今日の中学生の授業では、みはら三桃の「鉄のしぶきがはねる」という小説を扱った。
工業高校のものつくり部で活躍する女子生徒心(しん)の成長の物語である。
その中で、このような考えさせる場面があった。
ものづくりコンテストを前にしんは指にけがをし、旋盤の練習ができない。他の部員が上達していくのを見てあせりを感じている。そんなとき、ふと手にした折り紙でツルを折ってみる。もともと手先が器用な上に几帳面な心は折りヅルが得意であったが、人差し指が使えないのでうまく折れない。その日から毎日、ツルを折る練習を始める。すると50枚入りの折り紙が半分になったころには、ほかの指だけで以前のようにうまく折れるようになっていた。心は、指の働きがそれぞれに違うこと、人差し指が使えなくても他の指を鍛えれば細かく動くことに気づく。
心の成長が描かれる、高校入試の定番小説である。
この場面において、心は人差し指の代わりを他の指でもできることに気づく。
この気づきは、子育てや教育を考える上で大切なことを教えてくれる。
わたしたちは、普段両手の10本の指の役割を意識することなく、いつも同じ作業には同じ指を使っている。
その際に、薬指と小指は、出番が少ない。それが当たり前だと思っている。
しかし、これらの脇役のような指も、練習次第で人差し指や親指の役割を補うことができるのである。
指に限らず、わたしたちが持っている様々な能力においても同じことが言えるのではないか。
ある能力が不十分であっても、ほかの能力をもって大抵のことは補えるのではないか。
子どもたちはほとんど、学校の勉強ができるかどうか、というただ一つの能力で評価されている。
学校の勉強ができないと、ダメな人間の烙印を押されてしまうのである。
しかたがないから、すべての子どもが一様に、学校の勉強の能力にばかり力を注ぐ。
すべての指に、人差し指と同じ働きを求めているようなものである。
これは子どもたちにとって幸せなことではない。
学校の勉強が苦手であっても、他の能力を生かせば世の中は渡っていけるものである。
もちろん学校の勉強は大切であるし、できたほうが楽に世の中を簡単に世渡りができるのは確かである。
しかし、学校の勉強がすべてである、という考え方は子どもたちを息苦しくさせる。
勉強が得意な子が人差し指だとしたら、薬指や小指のような子もいる。
人差し指が薬指や小指より優れているわけではない。それぞれに役割が違うのである。
そして、人差し指が機能しなくなったときに、薬指や小指で十分にそれを補えるはずである。
学校の勉強以外の能力にもっと自信を持ってよい。そう考えると、子どもたちも少し生きやすくなるのではないか。
授業で扱ったのは入試に出されたほんの一場面だけなので、この先心がどのように進んでいくのかは分からない。
主役の人差し指が使えなくても他の指で補える、という気づきが、心のものづくりライフにどのように役立っていくか。心が職人としてどのように成長していくか。
この小説の続きを読んでみたい。生徒たちにも読ませてみたい。
テストで点をとることよりも大事なことを学べそうである。