感情発生のしくみ 後篇
神智学大要第二巻の262頁には、「感情の発生」というタイトルで表が載っています。愛と嫌悪に大別され、それぞれ三つずつに分類され、さらに細かく分けられて合計27の感情が記されています。その表の中に入っていない「感謝」や「喜び」といったポジティブな感情なども、やはり対象への「愛」によって起こると考えられます。そして、いずれの場合でも、善い想念、ポジティブな感情の根底には「愛」があるということができると思います。宇宙には、究極的には引力と反撥の力しかないというのは、原子核を一つにまとめているのが、電気をおびている陽子と電気をおびていない中間子との間に強い引力(核力)が働いているためであり、陽子同士なら、電気的に反発しあってしまうということをとっても、また、マクロビオティックなどの陰陽説、水火二元論の言霊論にかんがみても普遍的な真理と思われます。ところで、感情も例外ではありません。快(愛)を感じれば、互いに引きつけあい、不快を感じると遠ざけ合います。その結果、嫌悪の情が起ります。嫌悪の中には大別して三つあり、相手がまさっていれば怖れであり、同等であれば怒りであり、下であれば高慢ないし専制となります。さらに、怖れは、感情の度合いの大きさにより、恐れ、わななく、驚愕、怖れ、不安と、細かく分かれます。怒りは、敵意、無礼、忌避、冷淡、見下しと、細かく分かれます。ここで興味深いと同時に、大切なことは、どんな悪感情も、もともとは単純な嫌悪の情に端を発しているという点です。人種偏見でもそうです。対象への怖れにせよ、敵意にせよ、専制であれ、対象を自分よりも強大と見なすか、下等と見なすか、勢力が拮抗すると見なすか、それぞれの個人の主観の問題による捉え方の違いはあっても、結局、その認識と欲望が生みだす行為は、破壊的で残忍な結果へと走るのです。人類の歴史は、この人種偏見にもとづく民族的集団的な嫌悪の感情を煽動して、テロや民族浄化(ジェノサイド)を繰り返してきています。アウシュビッツでもルワンダでもイラクでも、人類は相変わらずこの感情を克服できないでいるのです。幼児虐待、動物虐待、尊属殺人、無差別殺人、暗殺をはじめとして、あらゆる殺人行為は、必ず対象への嫌悪の感情から出発し、それが関係の捉え方において恐怖や怒りや高慢という感情に分化しながら、苦痛と辱めを与えてやりたい、この世から抹殺せずにはおれないなどの激しく燃え盛る業火となり、欲望はやがて因果の法則により行為として形に現われます。そして、こうしたことは残念ながらすべてアストラル体がみずからの主人になることを放棄して、エゴイスティックな習慣的な感情と波長的に同調した欲望エレメンタルという生き物の餌食となってのっとられ、高位メンタル体、コーザル体から来る叡智との結びつきを断たれた、光の届かない界層に人間本来の姿とはまったく異なる悪鬼の姿を表現した結果として起きたことです。もし、この不幸を克服し、地球全体が完全なる愛の星として次元上昇を遂げようとするなら、まず理解する必要のあることは、いったいどうして諸々のネガティブな感情に囚われてしまうのだろうかという問いを、各人が真剣に自己の胸に向けて試みることから始まらなくてはならないはずです。心得ておきたいのは、悪感情を向けた対象自体が、あなたから嫌悪の感情を引き出したのではないということです。対象が自分を不愉快にさせたと思っても、じつはあなたの側にもともと嫌悪のエネルギーがあったということです。さらに嫌悪にとりつかれたとき、対象を自分との関係でどう見なすかにより、最終的にどんな感情を味わうかということも変わってくるわけです。すると、あなたの感情(欲望)を決定しているのは、あなた自身の認識だということになります。いかにして、嫌悪と訣別するのか。これこそがこれからの新しい地球社会にとって、真の幸せを求める万人にとっての重大なテーマではないでしょうか。そして、その答えを各人が求めるうえでおそらくヒントになるのは、こういうことではないでしょうか。愛と嫌悪は別の二つのもの同士として、対立しているものではない。私たちが愛に充たされるとき、嫌悪はまったくなくなる。真っ暗な部屋に入って電灯のスイッチをひねった瞬間に闇はそこになく、明りだけがあるように。ですから、まず、日々の生活の中で出会うあらゆる存在にたいして、自分が愛を感じているのか、それとも嫌悪を感じているのかということに、二十四時間のあいだ気づいていられるということはきわめて大切なことなのでしょうはないでしょうか。自分が思っている以上に愛がもてないという事実を発見するかもしれませんし、あるいはこれはたしかに愛だなと気づくこともあるかもしれません。そうした体験を重ねるうちに、だんだんと自覚的になってゆき、そうなればなるほど、もっと愛そうという意志が目覚めてくるにちがいないと考えられるからです。あなたが誰かを好きになるとき、近づこうと考えただけで恥ずかしさと怖さで一杯になるとしたら、そのときはあなたは愛していないのです。といわれたとしたら、どうでしょう。本当はその感情は嫌悪なんだよといわれたならば。びっくりして否定するかもしれません。いや、真実あるがままの姿に気づくことは常にそうした痛みをともなうものです。しかし、それなしには成長の可能性もありません。この地球上に咲く人々の想念の花を嫌悪の黒い花から、愛の薔薇色の花へと変えてゆく。そう想像することは、素敵なことではないかなと思うのですが・・・・・・。