高校生の現代文の授業で、国谷裕子氏の「ポスト真実時代のジャーナリズムの役割」の一節を読んでいる。
静岡大学の入試問題である。
論旨をまとめると、以下の通りである。
現代は、人々が自分の感情に寄り添う情報や、そのような情報を伝えるメディアだけを選んで接する時代である。人々が様々な問題で分断を乗り越えて合意形成し、問題を解決できるようになるために、信頼できる事実を伝え議論の場を提供する、テレビなどのメディアの役割が重要である。
筆者の国谷裕子氏は、NHKで23年間、「クローズアップ現代(クロ現)」のキャスターを務めてきた。
クロ現では、事実の持つ深さや豊かさを伝えようと努力してきたという。
しかし、ポスト真実の時代といわれる現代。人々は自分に都合の良い情報だけに接して、それを真実だと信じてしまい、それ以外の情報を受け容れようとしない。
真実が顧みられなくなり、合意形成がなされず、分断が進んでいくことに国谷裕子氏は危機感を抱いている。
この危機感は、客観的事実に基づいて物事を考える人は、みな抱いているものである。
しかし、この危機感をいくらメディアで訴えても、自分に都合の良い情報にしか接しない人々には届かない。
わたしもときどき朝日新聞の歌壇に反戦歌を投稿しているが、本当に意味があるのだろうか、と思うときがある。
反戦の思いを伝えるべき相手は、新聞を、特に朝日新聞を読まない人たちである。分断の前に、言論は無力である。
新聞、テレビなどの大メディアは、これからどのような道を進んでゆけばよいのだろうか。
静岡大学の入試問題では、「筆者の主張に対して、あなたの意見や考えを300字以内で述べなさい」という設問を出している。
生徒たちと、考えてみたい。
入試問題は、受験生が自分の感情に合わない意見にも否応なく向き合わなければならないメディアである。
人々が真実と向き合い分断を乗り越えて議論する場を提供する役割は、今後、マス・メディアよりも教育が担うことになるのではないか。どうだろう。