三重県鈴鹿市の実家に来ている。
目の前は鼓ヶ浦海岸である。
海岸に出て北に少し歩くと白子漁港があり、そこに大黒屋光太夫の顕彰碑がある。
大黒屋光太夫は鈴鹿出身の偉人のひとりである。
光太夫の生涯を描いた井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』によって有名になり、緒形拳の主演で映画化もされているが、ジョン万次郎と比べると知名度は低い。
大黒屋光太夫は、1783年(天明2年)に白子港から回船神昌丸で江戸に向かう途中嵐に遭い、7か月間の漂流の後、アリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着した。
その地でロシア語を習得し、4年後にロシアのイルクーツクに渡った。
イルクーツクで日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会い、1791年(寛政3年)、キリルに随行してサンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、エカチェリーナ2世に謁見した。
帰国を許され、アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て根室へ上陸、帰国を果たした。
神昌丸で白子港を出港した17人のうち、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3人だけであった。
帰国後、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録を桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめた。
その後、光太夫は江戸番町に居宅を与えられ、生涯をそこで暮らした。
ロシアで得た蘭学の知識を桂川甫周や大槻玄沢らに伝え、江戸時代後期の日本の蘭学発展に貢献した。
以上が、大黒屋光太夫の事績である。
光太夫は日本人で最初にロシアと交流をした人物である。
光太夫に関する記録を見ると、日本人の珍しさもあり、光太夫一行はロシアで手厚く処遇されたようである。
一行の中には帰国せずロシアで洗礼を受けて一生を過ごすことを選択した者もいる。
このような民間の交流は、もっと知られるとよいと思う。
現在の日本はアメリカの尻馬に乗ってロシアと敵対するような立場にある。
望ましい状況ではない。
ロシアの非道な振舞は、批判し攻撃するだけでは止められそうにない。
むしろ対立を煽り、火に油を注ぐように思われる。
多くの国がロシアとの間で少しでも理解し合える糸口を見つけて話し合うことができればよいと思う。
大黒屋光太夫のような人物の存在に光を当ててゆくことが、ロシアとの関係を見直すきっかけにならないだろうか。
そんなことを、大黒屋光太夫の事績を振り返りつつ考えた。
光太夫顕彰碑の周辺の海岸は、多くのキャンプ客や釣り人で賑わっていた。
その大半は、外国人であった。ブラジル人が多く、中国人や韓国人、イスラム圏の人たちもいた。
彼らが日本を好きになってくれるとよいと思う。
小さな港町の民間交流が、世界の平和につながって欲しい。
光太夫の時代と違い、漂流しなくても自由にお互いの国を行き来できるのである。
自国第一主義などと言って敵対し合うのは馬鹿らしい。