私たちの人生を支配しているものとして、各々の人のもつ思考以上に感情がより重要な地位を占めていると言ったら、この意見をすんなりと受け入れられる人間は、そう多くないことでしょう。もうひとつ、私たちは自分がどんな集団に属していようが、その集団を覆い尽くしている感情と同調しており、それにともなって理性で物を考え、知性によって判断し、行動することなく、一生涯をその集団を支配する感情を超え出ることなく過ごしてしまうことになる、といったら、やはり自由であることを否定された気がして反発を覚えることでしょう。私は十分に独自の思考にもとづく考えをもち、集団からいつも距離を保ち、感情に曇らされることなく、知性的に判断し、行動できているはずである、というかもしれません。事実は違います。本当に自律的に物を考え、いかなる利害からも自由な立場で、決して感情に影響されず、理性にもとづいて判断し、知性的な行動選択を取れる人間など稀にしか存在しません。だからと言って、それが人間の本質であり、この状態を変えることは、永久に不可能だと言いたいわけではありません。むしろ、人間の進歩は、感情体と呼ばれるアストラル体を統御し、メンタル体(思考をつかさどる)をより高級な質料で充たし、アストラル体の低い欲望や感情と結びついた低位のメンタル体の思考(メンタル・エレメンタル)の影響を脱して、 高位メンタル界(コ―ザル界)から降りてくる、純粋で清らかな真理や叡智にもとづく思考や直観を受け取れるよう、肉体、アストラル体、メンタル体を浄めてゆくときに起こるのであり、それは可能だという点をこそ強調したいのです。



 では、集団的な感情がいかにその集団に帰属する個人の精神活動を縛っているのかを見てみましょう。つぎの一節は、『神智学大要』第二巻アストラル体の中の第二五章「感情の支配」から、編者がすぐれた書として紹介する『平和と戦時における民衆』(マーティン・コンウェイ卿)の抜粋を、筆者がさらに引用するものです。「圧倒的に大多数の人々は、ある心理状態の群集すなわち同じ考え方、特に同じ感情の動き方をする人々の集団の中で育ち、生涯を通じてその集団に属する。(後略)」「そういう群集は思想によるのではなく、主として感情によって形造られ、また感情によって育っている。一個の群集にはあらゆる感情があるが、知性は何もない。それは感じはしうるが、考えることは何もできない。(中略)いったんこの群集の擒となったが最後、彼は一個の人間としての物を考える力、感ずる力を急激に失い、その群集と一つになり、その存続期間、見解、態度、偏見、その他これに類するものを共にする」「自分が今まで属していた集団と縁を切る勇気、あるいは力のあるものは滅多になく、圧倒的多数が一生涯その支配に甘んじているのが実情である」


 

 ところで、一口に感情と言っても様々な種類があります。編者はそこで、感情の分類が一覧できる表を掲げています。その資料の大元は『感情の科学』(バカヴァン・ダス著)と呼ばれる一書であり、編者は同書に示された諸原理を十分に研究することを読者に勧めています。それが重要である理由は、もろもろの欲望、感情、執着は結局、精神と意志を働かせることによってのみ完全にコントロールできるものだから、というものです。



 これによると、感情は大別して、敬服、愛情、仁慈と、恐れ、怒り、高慢または専制となります。前半は「もっと」という欲求をともなう快感から来ます。そして、ひきつけられる感じである「愛」にグループ化されます。後半は「より少なく」という欲求をともなう不快と苦痛から来る、拒絶と「嫌悪」にグループ化されます。



ホワイトスピリットの光



 さらに、感情発生の要因となった対象に対する関係によって、二つのグループに属する各々三つの感情が決まります。それは相手を自分より上であると認識しているのか、同等であると認識しているのか、下であると認識しているのかの違いによります。「愛」で言えば、高等(尊敬すべき者、大いなるものへの)―敬服、同等―愛情、下等(しばしば弱き者、小さき者への)―仁慈、「嫌悪」で言えば、高等(強大なものへの)―恐れ、同等―怒り、下等(劣っている、弱小であるとみなす者への)―高慢または専制がある。そして、さらにそれらの下には、それぞれ4種類から5種類の感情が属し、合計で27もの感情があります。



 ここで、私たちは現在、日本が直面している事態に関して、具体例を用いて、人間がいかに集団の中で感情による支配を受けやすいものであるのかを見ることができます。



 今年の三月十一日に東北地方を中心にM9.0の巨大地震とそれに続く津波による福島第一原発のメルトダウン、放射性物質の拡散という出来事を経験する以前は、原発について真剣に考えようとする人は多くありませんでした。しかし、この出来事を境に、そこはだいぶ変わってきているように見えます。問題は、この国の国民の一人ひとりが、どこまでこの経験が突きつける課題を真正面から受けとめ、集団的感情から完全に自由となって思考し得ているかということです。これまで、日本国内で原発に疑問をもち、あるいは反対すれば、「反核」運動のレッテルを貼られ、特別な人たちと見なされる傾向がありました。今となっては、少なくとも三月十一日以前よりは「共感」をもって迎えられることが多くなっていると思います。とはいえ、必ずしもその「共感」が、思想の共有となってはいない、と言えるのではないでしょうか。



 それまで、人々がこの問題をまともに取り上げなかったのも、自分の所属する仲間や職場などの集団から異質な考えの持ち主と見なされ、浮いた存在になることを恐れる心理が働いていたのではないでしょうか。原発は安全といわれて、半信半疑でも、あえてその真偽を追求しようとはしなかった背景には、電力供給がストップすると経済が停滞するという恐れがあったと思います。そして、原発事故が起こって、放射能汚染の実態が明らかとなるとともに、環境が生命の安全と健康を脅かす状況が出てくると、そこにまた恐れが生じました。これらの恐れは、いずれも理由を異にしながらも、集団に共通のものであり、恐怖というネガティブな感情が集団を支配している事実は何ら変わりないと言えます。


 一方、日本の人々には集団的感情としての政府や東電への怒りがあります。  作家の村上春樹氏が震災から三ヵ月後にスペインのカタルーニャで行ったスピーチ(*註1…Youtubeのリンク先を記事の終わりに紹介)で、世界唯一の被爆国である日本の国民は、被害者であると同時に、加害者でもあり、それは原発事故に関しても言えることだと述べました。日本人は、核にたいして「ノー」と叫ぶべきだったし、原子力に頼るのをやめ、核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の中心課題とすべきだったと言うのです。けれども、実際には効率優先の考えにより、倫理や規範を軽んじて、原発推進の道を選んでしまった。そのことの責任を改めてとるとともに、壊れた道路や建物の再建だけでなく、損なわれた倫理や規範の再生を行ってゆく必要があり、言葉を専門とする職業的作家の進んで関われる領域もそこにあるのではないかと述べます。たいへん感銘を受けました。村上春樹氏は、二年前にエルサレムで行ったスピーチ(*註2…スピーチ全文が読めるページを記事の終わりに紹介)でも、システムという高い壁に向かって卵がぶつかるしかないとき、自分は常に卵の側に立つ人間なのだと述べています。ここには、集団の感情から自由に思考し、表現する個の精神の美しさがあり、この意識の光こそは、日本と地球社会を変革する際の希望であると思います。


 ところが、これには反対意見も寄せられていて、冗談じゃない、責任は国と東電にあるに決まっているじゃないかというのです。この反応は、感情、それも怒りの感情を自分の外の対象にぶつけ、非難を浴びせるという典型的表現であることは言うまでもありません。その意見には、起きている事態をよく観察して、知性的に考えぬいた痕跡は認められません。この種の怒りが集団を支配する感情となることで、集団に属する大半の人は、己自身の内面を省みて、理性的に思考することができなくなります。この怒りの感情が、先に述べた恐れの感情の場合であっても同じことです。

 また、怒りの対象が、予期しない災害で多くの人命が失われてしまったことや、科学技術が支えてきた文明がこうした災害の前に脆さを見せ、敗北を喫したことだったとしても、結果は同じことです。


ですから、集団を支配し、その一員としての人間が理性的に思考することを停止させてしまう群集心理の犠牲となることから、私たちは自分自身を救出しなくてはなりません。

そのために、メンタル体が真理の領域とつながり、真理の祈りや清明で高い響きからなる言霊を同胞に、地球に、宇宙に捧げながら、アストラル体をきれいにし、統御してゆく必要があると言えます。  

今ほど、個として考えることの大切さが問われているときはないと思います。


(*註1)○村上春樹 Catalunya 2011

http://www.youtube.com/watch?v=vdjewFwkj_I&feature=related


(*註2)○村上春樹エルサレム賞スピーチ全文

http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php?page=all

 『原発事故への道程』(NHK ETV特集9/18,9/25放送)を観たあとの、先に紹介した感想をもった友人とはまた別の友人の気づきがきっかけとなって話し合ったことに、脱原発という考えを明確にすることは、職場をはじめとする周囲の人々から仲間はずれにされてしまう恐れがあるために困難だという問題がありました。

 しかし、真実に気づいていながら、それをハッキリとした意見の形にしたり、態度に表すなどして外に伝えてゆくことができないとしたら、本人にとっても苦しいことだろうし、社会全体にとってもよくないことだと思います。


 まず、自分が真実だと思うことを誰かに伝える。そのことがないかぎりは、人と人とが手をつないでしだいに大きな輪となり、ムーヴメントとなって、状況を変えてゆくという流れにはならないことでしょう。


「真実を言う」


 これは、とくに国のエネルギー政策の方向性が決まろうとしている現在にあって、なかなか大事なことだと思うのです。

日本があれだけの原発事故を起こし、放射能汚染など深刻な事態がまだ進行中です。世界中から日本がこれを機にどう変わるかが、注目されています。


 諸外国の目は、もはや日本の国民は原発への依存をやめて、国内の原発をすべて廃炉にするためにも、代替エネルギー政策を積極的に進めながら、脱原発国家をめざすにちがいない、地球環境の未来にも脅威となっている原発輸出も、これ以上しないのは当然の責務だろうと思って、これからの動向を見守っているはずです。


 9月6日現在、日本国内の54基の原発のうち、運転中は11基のみです。
残りの43基が停止中ないし定期点検のために稼働していません。

日本の穀倉地帯といわれる北海道の泊原発3号機は活断層の上にありますが、反対の声を無視して知事が運転再開を許可したことに68団体が賛同する抗議文が八月、九月と二度も送られました。立候補時の「はぐくみ、伝える。50年、100年後の北海道への『贈りもの』ー未来を担う子どもたちを安心して育てられる環境をつくります」とのマニフェストを掲げた知事本人からの返答はなく、役人言葉で本質から逸れた回答だけが返ってきています。

 電力会社主催の公聴会での「ヤラセ」問題でマスコミを騒がせた玄海原発でも、浜岡原発と同様、原発廃止を求める提訴が行われます。一方、9月下旬に出された原子力委員会の国民へのパブリッシュコメント募集の集計結果は、原発がなくなることを願っている人が98%にものぼることを明らかにしています。

http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/sakutei/siryo/sakutei6/siryo3.pdf
原子力政策に 原子力政策に 原子力政策に 対する 対する 国民の皆様から 国民の皆様から 国民の皆様から の意見 募集 結果 について



 原発をなくしたくないという人々の考えと、なくしたいという人々の考えがあり、その間に流れにまかせればよいという人々の考えがあると思います。

 問題は、なくさなくてはいけない、なくしてほしい、そういう考えが自分の内なる真実に支えられていると感じている人々が、その真実にたいしてどこまで忠実にその考えを妥協なしに保持できるのかということだけです。

「真実を言う」といったのは、ここでは、それを理解しない人々に向かっていきなりそれを行うことではありません。理解しない人にたいし、自分の考えを押しつけても、不調和な雰囲気を生むだけで、何も創造的なことはもたらしません。


 けれども、つぎのように自分自身にたいして、つぶやくときには、気をつけなくてはいけないと思います。


 「どうせ現実は変わらないのだし、歴史は繰り返されてきたのだ。

世の中は必ずしも理想どおりにはゆかない。むしろ正しいことがまかりとおらないのが世の中で、そちらの現実に適応してゆくほうが
自分が生きてゆくには必要なんだろう。


 だから、たとえ現実の政治などで行われていることが間違っていたとしても、大多数の人々がそれに従って生きている以上は、この社会ではそれが正しいということなのだ。


自分がいくら正しいと思うことでも、それを言うだけ損なのだ」


 そんなふうに自分に言い聞かせる行為に、自己欺瞞の心はないだろうか。

 

 そう自分の心に問いかけてみたら、どんな答えが返ってくるでしょうか。

 「真実を言う」とは、自分の本心にたいし、また、宇宙の神にたいして、今の自分が信じていることを宣言することにより、周囲の人々や社会がどんな恐れや欲望を抱き、ある種の考えを排除し、ある種の考えを推奨または強制しようとしてきても、それに影響されずに、少なくとも自分が何を望んでいるのかを見失わず、自分自身の本心を偽らないということを意味します。


 それによって、与えられた命を大切にし、受け取った直観をよりどころに、これが正しいにちがいないと確信をもって真実と信じることを表現してゆくことが可能になります。


 明瞭な想念は、くっきりとした輪郭をもった想念形態となります。その想念が利己的な感情や個人的な欲望から遠ければ遠いほど、人類全体、地球の生きとし生ける命や自然のすべてを守り、蘇らせるのに裨益する想念として働ける、宇宙的な真理にかなった、崇高で清純な感情のほとばしりをともなったものであればあるほど、美しい幾何学的な形態を描いて、強力なエネルギーを放射して、時空を超えて多くの人々の心に届いて、それぞれの正しい心、潜在している叡智と勇気を呼び覚ますように作用します。

そういう人が増えれば増えるほど、その明瞭で強力な想念のエネルギーは、互いに同じ振動数と周波数で共鳴し、結びついて、強大な力へと成長してゆくことができます。


 だから、私たち一人ひとりが、理性に照らして、まず自分自身の本心に忠実であることが、望ましい現実を創造してゆくための第一歩になります。

 もし、それを抑圧してしまえば、自分自身の内部神性と生命の本質である、どこか心の奥で生まれる前に決めてきたはずの、宇宙と直結した真理とともに生きてゆくという人生の決定を裏切ることになるのです。

 そして、その結果、望まない現実ができあがってゆくのを手をこまねいて傍観しているだけでなく、本心に背くような行為を強いられるような運命を招いてしまうことになります。


 それは、たいへんに悲しいことです。

 それが、日本国民が巻き込まれていった戦争でした。ついに原爆により、日本は世界初の被ばく体験をしてしまいます。

あるいは、戦後も公害病のために苦しんだり、立地の条件として第一に狙われた過疎地の住民が、お金によって買収されて、原子力発電所の建設を受け容れ、その結果、環境が破壊され、体と心の健康が損なわれ、人々の心が荒廃することになってしまいました。


 これこそが、私たち日本人がそこから多くの大切なことを学ぶべき体験ではないでしょうか。


 体験の根底にあるのは、恐れです。我が国には、昔から村八分という言葉があります。


 仲間はずれにされると、集団において安全でいたいという欲求が妨げられる。たったそれだけの理由で、国の大事な命運と未来の生命の行く末を左右する重大な決定にたいし、口をつぐんでしまう。いや、その前に自分が正しいと感じたものを取り下げてしまい、自分でも意識下の闇に葬り、その考えをよく見つめながら育ててゆくことに自信を喪失し、果ては世の中で何が正しい生き方なのかわからなくなってしまう。



こうした日本人の無意識の条件づけは、たいへんに根深い病といえます。

ここで起きていることを、神智学の言葉によって説明すると、どうなるでしょうか。


 まずは、低位のアストラル体が、恐れの感情という粗雑な質料の放つ波動で振動しています。

 それは、真実でいることを犠牲にしてまでも安全でいたいという盲目的な欲望(カーマ)にもとづいています。

これらとリンクした、下位精神(マナス)のメンタル体の習慣的な思考(メンタル・エレメンタル)のパターン化されたつぶやきが、前に掲げたつぎのセリフでした。


 曰く、「どうせ現実は変わらないのだし、歴史は繰り返されてきたのだ」


 曰く、「世の中は必ずしも理想どおりにはゆかないのだ」(父や母から子に、子が親になれば、そのまた子へと言い継がれてきた洗脳パターンの呪文です)


 曰く、「むしろ正しいことがまかりとおらないのが世の中で、そちらの現実に適応してゆく知恵や技術を身につけるほうが自分が生きてゆくのには大切なんだろう」


 曰く、「たとえ現実が間違っていたとしても、大多数の人がそれに従っている以上、この社会では結局、それが正しいということなのではあるまいか」


 曰く、「自分がいくら正しいと思うことでも、それを言うだけ損なのだ」


 こうした呪文が暗号のように、メンタル体に刻印されて、遺伝子によって、世代から世代へと運ばれてきた結果が、相変わらず人々が、一定の思い込みの思考パターンの牢獄に幽閉され、自由を失った精神の囚人になっている、悲しく惨めな状態であるということです。


 そこを、どうやって突破(ブレイクスルー)してゆくか。

 これこそが、原発事故の責任追及や再稼動をはじめとするエネルギー政策、事故の後処理や放射能測定や食品安全などの諸問題にどう対処するかという、表面で起きていること以上に、今私たち日本人が直面しなくてはならないたいへん重要な国民的課題だとはいえないでしょうか。

 

 なぜならば、「急がば回れ」という諺どおり、まずは集団の意見である世論の形成において、いとも簡単にマインドコントロール(洗脳)されてしまいやすい国民の精神のメカニズムを各人が究明し、これを改善して、自ら考え、自分の言葉で語るということができたとき、万人にとって、正しく賢明な選択が何であるかが、忽然として明白となり、小さな利害の対立を超えて、
権力も富もたない国民が一致団結して事に当たることで、かつてない強大なパワーを発揮して、あらゆる問題を一挙に解決できると信じるからです。



心というのは不思議な働きをもつもので、何かある対象に意識を向け、そこに想いを集中し続けると、そのものになりきってゆきます。

 

 「思う」というのは、和歌の用語では、「モう」と読み、モは言霊学(※註)で「舫(もや)う」、つまり、舟を岸に綱でつなぐという意味です。

※モの言霊 http://kotodamart.eco.coocan.jp/kot35.htm

 「コトダマート」のTOP http://kotodamart.eco.coocan.jp/


ここから人間の心はある事を一心に思うことで、思ったものがその人に浸透し、思ったものになるというか、思ったとおりになるというのも、うなずけます。



 モの言霊は、「者」でもあり、「学者」といったら学問に習熟した人、「芸者」といったら芸事に熟達した人のことをいいます。このことは、いずれも一心不乱に好きなものに向かって心を集中し、思い続けることにより、願望を成就してゆくことを如実に示していると思います。



 そして、別の観点からすれば、心はどの次元に波動の周波数を合わせるかで、いかようにも変わる、変幻自在の創造的な存在でもあり、もし、高い次元に波長を合わせるなら、とうてい成し得ないと思われるようなことでも、自らの限界と思えるレベルを超えてなし得てしまうということでもあります。



 それは、ある意味、この肉体次元にいる私たちの限定されたマインド()を超えた、神聖なる力の加護を借りて、成し得るということでもあり、それこそが祈りの力の本質でもあります。

 

 ダスカロスという人がいます。このキプロスの聖者といわれた人は、今回ここで述べたのと同じ真理をつぎのように説いています。それはまず聖書の言葉の引用で始まります。




 汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうつき、休む場所を探すが、見つからない。

それで、「出て来たわが家に戻ろう」と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除

をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。(マタイ12章 43-45)





 ダスカロスは、聖書で「汚れた霊」といわれているものが「エレメンタル」だとしたうえで、感情的な想念形態として私たちの心を奴隷のようにしてしまう、ある種の欲望や感情に仕える不浄な霊であるといっています。




 「わが家」とは、人間のパーソナリティーや個性のことで、創造者のもとを離れたエレメンタルは、砂漠(新たに取り込むべき想念がないため、エネルギーを獲得することができない場所)に向かいますが、固有の命をもち、独自の知性さえもったエレメンタルは、「わが家に帰ろう」といって、自分を創造した人間の元に戻り、再び活力を与えてもらうべく、さらに多くのエネルギーを吸収します。




 「自分よりも悪いほかの七つの霊」といわれるのはなぜかというと、七つのチャクラに対応した七つの門があり、それらを通って、エレメンタルが入ってくるからだというのです。

 そして、どうすれば、人間自らが出してしまった善からぬ想念の生き霊ともいえるエレメンタルと呼ばれる悪い霊に支配されることから自由になれるのかといえば、それはつぎの方法によってだといいます。



 「戻って来て欲しくないエレメンタルからエネルギーを取り去るためには、そのエレメンタルを他の良いエレメンタルで置き換えなければならない」ということです。そうすれば悪いエレメンタルは家に入り込むことができません。



 そして、聖書の中では、こうした悪い霊を取り除くのに、断食と祈りが有効であるということを伝えています。ダスカロスは、「祈ることによって新しいエレメンタルが創造される」という、簡単明瞭な解説を加えています。

 「中でも特に、純粋な想念形態のエレメンタルが創造される、ということを意味しています」と。じつは「エレメンタル」には、先にダスカロスが指摘した悪霊としての想念(神智学では念霊などともいいますが)のほかに、もう一つのグループがあり、それは理性でつくられ、純粋な想念形態と呼ばれるものであるとしています。



 心の中に神聖なものを思い抱くことにより、人は信仰心の助けを得ることができるようになります。そしてまた天使たち、ロゴス、そして神ご自身の助けさえも受け取ることができるようになるのです。このように、祈ることによって純粋な想念形態のエレメンタルを作り出し、それで自分や他人、世界を満たすことによって初めて、悪いエレメンタルを追い出すことができるのです。(ダスカロス『キリストのたとえ話』 P.46より)



再び、神智学の書からの引用です。



 これまでの良くない考え方の習慣と斗ってこれを良い考え方に変えること、すなわち、メンタル体からある一組のメンタル粒子を排出してもっと高級なメンタル粒子と入れ替えるという行程は初めのうちは当然のことながら困難である。それは長年の肉体の習慣を打ち破るのが初めはむつかしいのと同じである。しかしそれは不可能ではなく実際に為しうることであり、あるい思考形式が変われば、新しい考え方をするのが次第に容易となり、ついには何の抵抗もなく自然にできるようになる。(神智学大要 第三巻メンタル体 第十三章 肉体(覚醒)意識P.129より)




個人がどういうメンタル体を形成してゆくかは、毎瞬、何を思い、考えるかという想念行為にかかっています。



それは自分の運命のみならず、地球に住む全人類と命あるものにたいしても、多大な責任を負っているということであります。

そして、メンタル体という器であり、乗り物である機能に、より高級な質料を与えるために、祈りが大きな効果を与えるともいい、その例として、祈りに明け暮れるバラモンの生活、カトリック修道院の生活(食事のたびに自分の魂が生命のパンにより養われるよう、身体を洗うたびに純粋・清潔であるよう、教会に入るたびに生涯が奉仕と礼拝であるよう等々)などを挙げています。



もちろん、これは伝統社会における話です。現在は人種や国の違いを超えて人類がひとつになって、地球を救わなくてはならない時代になっており、宗教宗派を超えた完全中立の立場での世界平和の祈りの運動も、原爆体験を経た戦後の日本から出ています。



人類一人ひとりが、まずは自分自身のメンタル体、アストラル体の想念感情を入れ替え、高い次元とつながって、地球をおおう否定的な暗黒想念のエネルギーを光明波動によって浄め去ってゆかないといけません。



昨夜のアップ時点では、ここで「おわり」としましたが、まだこの続きがありますので、お楽しみに。(10月1日 pm12:07)

私たちが気をつけて行う必要があるのは、メンタル体の器にどんな想念を容れるかを選ぶことです。


たとえ外部から低い想念が一時的に入ってきたとしても、それがメンタル体内にとどまっている間、それにたいしてどのような態度で接するかで、その悪しき影響を受けなくても済み、メンタル体が私たちの意図とは関係なく、勝手に望ましからざる心象(イメージ)を造らせることなく、意のままに働く道具にすることができることを、神智学は教えています。

 

 心は休閑地みたいに無為に過させてはならない。そうしないと、どんな想念の種子が他所(よそ)から入りこんで根をおろして生い茂るか知れない。また心を勝手に波動させてもならない。そうしないと、その中を過()ぎる波動がどんなものであっても無差別にそれと同調してしまうからである。心は自分のものである。故に自分という魂がえらぶ想念だけが入るようにしなければならない。(神智学大要 第三巻 メンタル体 「第13章 肉体(覚醒)意識」p.120より)


 もし難儀を厭うことなく、時間をかけ、集中して物事を考える習慣を形成するならば、彼の頭脳は魂から伝わってくるものだけに聴従するように訓練され、頭脳が用いられない時は沈黙を続け、周りの想念の海からやってくる取り留めもない流れに対しては反応することもそれを受け入れることも拒否するようになり、従って、明敏なる洞察と、下の界層では思いも及ばぬ確実なる判断の根源である高級界層より発する告示とに対して無感覚ということはもはやありえなくなる。(前掲書p.121より)


 心にとどめてもよいものを最大の慎重さをもって選ばなければならない。それが善い想念であることがわかったらさらにそれに思索を重ね、それを強化してから他を裨益するものとしてそれを放射する。善からざる想念であることがわかったら、それを完全に拒否することである。(前掲書p.127より)

 

 ここで、過去の記事からの引用になります。私たちにとって、なぜ心を統御することが必要なのか、この世に生を享けて、魂の進化向上のためにいちばん為すべき大切なことは何なのか、なぜ祈りが大切なのかといったテーマは、神智学のもっとも中心的なテーマであることが、今回、これを再読するうちに改めて自覚されました。

 

通常のアストラル体とメンタル体は、「カーマ(欲望)-マナス(精神)」という言葉があるように、ほとんどの人間において一生のうちに発する想念で欲望の影響下にないものはないといわれるくらいに下位メンタル体とアストラル体の欲望とからみ合っています。

おまけにアストラル界には、欲望エレメンタルといわれる生物たちがたむろしています。そして、怒りなど激しい感情を人間が出すのを、まるで餌をありつこうとする獣のように虎視眈々とねらっています。そのお目当ての感情を出すやいなやエレメンタルが群がり寄ってきてその人のアストラル体に憑依し、いっそう激しく怒り等の否定的想念感情に揺さぶりをかけ増幅させるわけです。


 そうなると、肉体の脳とメンタル体との連絡は、それらの真ん中に位置するアストラル体がハイジャックされるために完全に断たれてしまって、まともに思考が働かなくなります。


 一方、メンタルエレメンタルという存在もいます。それにやられてしまうと、一つの思考から別の思考へと落ち着きなく飛び移り、重要な事柄を集中して明晰に思考することができなくなります。

こうした危険を避けるには、コーザル体の意志が常にメンタル体に命令を下し、メンタル体は常にアストラル体を統御するという正しい流れが完成される必要があります。

 これこそが、人間が生れ変わり死に変わり(輪廻転生)しつつ、意識を進化させてゆこうとする目的です。魂の目的といってもよいでしょう。眠っていたメンタル体高位の三亜層の質料が活性化し、コーザル体からの働きかけに応えて清純で高尚な思考ができるようになると、もはやアストラル体がメンタル体の働きを阻害することもなくなってゆきます。


 いつも心配ばかりしていたり、不安を抱きがちだったり、ちょっとしたことでふさぎこんだり、悩み苦しんだり、疑いの念がはらいのけられなくなったりという心の状態は、習慣化したメンタル体の癖のようなものです。いうまでもなく下層の質料が使われているのですが、これと反対に少しでもコーザル体とのパイプを強めようと思ったら、いくつかの訓練や心がけをすればよいのです。


 そのひとつが、毎日一定の時間をかけて集中的に物事を考える習慣を生みだすことです。これについては、別の機会に譲ります。


 もうひとつは、いつもワクワク感を大事にして行動する心がけが有効ではないかということです。


 これは、神智学の本には書いてないことなのですが、ワクワクするかどうかは自分がよく知っていて、これをするときワクワクするかどうかと自分の声を聞いて、それに素直に従うときは、コーザル体と一体化しているのではないかと私は考えています。

 別の言葉でいえば、私たちが各自で異なる固有のワクワクを信頼して行動に移すときには、高次の魂(真我)からのメッセージが受け取る用意ができているということではないかということです。


 当然、低いところからやってくる欲望や否定的想念などとは波長が合わなくなるので、それらの雑念に頭脳が煩わされることはなくなっています。



  (2010-01-11 21:01:07  「ワクワク」を神智学の観点でみると

       テーマ:神智学の森 メンタル体  より引用)


                                                つづく











 仮に、低いレベルの想念が、誰かと電話で話しているときに入ってきたとしましょう。無用な心配。悲観的な想像にもとづく悪い予測。他人の領域に立ち入り、口出しをするおせっかいな態度などです。



 これらにたいしてすぐに反応し、相手の理不尽さを証明し、説得しようとして議論モードに入れば、罠にはまってしまいます。



 そういう相手はたいてい頑なな思い込みをもっていて、それを見直すだけの距離を、自分の発した想念にたいしてもつのに十分な意識の覚醒を保ってはいません。むしろ自分が何かについての思い込みをもち、どうしてそんなふうに頑なに思い込んでいるのかということにも、気づかないほどに、その思考と同化してしまっているものです。



 したがって、何をいっても通じません。そのため、説得の努力は虚しく終わることになります。それどころか、そうした相手に説得を試みれば、もっと厄介なことが起こります。





 それまで秩序と均衡を保っていたメンタル体は確実に悪い状態となります。それは、相手の放送した想念の粗い波動と低い周波数に同調して、それまでの精妙な波動を下げて、高い周波数域から低い周波数域へと引きずり下ろされることになるからです。



 説得に必要な思考をメンタル体から放つときには、メンタル体を振動させるだけでなく、感情体としてのアストラル体のほうも激しく振動させしまい、その結果、純粋な思考ならメンタル体の精神(マナス)だけを使うところを、相手を説得できないことへの苛立ちや相手が愚かしいことを信じていることへの怒りの感情をまとうことになり、いつのまにか欲望(カーマ)の影響下におかれてしまいます。





 これが欲望-精神(カーマ-マナス)という、低位のメンタル体(下位精神)とアストラル体の癒着した状態です。通常は世間一般の平均レベルの人々は、この状態に陥っていることが多いといえます。



 すなわち、純粋な思考だけを駆使するのではなく、何らかの私情の混じった、利己的な感情の色のついた思考を駆使している、というよりは、使われ、支配されているわけです。先に「罠」という表現を用いたのも、そのためです。



 

相手の言葉を聞いて、相手の悪い習慣によって繰り返される想念を自分のメンタル体の中に取り込んでしまうとき、最初のうちは、相手の誤りを指摘したり、相手が自分の考えでこちらをコントロールしてくるのを拒否したりするために言葉で伝えようとするのですが、そのうちにそれが通用しないとわかり、しだいに心を曇らせ、怒りに心を震わせ、声を荒げて、自らを傷めたり、相手を傷める結果を招いてしまって、不快感を味わい、新たに苦悩の種を心に蒔いてしまったことに気づきます。そこに到って、はじめてこんなはずじしゃなかったのに、なぜこんなに事を大きくしてしまったのだろうかと思うわけです。ところが、それには理由があるのです。




 というのは、そうしたコントロールしきれない想念のエネルギーの増大は、悪習から来る想念を発した原発者である相手による影響だけでなく、しばしば人工エレメンタル(念霊)と呼ばれる想念エネルギーが多大な影響をおよぼしていることがあるからなのです。




 これは波動が同じ周波数で共振共鳴するという法則によって簡単に説明できます。相手の低い想念に同調して、説得や非難に躍起になると波動を落とします。しかも、激しい感情をともなった思考を放てば、その振動数を好む、たまたま近くに漂っていた人工エレメンタル(念霊)が、好餌にありつくようにして、その感情想念を自らの内に取り込み、活発に振動することでその波動を増幅させます。


 人工エレメンタルは、想念の生き物です。その寿命を保つために何としても生き永らえようとする盲目的な本能によって、誰かの発した低い感情や思考を食べ物として摂取します。そのため、原発者が発した想念に単に同調してしまったときのエネルギーをずっと上回る大きなエネルギーとなって、同調者のもとへ戻ってくることになるのです。


※「アストラル体」のカテゴリーで過去に書いた記事を参照のこと

 2009-07-23 23:57:47 なぜ同じ感情を繰り返すのか―生き霊のはなし」

 テーマ:神智学の森 アストラル体





                              つづく