新川橋・津島街道起点【尾張】美濃路 | 第六天魔王の天下統一記

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第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

昨日の清洲編の始まり。

清洲城信長祭りに向かうのに、
当初は何も考えずにJRさわやかウォーキングで行くつもりでしたが、
コースマップを見ると惹かれる所が無い。
日吉神社も何回か行ってるし。

そこでGooglemapをグルグルと。
周辺に印してた所がポツポツ。
繋ぐと美濃路(大体旧道になる)
はい、決まりました(* ̄∇ ̄)ノ

スタートは新川に架かる新川橋(思い切り逆光)
この先、美濃路は東に向かい、庄内川を渡り名古屋城へ。

橋の西にポケットパークがあり、
以前の新川橋親柱(左の2つ)と津島街道道標(右・影が( ̄▽ ̄;))

右の「大正二年(1913年)二月架橋」はなんとなく解るが、
左の「しんかははし」は全く解らない( ゚ε゚;)

実に面白い。やってみよう(/□∀□)

ググったら出ました。
「志武可者はし」当て字だし( ゚ε゚;)

裏側。
こちらには「新川橋(橋は旧字体)」

そして一番右の道標。
元々は清須五条橋の欄干親柱と言われ、
新川橋西に移設されて道標兼常夜灯に。
「左つしま道」これは解りやすい。

更に左にも津島街道道標(1788年)
光で飛んでる( ゚ε゚;)

裏側。
「左 なこ(や)」津島から美濃路への表示。
「右 津し(ま)」美濃路から津島への表示。

現在の分岐点の前に、まだパーク内を。

塀に案内板が並び、
右に「美濃路の歴史」
平安時代、都から東国への道は東山道と東海道。
この二本を美濃~尾張で繋ぐ道が美濃路の原型。

鎌倉時代には京と鎌倉を結ぶ京鎌倉往還(鎌倉街道)が最重要街道となり、
美濃路に重なる部分もあり。

信長・信雄の頃から整備されたものが、
江戸時代に美濃路と呼ばれます。

地図をアップ。
桶狭間の戦いで信長、小田原征伐で秀吉、関ヶ原の戦いで家康の凱旋道となり、
吉例街道と呼ばれました。

信長の場合、戦勝祈願街道だったりもします( ̄▽ ̄;)笑

北はこの後向かうので、その時に。

中央は「新川開削」
この辺りは庄内川と五条川に挟まれ、
度々洪水の被害がありました。

村の庄屋・丹羽義道は尾張藩に窮状の打開を訴え続けますが閉居処分。

惨状を視察した9代藩主・宗睦は勘定奉行・水野千之右衛門に治水事業を命令(1779年)

千之右衛門は庄内川に沿った新川の開削を計画し着工しますが(1784年)
過小な工事積算(最近も聞きますよね)が発覚して降職・謹慎(1786年)

しかし工事は継続して完成します(1787年)

宗睦は尾張藩の「中興の祖」と言われますが、
後の財政破綻の一因となります(^^;

木曽三川は幕命で薩摩藩が治水しましたね(1755年)

案内の下に「新川を開いた功労者 水野千之右ヱ門 丹羽義道 頌徳碑」

脇に案内(花が( ̄▽ ̄;))

左に「東海豪雨による新川の決壊」
新川の開削により洪水は減りましたが、東海豪雨で新川が決壊(2000年)
流域で6000世帯が床上浸水。

この時の状況はニュースでも見ていましたが、
当時産業廃棄物を運んでた埋め立て地に、
大量のゴミが運ばれて来たので被害の大きさを実感してます。

そして川護陣屋。
有事の時の倉庫・詰所。

少し南に新しい道標「是よりつしま道」
この西への道が津島街道。

アングル変えて、左が津島街道で右向こう(北)に行くと新川橋。

道標の向こうに「津島街道」の案内板。

右下の地図をアップ。
ここが津島街道の起点で、西に向かって甚目寺~木田~勝幡~津島へ。

南の尾頭橋東(地図の金山新橋付近)を起点とし、
岩塚~万場~神守~津島~佐屋に向かうのが佐屋街道。

津島街道は佐屋街道の北側を並行して通るので上街道とも呼ばれます。

県道126号線が美濃路で、
南の津島街道起点から西に津島街道。
マークの銀行駐車場に停めました(^^;
ここの支店は利用してなくても、
三菱東京UFJ銀行のETCカード使って来たのだ( `Д´)/笑

改めて調べたら、この支店のATMの入口に案内板がありました(^^;
左の塀に(streetview)
ここが新川掘削本陣跡。

ちゃんと利用すれば良かったのですが、
前日の買い物の時におろしたばかりだったんですよね( ̄▽ ̄;)


美濃路を進みます。
続く。