白河天皇の第二皇子である善仁(たるひと)親王が、八歳で即位
しました(堀河天皇)。父帝とは違い優しく温和な性格で、政治の
表舞台に立つことはほとんどなく、学問・和歌・管弦に情熱を
注ぎました。十一歳で元服すると叔母で三十歳近い篤子(とくし)
内親王が入内して妃となりました。妻というよりも母のような后の
薫陶を受け「末代の賢王」と言われるまで徳を磨き、剛毅な関白・
藤原師通(もろみち)の補佐により朝廷の政治を取り仕切りました。
篤子との間に皇子女は無く、大納言藤原実季の娘苡子(いし)の
間に産まれた宗仁(むねひと)親王(次の鳥羽天皇)を皇太子と
しました。苡子は産後すぐ亡くなったため、宗仁親王は白河法皇
のもとで養育されました。堀河天皇もあまり丈夫でなく、二十七歳
のころ病気を発し、二十九歳で崩御しました。