拙宅も焼け出される


私の家のあたりは、それまで空襲を免れていたが、
5月23日、横浜の爆撃の帰りであったB29の編隊が、
遥か上空からバラバラと焼夷弾を落として通過した
と見ると、ザーッという音と共に焼夷弾が降って来た。
私はすぐ外へ出て、かねて用意の椅子を登ってみると、
近所の家々にはいくつもの焼夷弾が落ちていたが、
拙宅は玄関のコンクリートの上に一個落ちいてた
だけで、屋根の上には飛ばっちりのようなのが十二
カ所落ちて燃えていた。それらをすぐ消し止め、
「うちは完全に消火したぞ!」と言ったが、家の金魚
鉢を見ると、金魚が今にも息が切れそうに泳いでいる。
「おおい、金魚がこんな格好で泳いでいる」と家の中
へ声をかけると、家内は「子供を連れて避難します」
と言いおいて出て行った。一時間もたたぬうちに、南側
と北側と西側三方の家々から焼け移って、拙宅もとうとう
類焼した。焼け出された者たちは近くの学校の講堂に一時避難した。
その後家内が幼い子供達を連れて疎開し、私は残った年上
の子供達と取り敢えず焼け跡を整理し、焼けトタンを集め
バラック(仮小屋)を建てた。バラックの中から見上げると、屋根
の焼けトタンの穴から空が見える。夜になって雨が来た。
子供達は寝入っていたが、私は蒲団の上へ落ちる十数カ所もの雨漏り
を代わる代わる拭うのに忙しかった。
一方、食糧は米の代わりに配給になった大豆を煎って食べて
いた。
日本の惨状は日一日とその度を増し、私は遂にここまで
来てしまったのかという暗澹たる思いであった。
(橋本徹馬『日本の敗戦降伏裏面史』p.379-p.380)