教育出版の中学2年生の国語教科書『伝え合う言葉 中学国語2』に、内田樹の「学ぶ力」という論説文が載っていた。
興味深く面白い文章だったので紹介したい。
学力が低下していると言われている。「学力」とは何か。
内田樹は、「学力」を、「学ぶ力」、すなわち、学ぶことができる力、学べる力、と定義する。
学ぶ力は、数値化できるものではないし、他者と比較するものでもない。
比較すべきは、昨日の自分よりも学ぶ力が伸びているか、ということである。
学ぶ力は、どうしたら伸びるか。
内田樹は、三つの条件を挙げている。
第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。
第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。「師」は、学校の先生に限らず、書物でも、会ったことのない人でもよい。
第三の条件は、教えてくれる人を「その気」にさせること。
以上が、論旨である。
内田樹は、師弟関係による「学び」を理想としているらしい。
第二の条件で、「師」は、学校の先生に限らず、書物でも、会ったことのない人でもよい、としているが、書物や会ったことのない人を「師」とする場合、第三の条件、教えてくれる人を「その気」にさせること、は不可能である。
確かに、書物や直接会っていない人を師とする学びは一方通行であり、効率が悪い。
師の側からの強い力による働きかけがあったほうが、絶対によく学ぶことができる。
師を「その気」にさせる必要があるのである。
わたしの「学び」には、第三の条件が決定的に欠けていた。
恩師の石田穣二先生に対して、強い畏敬の念を抱きつつ、自分から積極的に学びに行くことはできなかった。
先生は、わたしに対して、こいつに教えてやろう、という気なったことはないと思う。
「バカ」と言われようと、ダメな弟子と思われようと、食らいついていくべきであった。
今頃気づいても、どうしようもない。
先日、寺田寅彦の随筆を読んでいたら、高校生のころに夏目漱石の下宿に毎日押し掛けた、という話が書かれていた。
まだ漱石が熊本で教師をしていたころの話である。
漱石もそのような生徒をうるさがらず、相手をしていたようである。
このような師弟関係のもとでの学びが、理想であろう。
液晶画面を通して学べることには、限界がある。
師をいかにして「その気」にさせるか、「学力」の向上を考える上で、重要な課題である。