日曜日は、朝日歌壇俳壇の日である。
今日は、投稿作品でなく、「うたをよむ」というコラムから。
小川軽舟さんが、「熊と出くわして」という題で熊を詠んだ俳句を紹介している。その中でわたしが共感した一句。
熊の出た話わるいけど愉快 宇多喜代子
俳句はほんとうに、不思議な文芸である。
これだけで作品になるのである。だから何なのだ、と言われても、説明のしようがない。
写生俳句、ということを言われるが、この句は心の写生である。
ニュースなどで熊出没の話を聞くと、確かに愉快な気持ちがする。自分も会ってみたい、と思う。絶対に会う可能性がないから、そんな呑気なことを思っていられるのである。
実際に山で熊に襲われた人や、畑を荒らされた人にとっては、笑い事ではない。そんなことは分かっているのだが、それでも熊が出た、と聞くと、なんとなく楽しい気持ちになる。熊という動物が持つ、間抜けで愛らしい印象がそのような気持ちにさせるのであろう。
そんな愉快な気持ちに少し罪悪感を感じて、「わるいけど」と詠んだところがこの句のポイントである。
熊出没のニュースに接したときの愉快さとかすかな罪悪感が、写生されている。五七五で、そんな一瞬のどうってことのない心の動きが写生できるのである。不思議な文芸である。
うちの娘が学校の宿題で、「おーいお茶」の俳句コンクールに応募する俳句を作っている。作品を見せてもらったが、どれも肩の力が入り過ぎている。いろいろと盛り込もうとし過ぎて、よくわからない句になっている。
この「熊の出た話」の句を教えてあげようと思う。こんなんでいいんだよ、と。実際は、こんなのがむずかしいのだけれど。
ことのは学舎の授業でも、ときどき子どもたちに俳句を紹介している。紹介はするものの、句の味わいを教えるのは、むずかしい。
教えなくても、わかる子は自分で感じ取るし、わからない子に説明しても、味わいはたぶん伝わらない。
熊の出た話わるいけど愉快
この句も、教えるべきことは何もない。作者の気持ちに共感して、クスッと笑ってくれたら十分である。
俳句は、不思議な文芸である。