今日(6日)の朝日新聞朝刊、社会面に、長尾幹也さんの追悼記事が掲載されていた。
長尾幹也さんは、朝日歌壇の常連歌人である。
高校3年のときの初入選以来48年間に渡り、830首の歌が入選している。
入選歌数の多さもさることながら、質の高さでも朝日歌壇の中で際立っていた。
サラリーマン時代は心優しき上司として部下をリストラすることに心痛める歌を詠んだ。
その苦悩に共感する読者は多かったに違いない。
62歳で多系統萎縮症という不治の難病を患い、体が次第に不自由になっていく中で、生と死を見つめて詠んだ歌は、どれもわたしの心の深いところに響いた。
記事では、選者の馬場あき子氏の、「徹底して自分を見つめ、自分をうたうことで自暴自棄にならず、まっすぐに歩んでこられたのではないか」というコメントを紹介していた。
逃れようのない死が確実に近づいてくる中で、長尾氏が澄み切った心境でいられたのは、歌の力によるのだろう。
晩年の作に、自分を客観視してユーモラスに詠んだ歌がある。
椅子ものともリフトに吊られ湯船に入る揚げ物の具になりたるここち
絶望の淵にいながらこんな歌が詠めるところに、長尾幹也さんの人間の大きさを感じる。
長尾さんは、ボツになった歌も多かったそうだ。
わたしとの唯一の共通点である。
短歌教室の教え子の大野美恵子さんへのアドバイスは、わたしを勇気づけてくれる。
「あきらめ悪く」粘って下さい。歌の神様は、粘り強い人間に必ず微笑んでくれます。
記事の最後に、長尾さんが朝日新聞大阪本社版で連載したコラムに記した歌と言葉が紹介されていた。
噴水にたつ虹ほどの淡さにて人の心に棲みたし死後は
時折ふと懐かしんでもらえるような思い出を何人かの心に残し、今生を終えられれば私は満足だ。
わたしの心には、「噴水にたつ虹ほどの淡さ」どころか、夏の日の雨上がりの空に大きくかかる虹のようにくっきりと、長尾幹也さんの存在が焼き付いている。
記事には、わたしの歌も引用されていた。
悲しみとともに開かむ彼の歌載ることのなき日曜の紙面
もう日曜の朝刊を開いても長尾幹也さんの歌に出会うことはない。悲しい。