アストラル体を浄化し、欲望や感情の奴隷にならずに、
これらを統御できるようになることは、魂の進化にと
ってたいへんに重要なことであることはいうまでもあ
りません。
そのためにはメンタル体を発達させて「精神」と「意志」
が本来の働きをなすことによってのみ、完全にアストラル体の
欲望や感情や執着を「隷従」させることができるということ
を、神智学では教えています。

それでは、具体的にはどうすればよいのでしょうか。
アストラル体を十分に統御するのに最も役立つ方法とは?

それは、感情が発生するメカニズムに熟知することです。
ちょっと原典から引用してみます。

「人間の気質は多種多様であるが、生まれつき高尚な人は
別として、それ以外の人にとって、感情を学問的に、細心
に研究することは非常な助けとなる。なぜならばある力(こ
こでは感情の力)の発生の仕方もその性質も完全に解って
おれば、それを統御するのはきわめてたやすいからである」
(第二十五章「感情の支配」『第二巻アストラル体』p.260より)

こう述べてから、神智学大要の編者であるA・Eパウエルは、バカ
ヴァン・ダス氏の『感情の科学 Science of Emotion』
という書名を紹介したうえで、「ここに規定された諸原理を十
分に研究するように読者に切にお勧めする」という言い方を
しています。この本は巻末の引用文献の一覧によると1900年版と
なっていますから、ブラバツキーの『シークレット・ドクトリン』
が出た(1897年版、1905年版)のと同時代ということになります。
さらに同書のすぐれた要約である『感情の科学大要』という本
の論旨を紹介し、つぎのようなことが述べられています。

あらゆる現象を分析すると、自我と非我つまり自分と自分で
ない者との関係に帰する。そして、この関係は、1)認識(梵語
ニャーナム Gnyanam 初めのaの上に-が付きます。以下のa
も同様)、2)欲望(イチュチャー Ichcha)、3)行為(クリヤKriya)
の三つに分けられる。知ること、欲すること、努力または行為す
ることにより、人間の意識生活は成り立っている。

感じや感情には、快と不快がある。快感は、引きあう力・愛と
「もっと」という感覚を生み出す。苦痛は、拒絶、嫌悪(梵語
ドゥヴェシャdvesha)のもとになり、遠ざけ反撥する力と「より
少なく」という感覚を生み出す。
いっさいの感情は愛か嫌悪からか、または両者のいろいろなか
らみあいから起きてくる。

私たちにとって、ときにやっかいなものとなる、あらゆる感情
の発生源は、まず快と不快の体験であるというのです。
感情の質はこれらに対応する二つしかなく、愛は快に、嫌悪は
不快に対応する感情ということになります。

もちろん、これだけでは、人間の複雑な諸感情を説明しきるこ
とは不可能です。
それぞれ愛の感情には、敬服と愛情と仁慈の三つがあり、嫌悪
の感情には、怖れと怒りと高慢または専制の三つがあるとされ
ます。そして、さらにそれら六つの基本的な感情のそれぞれに
感情の程度にむ応じて四、五段階に応じた感情があるので、全
部あわせて27の感情に細分化されます。

では、いったいこれらの枝分かれした感情の種類は何によって
決まるのでしょうか。
じつは快と不快の体験だけでなく、さらに複雑な感情が発生し
てくるためには、もうひとつのファクター(因子)が必要なのです。

それは、感情を向ける対象である存在と、感情を発する本人と
の関係です。
仮にあなたが怒りの感情を発生させたとします。誘因となったの
は相手(人でも物事でも人間以外でもいいのですが)の存在である
と思いがちです。いや、相手に不快な感情を体験させられたと思
うからこそ、相手への怒りが湧いてくるのだといってもよいかも
しれません。

ところが、同じ不快な、嫌悪の印象を対象から受けたとしても、
それが怒りになるとはかぎりません。
怖れの感情が出てくるとか、相手を軽蔑した高慢な気持ちになる
とか、異なった反応をすることもあります。

では、なぜ相手と関係することが、このように異なった感情をも
たらすのでしょうか。
ここで思い出していただきたいのは、自我と非我の関係が、1)認
識(ニャーナム)、2)欲望(イチュチャー Ichcha)、3)行為(クリヤ)
に分けられるということです。これは感情発生のメカニズムを理解
するうえでとても大切な事柄だと思います。

いきなり対象に怒りを感じて非難攻撃したくなる、怖れを感じて逃

げたくなる、高慢な想いが出て侮蔑したくなるなどの欲望が現れ
るというのではなく、その前にまず対象と自己との関係をどう見る
かという認識の作用があるわけです。
それらの認識の違いが、どういう種類の欲望や感情をいだくかを

決め、欲望や感情が増大してゆくとやがて臨界点に達して言葉や

態度や動作などによって想念感情が表現され、実際に対象に影響

を直接もたらす行為におよぶことになります。

さて、もう一度、感情の対象との関係の認識に立ち戻って考え
てみましょう。
前に掲げた書によると、関係の認識は、相手が自分よりも優位で
あると認識するのか、小さいとか弱いと認識するのか、あるいは
相手が自分と同等と認識するのかということです。

快を感じると引きつけ合います。その結果、愛が起ります。
そこで、相手がまさっていると感じていれば、敬服になり、下で
あるときは、仁慈であり、同等であれば、愛情となります。

またさらに、それぞれ感情の程度が五段階にも分かれます。
敬服は、さらにその感情の程度の大きいほうから崇拝、賛美、敬服、
尊重、敬意と、細かく分かれます。
愛情は、愛情、同志愛、友情、ていねいと、細かく分かれます。
仁慈は、同情、優しさ、親切、憐れみと、細かく分かれます。

同じ愛でも、我が子や幼い児、生徒、後輩、また動物や植物など
にたいする愛は優しさとなり、お年寄りや体の弱い人、障がいの
ある人なら、さらに同情や親切などの情が加わり、被災者とか
境遇の不幸な人、あるいは小さな動物に憐れみを抱く人もいるで
しょう。
それにたいし、崇拝とか賛美というと、自然や神への賛美だとか、
宗教的な感情である崇敬の念や帰依の気持ちなどがあります。
これらは単に敬服するのとは異なります。
同等の愛なら、夫婦愛、人類愛、友愛、他人へのていねいさ、心配り
などです。

こうした好ましいポジィティブで建設的な感情とは別にネガティブで

破壊的な感情があり、それらが心の中に同居していて、ときどき好ま

しからざる感情が出てきてしまい、それに悩まされます。

私たち人類はあまりにも長いあいだこのように感情に支配されてきま

した。感情自体が悪いわけではなく、アストラル体の浄化とコントロー

ルという学びさえクリアすれば、美しい感情のみの世界が創れます。

今の地球は、この学びの段階であるということを、ちょうど1987年あた

りから日本にも宇宙存在の意識をチャネルした情報がはいってくるよ

ようになった頃だったかに聞き知って、このテーマと取り組むことの必

要性を感じながらも、今日まであまり進んでこなかったなと個人的に

は反省しているところです。しかし、今、あらためて神智学の叡智に

触れながら、感情というものをもっとよく理解し、感情のマスターになれ

るようにしたいと願うようになってきました。

                                    (つづく)