング現象の「流れ・循環」だけです。

「流れ⇒flow」⇒液体・気体などの流れ、流入 ※参考⇒「物質の三体変化」

 

「始めから、終わり」とは「人間(ヒューマン)」の意識現象の現象変換の見方です。

実例⇒例えば思春期の始まりは「個人・個別」の全身反応ですが、発達心理学で「思春期」と言っても不明確が現実です。ただ目安として、声変わり、初潮、陰毛の発生等を身体的目安として見ているだけで「言葉」「文字⇒イメージ」により現象変換しているのです。

青年前期・青年期・壮年期・初老期・老年期等も現象変換した見方でしかないのです。現実現象は「流れ⇒自然同期のタイミング現象」により現象化しているのです。

「タイミング現象」とは身体の成熟⇒「自然同期」です。

 

「問いかけ」⇒「悩み感覚」は自我機能同期の世界の事です。

例えば、「何のため」「どうして、何故」等の日常的な「問いかけ」は「目的探求」の現象化です。戦争・紛争になると意図も簡単に「お国の為」と大義名分に付着します。部落・民族意識の「刷り込み⇒刻印付け」の世界観が「自我機能同期」にあるからです。

 

誰も、「宇宙の為」「存在の為」「意識現象の為」とは思ってもいません。「思いもよらない世界」は「思いもよらない」のです。

 

「宗教現象」では、せいぜい「平和の為」「人類の幸福の為」「成仏の為」「仏の為」「神の為」ぐらいが「自我機能同期」の意識の範疇でしかありません。

「戦争」「紛争」になると、一気に全てが「国の為」と言う事に反転し、自我の良心意識は簡単に崩壊・崩落する歴史を「映像の世紀」は見せてくれています。

しかし人々にとっては「人間(ヒューマン)」の歴史ドキュメントでしかないのです。現在の地球上の人間現象を見ると誰でもわかります。わかるだけで、何もできないのが現実現象です。

 

「生身感覚」になると自然に「思いもよらない世界」が「思いもよる世界観」が湧き出て来るのです。人智を超える世界観が自然に現象化してくるのです。⇒「如来・去来現象」です。⇒「即身成仏」現象の循環

あらゆる全ての意識現象は「生身感覚」あっての「存在現象」の「検証証明」になっているからです。「般若心経」の「智慧の完成」の現象化です。

 

公開動画⇒中村元「般若心経」現代語訳」8分24秒 2011年4月23日

中村元氏の「般若心経」現代語訳 2023-11-29 06:10:14

 

「般若心経」の構造

1つ目のパート・・・観音菩薩が釈迦の弟子であるシャーリプトラに、その教えを説く場面から始まります。
2つ目のパート・・・観音菩薩がシャーリプトラへ呼びかけながら、「空」の思想について説いていきます。
3つ目のパート・・・「空」の思想についてさらに深めていきます。
4つ目のパート・・・「真言(マントラ)」というが唱えられます。

 

「生身感覚」になると自然に「此岸(この世)」「彼岸(あの世⇒異次元世界)」の「未完の完結」の意識現象体が「救済を求め⇒完結を求め」来訪して来ます。⇒「意識現象・意識体」には「生身が無いので生身に付着してくるのです」

「自分自身」の「心身の不快感・違和感等の不調」として受信します。心配する必要はありません。だんだん慣れて来ます。中医学では「邪気」と称する場合があります。「ドグラ・マグラ」の意識現象です。⇒織本順吉氏に観察されている憑依現象

音読「マントラ」⇒音声信号を送信すれば、来訪の「意識体現象」は「完結循環」します。「心身の不快感・違和感等の不調」が消去されます。

 

音読「マントラ」⇒サンスクリット語の原文(音訳)

1-「ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい」

「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦」

2-「カラー・アウト・オブ・スペース」⇒「色即是空・空即是色」の事です。

3-「ビックバン・バン・バン」⇒電磁波現象の「アップ・ダウン」です。

4-「ナマミ転写・マルチ転写」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」です。

音読「マントラ」は、音声信号です。電磁波同期をコントローする「音声による電磁波現象」です。

「言葉」「文字⇒イメージ」遊びではありません。電磁波同期による「現象コントロール法」です。

 

公開動画⇒中村元「般若心経」⇒「現代語訳」 8分24秒 2011年4月23日

全知者である覚った人に礼したてまつる。

求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

 

シャーリープトラよ、

この世においては、物質的現象(注1)には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得る)のである。

実体(注2)がないからといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

(このようにして)およそ物質的現象とというものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。(11頁)

これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。

シャーリプトラよ。(11頁)

この世においては、、すべて存在するものには実体がないという特性がある。

生じたということもなく、滅したということもなく(注1)、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

 

それゆえに、シャーリープトラよ、

実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識のりょういきにいたるまでことごとくないのである。

(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもない)

 

それゆえに、シャーリープトラよ、

実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識のりょういきにいたるまでことごとくないのである。

(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなるなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。(13頁)

 

過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。

それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真言であると。

その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。

ガテー ガテー バーラガテー バーラサンガテー ボーディ スヴァーハー⇒「音訳」

日本語音訳⇒「体内音・胎内音・宇宙音」に同期する音声信号「般若信号」です。

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい

菩提薩婆訶 般若心経
ぼじそわか はんにゃしんぎょう

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。)

ここに智慧の完成の心が終わった。(15頁)

「言葉」の世界は、言葉を発した瞬間消失します。」⇒身近な「空体現象」です。

⇒「生体振動⇒声帯振動⇒空気振動」⇒「電磁波振動」として瞬時に現象化し生滅している現実現象です。

人間は、この「空体現象」を電気⇒電磁波を活用し「記録変換」を行い「残している⇒固体化」している事には誰も気付いていません。⇒「映像の世紀」は「空体の現象化」です。

「般若心経」で言う「空」は「空体現象」の事だったのです。「言葉」「文字⇒イメージ」変換により「物語」「ストーリー」として(個体化)によるメッセージだったのです。

「物質化する現象⇒三体」を感知・覚知すると「自我機能同期」の「言葉」「文字⇒イメージ」が「空体」である事がわかります。⇒「三体現象」に「空体」が含まれている、または「空体」を追加し「四体」としてもわかりやすいです。「四諦⇒生老病死」にも通じます。