昨日に引き続き、今日も2月5日(日)の朝日俳壇歌壇の「うたをよむ」からです。
小川軽舟さんが、「熊と出くわして」と題して熊を詠んだ俳句を紹介しています。
その最後に、こんな句を紹介されていました。
冬眠より覚めたる熊やただ坐る 小澤實
ほんとうに、俳句は面白い。
この俳句の結句、「ただ坐る」に、打ちのめされました。これが俳句です。
冬眠から覚めた熊がただすわっている、それだけで絵になっています。
わたしのような素人は、「ただ坐る」とは到底詠めません。
何かもっと気の利いた、手の込んだ、工夫した言葉を詠みたくなります。
冬眠より覚めたる熊や寝ぼけ顔
冬眠より覚めたる熊やぼんやりと
冬眠より覚めたる熊や何しよう
いろいろと考えてみましたが、どれも言わずもがなの説明になってしまっています。ただありのままを詠んだ「ただ坐る」にはかないません。
芭蕉の、「いひおほせて何かある」という言葉は、その通りだ、と改めて感じました。
冬眠より覚めたる熊やただ坐る
何の技巧もないこの俳句に、何とも言えない味わいが感じられるのは、小澤實という俳人の技であり、俳句という文芸の力であります。
この俳句について、小川軽舟さんは、「寝ぼけまなこでこの世の春をぼうっと望む熊。「ただ坐る」になんとも言えぬ幸福感がある。」と評しています。この「幸福感」という言葉も、当たり前の平凡な評言のようですが、実に見事にこの俳句の味わいの正体を教えてくれています。
何の技巧もない、と書きましたが、「ただ坐る」の「ただ」は、やはり十分に考え尽くされた言葉のように思います。
冬眠より覚めたる熊が坐っている
では、やはりただの説明になってしまいます。
「ただ」によって、長い眠りから覚めたばかりの熊の夢心地が伝わってきます。
この「ただ」によって、写生のピントがピタッと定まり、解像度がぐっと上がっていることを感じます。
俳句の力、俳人の力、ということを思わずにはいられません。
わたしもこんな言葉の使い手になりたい!