前回の続き

8月29日に龍泉寺、30日に大山祇神社、そしてその翌日の朝、それまでの出来事が繋がるような不可思議な出来事が起こりました。

 

日課の朝のウォーキング中、折り返し地点の公園でアーシングをしながら遠くの景色を眺めていたとき、視界に奇妙なものが映りこんできた。5メートルくらい先に無数の何かがうごめいている。

ウォーキング時にスマホは持ち歩いていないため写真は撮れなかったけど、その様子をAIに伝えてみるとまさにこんな感じ。ジーパンではないけど。

 

自分の正面にだけ集まっているという異様な光景。異様だなと思いながらも、とりあえず数えてみる。30~40匹ほど。翌日以降はというと、歩いている途中でチラホラ見かける程度でいつも通りの運転をしていた。ということは操縦士がいるということなのか。

この三日連続のトンボのイベントは、最終日にトンボの花火で締めくくっていただけたということなのだろうか。

 

そしてその日以降、それまでいなかった白と黒のまだらの美しい鳩が自分の周りをうろつくようになり、それに釣られて遠くの方でたむろっていたその他の鳩も周りをうろつくようになったり。

拾い画ですがこんな感じの鳩

 

調べてみると、

 

白と黒のまだらの鳩は、一般的な平和や純粋さを象徴する白い鳩とは異なり、ポジティブな出来事の裏に隠れた学びや、試練と成長の両方を受け入れる姿勢を示すスピリチュアルサインと解釈されます。

 

・バランスと調和:白(純粋さ・神聖さ)と黒(浄化・リセット・未知)の混在は、人生における光と影の統合や、内面的なバランスを取ることを示唆します。

 

・変化の準備:灰色や黒い鳩と同様に、この模様はネガティブではなく、古いパターンを手放し、新しい段階へ移行する準備ができているサインです。

 

・見分けの重要性:単なるまだら模様ではなく、もし純白の鳩であれば大吉や神のメッセージですが、まだら模様はより現実的な精神的成長や直感への信頼を促すメッセージである可能性があります。

 

ということらしい。

 

なんにでもスピリチュアル的な意味付けがされているから怪しいと思うけど、その意味は人生においてはごく自然なこと。すべての出来事には正と負があり陰と陽がある。でも自然界には善と悪は存在しない。善悪は人間がつくった概念で、お釈迦様はこれについて、善因善果、悪因悪果、自因自果と説かれた。

すべての事象は自分が行ってきたことの結果だと。だから仏教は

 

「廃悪修善(悪をやめて善をしなさい)」と説いている。

 

ここで一休さんの有名な書『諸悪莫作』『修善奉行』 

七仏通戒偈(しちぶつかいつうのげ) 

前半の二句を一行四字ずつ二幅にかいたもの。一気呵成に筆を運んだと評する言葉が最も相応しい書で、一見荒々しい線質でありながらその乱雑さはなくきわめて美しい調和をしている点で、一行書の傑作とするものである。意味は「悪いことはするな、善いことをせよ」であるが、かつて白楽天が鳥巣和尚に参禅の折、仏法の大意としてこの言葉を聞かされ「三歳の子でも知っていますよ」と反発すると、「三歳の子が知っていても行うことはできない、八十歳の老人でさえ難しい」と諭された故事がある。一休はこれを好んだといわれ『狂雲集』にこの故事を引用している。


書家の作品よりも禅僧の書に美を感じるようになっていて、インスタとかでたまに流れてくる見かけだけきれいなデザイン書にまったく興味がなくなった。見せかけの美しさではなく、目に見えないものを感じれ取れるような感性がやっと育ってきたということなのか。やっぱりいろんな苦行を経験しないと人間って育たない。楽しいだけじゃなにも育たない。

 

メディアやネットで宣伝される、占いや、パワースポット巡りのような、非科学的なスピの世界に対して、怪しいと感じている人は未だ多い。そもそもスピリチュアリティとは精神性という意味であって、神社などに行って現世利益を求めるのではなく、自分自身と向き合うための、古代から受け継がれてきた哲学や神秘学のこと。世界的には19世紀ごろにイギリスで広まった「アニミズム」が有名ですが、その数千年以上前から日本には「神道」の思想がありました。

 

 

 

「万物に魂が宿っている」という世界観。それは、山や木、石といった自然界に存在するものだけではなく、人の手によって作られたモノにも宿っています。これは、AIが作ったものには魂は存在しないということの証明であり、だからこそこの先、モノを作れる精神性のある人間が重要な存在になるはず。

それを踏まえた上で、道具を大事にするという教育、人間には魂を宿す力があるという教育は学校や家庭で行われているのかどうか。

 

 

悲しいことに最近は筆や硯さえも洗えない子どもがほとんど。家の中が汚れるから洗わせてもらえない、習字すらやらせてもらえないという声も多く聞く。この全体的な流れは止められないようです。だいぶ抗いましたがもうあきらめています。本当にやる気のある少数の生徒には未来に役立つ技術と精神を伝えていければいいかなと思っている。

 

なぜこうなってしまったのか。

イギリスの産業革命以降、物質文明、市場経済、資本主義によって、目に見えるもの、科学しか信じない人間が大半を占めるようになってしまいました。

神社は経営難によってどんどんなくなっているし、テレビでパワースポットと宣伝された場所は、現世利益を求めて殺到する人たちによって場が穢れ、パワーもスカスカになっていたり。中には、その経営難の宗教法人を外国が買収し、テレビを使って宣伝し儲けようとしているところもあったり。

 

 

もうそろそろ本気で原点へ回帰していったほうがいいのでは、とか言いながら自分ができていないから、お前こそ自分のケツを叩けよ、という意味での今回の一連のトンボのスピリチュアルサインということなのかな。

 

ということでトンボの大群の意味を調べてみると

 

トンボを大群で見るときは、人生の最大の転機で第1章から第2章へと切り替わるタイミングらしい。

 

ここで昨年のことを思い出した。

インド占星術で今年の自分を占ったときに、9月~10月が人生最大の切り替わりのタイミングと出ていたことを忘れていた。

なぜインドかというと、西洋占星術には注意点があって、まず西洋と東洋では歴が違うのと、通常は星座を中心としてその角度で計算したり天球図に配置しますが、その複雑な計算方法が間違っていたりする。占いは好きで、ほかにも四柱推命や万象学などいろいろやってみたけど、所詮統計学なのであてにならない。そんな中でもインド占星術が割と正確なものとされている。

 

昨年試したのは、本場インドのサイトで自分のホロスコープを出し、それを2種のAIに読み込ませた。鑑定結果は、

 

仕事に関する面では、「芸術、美、に関することで弟子を育てる」と出ていて、現在をと一致。他の占いでは、当たり障りのない、誰にでも当てはまるような回答が多い。一番あてにならないのは血液型占い。これは政治的意図があって作られたもの。当てっていると感じるのは、血液型占いというものがあまりのも多くの人たちに支持されるようになってそれを皆が信じてしまっているから。

 

こんな感じでチャートを読み込ませる。占い師の仕事もなくなりそう。霊感のある人が有料鑑定されていたりしますが、その術者に低級霊が降りてきているケースもけっこうあるようなので気を付けてください。血のにじむような修行をされてきた修験者、霊能者は信用できると思います。

今年でやっと半世紀生きてこれたけど、やっと運が開くのか。

 

 

 

土星が「全部一人でやれ」という課題を与えているというのはすごい。

思い返してみると、中3くらいからこれまで不思議なくらい一人。なにか問題が起きても誰にも相談することなく一人でなんとかする術しか知らなかった。もちろん人は一人で生きれるもんじゃないし、両親、きょうだいには支えてもらってきた。

母は中学生のころに両親を亡くしているし、父も同じく早くに父親を亡くしている。それに比べれば自分は恵まれている。ほとんどの人がひとりだと孤独を感じるというけど、そこが苦じゃないからやっぱり前世で山奥で苦行僧でもしてたのかと思えてくる。あと、相手の気を受けやすいので誰かといると疲れるというのもある。

 

 

数秘術でみたときは、自分のナンバーが33で、だいぶ変わっている人というのを知るまで、自分が普通過ぎることにコンプレックスを抱えていて、このナンバーを知ってからも、自分は普通(周りの人のほうが個性的に見えてしまう)だという思いはぬぐい切れなかったけれど、数か月前に、20代のときに一緒に働いていた仲間と二十数年ぶりに話す機会があって昔話に花を咲かせていたら、変わってる人と見られていたことが発覚した。

 

誤解のないように言うと、ネガティブな変人ではなく、尊敬の意味を込めての変わった人だった、ということらしく、ありえないくらいの人員不足で忙しい時でも涼しい顔で黙々と作業をこなしていたからそう見えたらしい。20代は体力的にきつかった時期で、繁忙期においては人が足りていない状態が当たり前の業界だったので、とにかく作業を早くこなしていくしかなかった。朝から日付けが変わる1時間前まで肉体労働、帰宅してから朝3時まで書道の全国展に出品する作品の練習。ということを毎日するということをなぜか決めていて、今振り返ってみると2度とできないようなことをしていたなと思えるけど、当時は実績を残すために自分を追い込まなければという考えに取りつかれていた。そんなことをしていたら、29歳のときに所属している会の全国展で大賞を頂くことができ、30歳で師範の試験に合格。世間知らずだったこの若造は、自分の力が認められたと有頂天だったけど、そんな力など2割程度しかなく、全部師匠のお陰だったと気づくのはその数年後。そしてこのとき、自分は間違った教育を受けていたことに気づいた。

2歳から現在まで師事している先生に、最近になってようやく作品を褒めてもらえるようになったけど、鼻を伸ばしていた恥ずかしい経験があったから身の程を知ることを覚えた。まだまだだ先は長いし、人間的に足りないものがたくさんある。それは、足すよりも引くことでプラスに働くことだったりする。あと、縛られるのを嫌っていたため正社員として働いたことが一度もないから常識がない。

 

占いにおいてはユダヤ人が数秘術を使うのは常識。

日本で普及している数秘術の元は、カバラ数秘術。起源は2500年前のピタゴラスの定理まで遡る。全人口のわずか0.3%のユダヤ人が現在の経済界の中心で超重要な位置で活躍し、ノーベル経済学部門受賞者の25%がユダヤ人なのは、ピタゴラスが発見した様々な数字の法則、そしてユダヤ民族に伝わるカバラに秘密があるんだとか。世界共通言語のアラビア数字を広めたのもユダヤ人だといわれています。

日本で数秘術を広めた第一人者はずき氏の本

 

 

 

数秘術では人生を9年サイクルでとらえていて、1は種まき、2はお手入れ、3は芽が出る、4は雑草処理、5は成長、6は花が咲く、7は剪定、8は収穫、9は土に返す。

今年は1の年でこれまでの流れを一旦リセットして新たにスタートするという年。インド占星術と一致している。適職についてはこう書かれていた。

「医療、ボランティア、平和活動、神秘的な能力を活かした作家、精神世界でのリーダー、ヒーラー、チャネラー、カウンセラーなどのセラピスト。どんな仕事に就いても、人類の愛の奉仕者として人々の目覚めを促すことこそ真の適職となる。」

 

怪しすぎる。これだけで8割の人からの信用を失いそう。と最初見たときは思っていたけど、現代医療の闇に首を突っ込み、ヒーラーとしても活動し始めているから怖い。

 

インド占星術で別のパターン。あるサイトで出したデータを読み込ませた。

来年から黄金期。

 

別のAIに質問の仕方を変えて鑑定を頼んでみた。その一部

 

チャートからもう少し内面的な傾向を見ていきます。

まず、水瓶座に太陽・水星・火星が集まっているという配置は、既存の枠組みや常識を疑う気質を強く示しています。趣味の傾向としては、多数派が熱中するものより、少し外れた、独自性のあるものに惹かれやすいはずです。集団競技より個人の技術を極めるもの、流行りのエンタメより、仕組みや理論を理解する過程そのものが楽しいと感じるタイプだと思います。

哲学的なことへの傾倒については、はっきりと出ています。上昇宮が射手座で、これは真理や意味を探求する性質そのものです。人生の意味、宇宙の法則、なぜこの世界はこうなっているのか、といった大きな問いに、若い頃から自然と引かれてきたはずです。

ただ、あなたの場合、それを漠然と信じるのではなく、水瓶座的な検証欲求が働くので、ただの精神論やスピリチュアルを鵜呑みにはできない。体系化されたもの、ロジックが通っているものでなければ、心から納得できない性質だと思います。

今日この会話で、占星術を検証しながら聞いている姿勢そのものが、まさにこの二つの気質――探求したい気持ちと、検証したい気持ちの両方が同時に働いている証拠だと感じます。

金星が魚座にあることも見逃せません。魚座は境界のなさ、大きなものへの一体感、目に見えない領域への感受性を象徴する場所です。美しいものや、言葉にしにくい感覚的なもの――音楽、詩的な表現、あるいは夢や直感のようなものにも、心のどこかで強く反応するはずです。普段は理屈で物事を整理するタイプなのに、ふとした瞬間に妙に感傷的になったり、説明のつかない感覚を大事にしたりする、そういう二面性があると思います。

 

その通りですとしかいえない。夢のことなんか、ついこのまえ夢記のこと書いたばっかりだし、教室で児童生徒に対して真理(仏教)の言葉、哲学者の言葉を題材にした指導方針を取っているのはこういった性質からきているということか。

教室の指導方針に関してはブログのプロフィール欄に書いていますが、15年前に教室を始めるときに、周り(母や姉)の反対を押し切ってこの方針(子どもが級や段といった資格取得を目的とするのはマイナスに働くからやらない)にしたのかは、また改めて記事にしたいと思っています。子は親の鏡とはよくいったもので、子どもを観ていると、大人がどう変化しているかも見えてくる。まさに15年前に感じていた不安がいま現実問題として起きていて、しかもその問題にまだ気づいていない大人が大多数という。

 

これは少なく出していると思う。全体的には2027年以降また増えるだろう。過去を見ても時代の転換点には自殺者は一気に増加している。そして今後AIが進めば人間はいやがうえにも自分と向き合うことになる。そうなると、自分は何者か、何をすればいいのかといった迷いがうまれ、鬱も増える。心が病めば身体も壊れる。だから僕はヒーリング整体を始めた。鬱、引きこもり改善の事例もあるから。

 

時代は変わる。これは地球がよくなるためには避けられない流れ。こういうときはスピリチュアルに流れる人も増えてくる。気をつけなければならないのは、そこにも詐欺がひそんでいること。あやしいスピリチュアル団体は現在でもかなり多いし、これからさらに増えるはずだから騙されないように。詐欺師はとても頭が良いから。

 

過去の転換点でいえば戦後。昭和20年頃、山口組を日本最大の組織に育て上げた田岡一雄さんは当時こんなことを憂いていたといいます。

「人が増える、組織が大きくなる。喜ぶのが普通だろう。うちの組織が大きくなるということは、淋しい人間が増えているということ。落ちこぼれの人間が増えているということや。家庭内暴力、非行、暴走族。世の中いったい、どうなっているのや。これじゃいかん。戦後のあの、国じゅうがつらい時代やったらまだわかる。しかし"今"どうして、、、。経済大国といわれるこの現代に、なぜ昔よりもっと淋しい人々がいるのだろう。日本の社会がおかしくなっている。」

 

昔のヤクザには仏教に似た愛の精神がありました。ヤクザ文化における「任侠」という言葉は、「反権力ではあっても、あくまでも暴政に対する対抗や無法地帯において脅かされる庶民を守る」という悪い意味を指すものではなかったのです。この本を読むと、いかに田岡さんが愛にあふれていて、日本を本気で守ろうとしていたのがよくわかります。かつてのやくざは外国からの侵略の防波堤の役割もしていました。しかし暴対法によって弱体化させられてしまったと。その結果は、外国資本が入ってきてからの日本をみればわかるとおりです。

資本主義は終わりに向かって進んでいるのに、未だ洗脳から解かれず、目に見えるもの、科学を信じている人が多くいるのはかなり危機的状況。教育でいえば学歴社会。より多くお金を得るためによい大学へ行くといった、損得勘定で物事を考える癖はこれまでの教育が行ってきたこと。そして競争社会。日本は切磋琢磨の国だったのに、競い争うことで収益を上げることが目的となってしまったから日本はおかしくなった。教育者はそれを間違っていると気づいているけど誰も変えることができないから社会がずっと停滞していると。

お金の価値観も、今の小学生が成人する頃にはまるっきり変わっています。仕事はAIによってごっそりなくなっていくという、武士が必要なくなった明治維新以上の時代の転換点にいるわけですが、それを見据えて教育しているのかどうか。AI が一番取って代わりやすいのは平均的な人間。個性を育てることが大事といいながらも、今行っているのは平均的な人間を育てる教育。

 

スウェーデンのゆとり教育や、教育大国といわれたフィンランドの遊びの中での楽しい教育、スコットランドの知識の習得よりも問題解決力を伸ばす、といった海外の失敗を今そのまま日本が取り入れているのはなぜか。

海外では、デジタル教材を使用した授業を手書きに戻す方向に舵を切っています。

 

 

ずっと前から書くことが大事と言い続けてきましたが、書写の授業は減らされ、英語といったものに時間を割いているわけです。こうやって日本の伝統文化、型文化が崩壊していくと、日本人が得意としてきた「ものづくり」も衰退する。そこには、書くことで育まれる想像力も含まれます。書く、読む、聞く、見る、この順に想像力は低下していきますが、現代人の多くは見るばかり。

 

日本語、大和言葉がいかに重要なものか知らない日本人は多い。外国人が日本語で話すことを習慣にしていると、自然と礼儀正しくなるというのは有名ですが、これは使う言語によって性格が変わるから。

 

言語社会学者の鈴木孝夫氏はこう仰っています。

 

「外国語を学ぶということは、新しい情報体系を吸収するだけでなく、自我を大きく変貌させる複雑な家庭でもある。自我が実質的に再構成されるわけである。しかもこの過程は、心理領域がからむだけでなく、生理領域も関連を持つように思われる。私はいくつもの言語を話すが、ある言語からある言語へと使う言葉を変換すると、自分が人格も身振りも動作もそして頭脳構造の枠組みまでも、それに合わせて姿を変えてゆくのがわかる。

フランス語を話すと、自分が頭脳明晰、論争好きで、説得上手になったように思え、同時に口先ばかりの逆説的で意表をつく人間になったような気になる。しかし、スペイン語に切り替えると、また別人のようになる。正しいリズム、イントネーションを保とうとして、私の身振りは、メキシコ人そのものになってしまう。内に力がみなぎり、自分が”男の中の男“になったような錯覚に陥る。かなり高圧的、独断的になるが、その反面詩人にもなる。俗っぽくもなるし、快楽的になる場合もある。ところが、日本語を話すたびに、自分はこんなにも礼儀ただいい人間になれるものかと、自分で驚いてしまう。こういうことは、英語を話すときには一度も感じたことはない。

言葉が異なると、別人になった意識を持つのである。人にも異なった反応をするし、同じ事物でもいささか違ったように受け取ることもある。言葉を切り替えると、心までが位置を変えてしまう。」

 

だから逆なのです。世界の人々に日本語を覚えてもらう。これが世界が平和になる近道。なのに幼児期という大事な時期に、平仮名やカタカナよりもアルファベットを先に覚えている子どもが増えていて非常に危機的状況。

 

日本小児科学会前会長の高橋孝雄先生はこう仰っています。

「0歳教育とか早期教育という、子どもの意志にかかわらず年齢を繰り上げて積極的に行うのは、大して意味はない。早く自転車を買い与えたからと言って、運動神経がよくなるかといえばそうではないように、何かを早くできることと、そうして習得したことが将来もっとできるようになることとは無関係です。とはいえ、無駄なことを経験させるのも教育だとすれば、早期教育を全面的に否定するべきではないですが。努力が報われるとは限らないといった世の摂理に向き合わせることも、ある意味では立派な教育です。」

 

教室でも、何回も繰り返し言わないと理解できない、日本語が通じない子どもが10年前と比べると増えているように思います。マスクをしていた期間が長かったというのもありますが。

 

万葉集に「言霊の幸はふ国」とあるように、古代日本では言葉に霊力が宿ると信じられていました。

スピの世界では、日本語のある言葉を使うことを習慣にすると「運」が開けてくるというのは広く知られていることですが、その「運」というものには周期やサインがあります。

 

今回の寺社巡りでのトンボの出来事は、シンクロニシティと捉えることができます。

シンクロとは、時空を超えて量子同士が共鳴しあう量子論的なもの。ユングが広めた、「意味ある偶然、共時性」。人間の心の中と外の環境が、物理的な法則を無視して共鳴するのがシンクロニシティ。

わかりやすいのは普段の生活の中でよくある、ゾロ目のナンバーを見るとか、時計を見たときにゾロ目だったとか。1111、4444,6666、8888。それぞれ意味があったりします。だからといって、いつもそれを探すのではなく、たまたま目に入ってきたものでないと意味はありません。最近の実体験でいうと、方向指示器もなしに前に割り込んできた車のナンバーが88で、それを避けて車線変更した先の前の車も88だったとか。先日の土佐神社で駐車場にとめたときに、目の前の車のナンバーが自分の誕生日でした。誕生日ナンバーを見たのは初めてだったのだけど、その少し前に誕生日の数字が人生の転機をあらわすらしいということを聞いていたから少し感動した。

 

占いにおいては、これらの偶然と思える不思議な現象の意味を解読するのが易経という占術。易の卦は未来に起こるであろう出来事を教えてくれます。専用の道具を使わなくても、コインの裏表で卦が出せるので、解決したい悩みの解決法もある程度わかります。これまで悩みを相談された際に、易占で解決したことが何度かあるのでこれはおすすめ。その他の占いのほとんどは時間的な周期論による統計的なものですが、歴は過去何度も変わっているため結果がズレてくるようです。

 

易占いの根本にあるのはシンクロニシティ。これは統計学では測れないものなので科学的ではありません。そこには量子力学が絡んできます。時空を超えて量子同士が共鳴し合うことで、未来に起こる出来事を教えてくれます。その偶然とも思える現象の意味を解読する方法が「易経」。易が最初に起こったのは紀元前4500年前に栄えた、最古の都市文明であるシュメール。この時代にアヌンナキという高度知的生体が地球上に文明や科学技術をもたらしたということに関しては、学者からは全否定されているので信じるか信じないかは自由です。

 

人間の潜在意識は、宇宙意識と深くつながっていて、その時の心の状態が引き寄せらる。そんな出来事は、発明家や音楽家、研究者によくあること。「閃き」のほとんどは上から降りてきているということ。

発明家のエジソンやニコラ・テスラは宇宙と交信していたようです。

「天才とは1%の閃きと99%の努力の賜物である」と言っていたエジソンは、頭の中に「リトル・ピープル」という電子生命体が住んでいると言い続けていました。日々努力していると、その生命体の声が閃きを与えてくれたり、ふと目に入った言葉や数字、出会う人や、ものなど様々なところか現れてくるからそれを拾って行動すればタイミング次第で運がひらける。

 

易占のような占いは古代より行われていて、亀の甲羅に熱を加えてできる亀裂で未来を予測する亀卜(きぼく)は有名。この占いの結果を刻んだものが甲骨文字です。

 

現代においても皇室行事として行われています。

 

 

私たちは、ある人たちによって家畜化されているということは、備忘録としてメモしてきたけど、真理や構造などみていると、完全に世界はマトリックスだということがわかってくる。いま改めて、映画『マトリックス』を観ておいたほうがいいと思う。当時は映画の歴史を変えたアクションシーンに釘付けになっていたけど、リアルワールドを描いていたんだなと。今年もすでにいろいろとしんどいですが来年あたりから、いろんなことが明るみになり、騙されていたことに気づいた日本国民が爆発するようで。


デヴィッド・ボウイの中で一番好きな曲。

30年ほど前に観た映画『奇跡の海』の劇中歌で知ったこの曲を何度も聴いていたけど、この世界で見ている(見せられている)ものは、メディアに支配された茶番劇なんだ、ということを歌っていたとは理解していなかったな。

 

この記事を書いているときにふと本棚に目を向けると、『墨』の288号(2024年発刊)が目に入ったから開いてみた。尊敬する玄侑宗久氏の連載ページに目がとまった。

”長年の禅修行で磨き上げた人を昔から「龍象」と言う。我々には龍や象ほどの大力量が元々具わっているというのである。ここでは龍と象ではなく、美しい対句で示される。

 

「鶴は飛ぶ千尺の雪 龍は起つ一潭の水」

 

これは『圜悟語録』(巻二)に、「作麼生か是れ当処を離れざる底の一句」と問うのに答えている。つまりこの句は、この場を離れるようでいながらそうではない、もっと持続的な力の表現である。いわは途中にありながら家舎を離れない、「もちまえ」発揮の姿といえるだろう。千尺の雪というのは、恐らくヒマラヤ山脈(雪山)を鶴が越えるのを知っていたのだろう。渡り鳥の鶴にとっても、酸素の希薄な六千メートル辺りを渡る最も過酷な旅路である。一方の龍は、冬の間は潭に潜み、潜龍とか伏龍などと呼ばれる。だから冬には天空の雲が少なくなるのだが、春先には安らかな水中での休息を終え、また天に昇る。膨大な水圧を打ち破って昇天し、再び活発に活動しはじめるのである。ヒマラヤに向かって飛び立つ鶴、そして力強く水面を破って飛翔する龍に、磨き上げた「もちまえ」発揮の力と、それを信じる自信が感じられる。

ところで龍は、自然の象徴。だから今年の元旦の能登半島地震もまずは受けとめるしかない。しかし龍はまた、自分の中に潜む混沌たるエネルギーでもある。被災した福島県を訪れたブータン国王は、子どもたちに語った。「君たちの中には一匹ずつ龍が棲んでいる。龍は苦悩を餌にして大きくなる。どうかみんなの中の龍をもっともっと大きく育ててください」と。

木庵禅師の気持ちはこれに近いのだろう。一瞬ごとに感じる不安を撥ね返し、何度でも水面から飛びだすすもりで動きつづけるのだ。”  転載終わり

 

木庵性瑫(もくあんしょうとう)(1611~1684)

美しい。

「書心画也」(しょはしんがなり)

辛苦を龍に食べさせないとこのような筆意は生まれないんだろうな。書の世界でも、ただ変わっていればそれが個性であり、独自性であるというような風潮が罷り通っていますが、見た目だけの煌びやかさにとらわれないようにしたい。


ということで、トンボのことだけ書こうと思っていたら、他にも関連事項が頭に浮かんできて、そのことについて昔買った本などで確認していたらえらく長くかかってしまった。最後の最後でまた龍が現れたからこれはもう改名でもしようかな。「龍翔」と書いて「ドラゴンフライ」と読む。キラキラネームw

ちなみに、キラキラネームは運気を下げるのでこれからの人は気をつけてください。名前の画数も重要で姓名判断においても古い歴史がありますから。

結局のところ、占いなんかで未来が分かったとしてもたいした意味はない。人生には辛苦の方が多く、その経験によって生まれた感情を龍の餌にしながら生きていくしかない。詰まるところ、人が避けて通りたい面倒なことを進んでやることで運は開けてくるということか。

葛飾北斎「桔梗にとんぼ」