【死ぬ瞬間 キューブラ-・ロス】第2段階:怒り、嫉妬、八つ当たり、そして、その裏のメッセージ | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。


・Anger begins in folly, and ends in repentance
        (Pythagoras)

 怒りは無謀に始まり、後悔に終わる
        (ピタゴラス)


・Anger is a wind which blows out the lamp of the mind.
        (Robert Green Ingersoll)

 怒りは心の明かりを吹き飛ばす
        (インガーソル)



こんな「怒り」の名言もあります。


キューブラ-ロスがとなえた、「死の受容プロセス」の5段階

1.否認  denial
2.怒り  anger
3.取引  bargaining
4.抑うつ depression
5.受容  acceptance


今回は、2段階目の「怒り」について。


■死ぬ瞬間 キューブラ-・ロス


■第二段階/怒り Anger


絶望的な知らせを聞かされたときの私たちの最初の反応は
「いや私のことではない、そんなことはありえない」というものだ。

この反応は、私たちがやがて理解し始めたとき、
「ああそうだ。私だ。間違いなんかじゃない」
という新しい反応に取って代わられる。

幸か不幸か、自分は健康で元気だという偽りの世界
死ぬまで持ち続けられる患者はほとんどいない。

第一段階の否認を維持することができなくなると、
怒り・激情・妬み・憤慨がそれに取って代わる。
そして必然的に「どうして私なのか」という疑問が頭をもたげる。
 "Why me? It's not fair!"
 "How can this happen to me?"
 "Who is to blame?"

(中略)

問題は、自分を患者の立場に置いて、
この怒りがどこから来るのか考えられる人がほとんどいないということだ。

おそらく私たちだって、
こんなにも早く自分の人生が中断されてしまうとしたら、きっと怒るだろう。

一生懸命貯めたお金で、2、3年休みをとっていざ旅行や趣味などを楽しもうという時、
「私にはできないのだ」という事実だけが立ちはだかったら怒るだろう。

そういうことを楽しんでいそうな人に対して怒りをぶつける以外、
私たちはどうしたらいいというのか。

(中略)

怒りを抱えている患者は、どこを見ても不満を感じる。
テレビをつければ、楽しそうな若者達のグループがモダンダンスか何かを踊っている。
そんな光景は、動くと痛かったり、なかなか動けない患者を苛立たせる。
西部劇を見れば、人々が冷酷にも撃ち殺されたというのに、
そのそばにはビールを飲みながら見物している人々がいる。

患者の目には、その見物人と、自分の家族や世話をしてくれるスタッフが
同じように思えてくる。

破壊、戦争、家事、その他悲しい出来事ばかりのニュースを聞いても、
それは自分から遠く離れたところで起こったことだから、
一人ひとりの戦いや窮状などには興味も持てず、すぐに忘れてしまう。

だからこそ患者は自分が忘れられていないことを確かめようとする
声をあげて叫ぶ。要求する。
不平を言い、注目を引こうとする。
おそらく究極の叫びはこうだ。
「私は生きている、そのことを忘れないでくれ。
 私の声が聞こえるはずだ。
 まだ死んでいないのだ。」


(中略)

悲劇は、私たちには患者の怒る理由が思い当たらず、
本来、患者の怒りとその対象となる人とはまったく、
もしくはほとんど関係ないのに

それを自分個人に向けられたものとして私たちが捉えてしまうことである。

スタッフや家族が、患者の怒りが自分に向けられたかのように反応すると、
患者の側もますます怒りを持って応酬し、患者の敵対行動はますます激しくなる。

家族やスタッフは患者を避けるために面会や見周りの時間を短くしたり、
論点がまるで見当違いであることに気づかず、
自分の立場を守ろうとして不毛な議論をする羽目になる。



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運命の残酷さへの怒りは、どこに矛先を向ければよいのか。

神が運命を決めているのならば、神は憎しみの対象となり、

偶然としか言いようがないのなら、怒りは対象を失い、ただただ燃え上がる。

内のこもる憎しみは、ドロドロとぐろを巻いて、心を淀ませ濁らせ、重く沈む。


でも、確かに「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」し、

「怒りは心の明かりを吹き飛ばす」。


自分の運命を呪いたくなるような怒りの感情はでてくるかもしれない。

でも、誰かを呪っても、他人に怒りをぶつけても、

自分の種まきを変えないと、何も変えられません。



「怒らない技術」で、

“人の心を左右するのは、出来事ではなく受け止め方”と言われています。

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出来事は変えられない。

でも、その受け止め方、解釈、意味は、自分なりに変えられる可能性があります。


だからこそ、自分を見つめること、

自分の人生にとって最も大事なことについて

真剣に考えることが、大切になってきます。



そしてまた、

苦しみのあまり怒りを周囲にぶつけてしまう誰かに寄り添おうとする時、

その怒りは、自分に向けられたものではなく、

苦しみの表現のひとつの形にすぎないことを知れば、

いたずらに怒りの炎に巻き込まれることもなくなり、

「私はまだ生きている、私を見て」という真のメッセージに

早く気づけるかもしれません。


「困った人」ではなく、「困っている人」なのだから。


「優しく」あるためにも、「人の憂い」を知る努力は大切です。









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「死ぬ瞬間」では、“怒り”について、
こんなインタビュー記録も記載されています。


「ある患者へのインタビュー記録」

私の方から与えるものが無くなると、人々は去っていきます
与えるものがあったとしても、
私がどんなに誰かの助けを求めているのか、
ほとんどわかってもらえません。

(中略)

しっかりしていますね、と言われましたが、違うんです。
自分の尊厳を守りたかっただけなんです。
尊厳は、私自身のためという名目で、簡単に奪われてしまいますから。
でも、本当に他人の援助が必要になったときは、
そんなことは言っていられないでしょうけど。
多くの人がそういう形で力になろうとしてくれるのですが、
それがこちらには迷惑なんです。
わかりますか。
善意だということは判りますが、すぐに はねのけたくなります。

たとえばうちのシスターです。
面倒を見、いろいろ親切にしてくれるのはいいんですが、
それをこちらが断ると拒絶されたように感じる人なんです。
こちらとしては罪悪感を感じてしまいます

(中略)


ある患者の言葉を紹介しておきたいと思います。
その患者は27歳の女性で、3人の子供を残して死に瀕していました。
彼女はこう言ったんです。

「これが神のご意思だなんて言いに来たのなら帰ってください。
 それを言われると我慢ならないの。
 わかっているけど、こんな苦しいときに、
 美しい言葉を聞いてもどうにもならないのよ。」







第三段階は、「取引」。

人は最後まで希望を求めて、生きる意味を探し続けます。