冷泉天皇の第一皇子である師貞(もろさだ)親王は、円融天皇
の即位とともに生後十か月足らずで皇太子になりました。これは
外祖父の藤原伊尹(これただ)が摂政だったからです。しかし師貞
親王が十七歳で即位(花山天皇)したときにはすでに伊尹はこの
世になく、弟の兼家の時代でした。兼家は自分の外孫・懐仁(やす
ひと)親王(次の一条天皇)を早く皇位につけたかった。花山天皇
の在位は三年と短いのはそれもあるが、直接の退位の原因となった
のは突然の出家でした。
花山天皇は即位の年に入内した忯子(しし)をことのほか寵愛しま
した。しかし忯子は翌年子供を宿したまま崩じてしまいました。
忯子を亡くしたショックに乗じて、兼家の三男・道兼が出家をそその
かし、天皇は東山の花山寺に入って出家してしまいました。
出家後の花山法皇は仏道に励み、比叡山・熊野・播磨などできび
しい修行を積み、各地の寺に伝説的な足跡がのこっています。
法皇はまた風流者としても有名で、和歌・絵画・建築・工芸・造園
などに非凡な才能を示しました。また藤原公任(きんこう)の撰した
「拾遺集(しゅういしゅう)」を増幅して「拾遺和歌集」を編纂、その中
には勅撰和歌集では初めて連歌(れんが)を収録しています。