ことのは学舎の高校生の古文の授業で、「発心集」の「蓮花城入水のこと」を読んだ。
中間試験の出題範囲である。
こんな話である。
蓮花城は登蓮と長年親交があった。ある日、登蓮に言う。老いて死期が近い、入水して正念のまま臨終を迎え、往生を遂げたい、と。登蓮は反対したが蓮花城の決心は変わらなかったので協力することにした。
入水当日、多くの人々が見守る中、蓮花城は桂川に身を投げて終わりを遂げた。
その後登蓮が物の怪による病になった。その物の怪は蓮花城の霊であった。登蓮が、わたしは恨まれるおぼえはないし、あなたは立派に往生を遂げたはずだ、と言うと、蓮花城は言った。入水の際に後悔の気持ちが生じたが、観衆の前で自分からやめると言い出せなかった。止めて欲しいと思ってあなたと目を合わせたが、止めてくれず入水をうながした。自分のせいではあるものの、あなたへの恨みが残り往生できずに例となった、と。
人間の心は弱いものである。
出家者は多いが、そのうちどれだけの者が執着を断ち切って往生できただろう。
藤原道長や平清盛のように、仏門に入ったものの最初から執着を捨てる気などさらさらなく、地位も財産も係累も一切捨てない者もいる。
増賀聖や登蓮法師のような本物の道心者にはなれない。
わたしたちは、ガンジーやマザー・テレサにはなれないのである。
「発心集」は、増賀聖や登蓮のような道心者を賞賛する一方で、蓮花城のような弱い人間も否定しない。
誰もが聖人君子になれるわけではないし、聖人君子ばかりの世の中はつまらない。
わたしたちは、蓮花城のような弱い人間に共感し、魅力を感じる。
「発心集」を読んでいると、長明はむしろ往生できない弱い人間のことを書こうとしたのではないかと思えてくる。
文学は弱者の味方である。
ダメダメな人間こそ、真に人間らしい人間である。
自分のダメダメぶりに向き合うと、他者にも寛容になれる。
自分が正しいと思っている人間は、ろくなことをしない。
蓮花城の失敗は残念であるけれど、こういうダメダメな人間が、わたしは好きだ。