2026年4月1日 14時00分

編集委員・大久保真紀


「戦後80年」連載「引き裂かれた絆」第4回


 「一度でいいから、母に抱きしめてもらいたかった」

 中国残留日本人孤児の南島姫勢子さん(86)=東京都=は言う。戦争で引き裂かれた家族。一度断ち切られた絆を結び直すのは、容易ではなかった。

 「李桂蘭」という名で育った南島さんは、1983年12月に行われた肉親捜しのための訪日調査に参加した。離日まで残り1日半と迫った夜に、年老いた夫妻と面会した。

 母と、母が戦後に再婚した義父だった。

 言葉は通じず、親近感をもつことは難しかった。母も手を握ることも涙を流すこともなかった。


 実父母は戦前、長野県から満蒙開拓団として中国東北部(旧満州)に渡り、南島さんは中国で生まれた。

 記憶にあるのは、5歳のときに外で遊んでいると、飛行機が低空で飛んで来て近くの橋に爆弾を落としたことだ。45年8月。

 それが逃避行の始まりだった。

 ほかの開拓団員らと一緒に、家族で村を後にした。途中で父とはぐれ、母や妹らと逃げ惑い、気づいたらひとりで難民収容所で寝ていた。


差し出された野菜スープと白米

 病気でやせ細っていた南島さんは、子どものいない中国人の養父母に引き取られた。

 養母は小さな椀(わん)に野菜スープを入れ、白いご飯も持ってきてくれた。その後、たらいで体を洗ってくれて、白いワンピースを着せてもらった。

 養父母はやさしかった。しかし、養父は満州国時代に日本が運営していた発電所で経理の仕事をしていたため、やがて投獄された。共産主義革命の反対者を再教育するとして中国全土につくられた「労働改造所」に送られ、行方がわからなくなった。


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母と再会、でも… 「抱きしめてほしかった」残留孤児が直面した現実

https://digital.asahi.com/articles/ASV3R059XV3RUTIL001M.html




朝日新聞 2026年3月31日 14時00分有料記事

編集委員・大久保真紀


連載「引き裂かれた絆」 第3回

 「私はトウモロコシ20キロと交換で売られたんだよ」

埼玉県岩槻市に暮らす佐藤千代さん(97)は静かに語る。

 敗戦前後の混乱で中国に取り残され、現地の人と結婚した、いわゆる「中国残留婦人」だ。

 「私には、娘時代がなかった……」

 そうつぶやく。


 樺太(現・サハリン)で生まれた。幼いときに父を亡くし、11歳のころに母や祖父、兄らと満州(現・中国東北部)に開拓団として渡った。

 一家は10歳以上離れた兄を中心に田畑を耕した。貧しかった樺太では麦飯だったが、満州では白いご飯を食べられた。

 「学校に通い、友だちと草や花をとるなどして楽しかった。あのころは幸せだった」

 しかし、日本の敗戦直前の1945年8月9日、ソ連軍(当時)が満州に侵攻し、開拓団の逃避行が始まる。


 おにぎりや煎った大豆など持てるだけの物を持って村を出た。成人男性は根こそぎ召集されており、長兄も応召していた。残ったのは女性や子ども、高齢者ばかりだった。


逃避行、置き去りにされる赤ん坊 すべて見ないふり


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朝日新聞WEB 2026/03/30

編集委員・大久保真紀


連載「引き裂かれた絆」 第2回


 アジア・太平洋戦争の終結時、中国東北部(旧満州)には多くの日本人が取り残され、子どもや女性が「残留孤児」「残留婦人」となった。その背景には、「満蒙開拓団」の存在がある。

 戦前から戦時中、日本は国策として傀儡国家の「満州国」に全国から約27万人の満蒙農民を送り出した。旧ソ連の参戦と日本の敗戦により逃避行を余儀なくされ、戦闘や飢餓、病気、集団自決などにより約8万人が命を落とした。

 「残留孤児」とは何か。こうした史実をどのように語り継いでいくべきか。日本で唯一、満蒙開拓に特化した満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)の館長を務める寺沢秀文さん(72)に聞いた。


累計25万人が来館 両陛下も視察

――長野県は、満蒙開拓団に最も多くの団員を送り出したことが知られています。

「はい。その数は約3万3千人にのぼります。そのうちの4分の1を、記念館がある飯田・下伊那地方が占めています」

――寺沢さんのご家族も開拓団員だったのですか?

「8人きょうだいの三男だった私の父も開拓団員として渡満しました。母は『大陸の花嫁』として海を渡りました」


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朝日新聞WEB 2026/03/30

連載「引き裂かれた絆」 第1回
 81年の人生を、四つの名前で生きてきた。
徐明→吉川明子→今村明子、そして、池田澄江。実の父母がつけたこの名前にたどりついたのは、51歳のときだった。

いわゆる中国残留日本人孤児だ。

 アジア・太平洋戦争の末期、1945年8月9日にソ連(当時)が満州(現・中国東北部)に侵攻し、その地で暮らしていた日本人は命からがらの逃避行を余儀なくされた。戦闘や飢餓、疫病……。親たちも生きるだけで精いっぱいの状況の中、中国人に預けられた子どもたちがいた。

 池田さんもそのひとり。1歳前後で、日本人の実母から中国人に託された。

 「徐明」は、中国人の養父母がつけた名前だ。

 黒竜江省牡丹江市で、貧しいながらも大切に育てられた。学校では「日本鬼子(リーベングイズ)」といじめられたが、成績は良く、師範学校に進み、62年に小学校の先生になった。

だが、赴任先は電気もない山奥。中国社会の中で、敵国人だった「日本人」という出自はいつも重たかった。

 そんな人生は、72年の日中国交正常化が大きな転機となる。

「父」との再開… 一転して絶望に

 牡丹江市に来た訪中団の日本人たちに面会すると、肉親捜しをしている自身のことが日本の新聞で報じられ、北海道の男性から「私の娘だ」と連絡が来た。

 父親の職業、預けられた場所、年齢、いずれも一致した。写真も交換した。

 天にも昇る気持ちだった。

 ミシンや自転車などを売って旅費を工面し、子ども3人を連れて81年夏に日本へ自費帰国。「吉川明子」として「父」の家に身を寄せた。

 しかしその後、血液鑑定の結果が出る。親子関係が否定された。

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語られなかった戦争の傷

 大阪市で喫茶店を営む藤岡美千代。幼い頃、父から激しい虐待を受けて育った。10歳の時にその父が自死したと聞き、思わず万歳してしまうほどだった。だが成長後、彼女自身もまた、娘を虐待 してしまうという苦悩を抱えることになる。

 神奈川県でタクシー運転手をする市原和彦。幼少期、父が母に浴びせた「この淫売女が」という黒声は、今も消えない傷として胸に刻まれている。4 0 代で結婚するが 、 妻に日常的に暴力を振るってしまったことを、死別した今も悔い続けている。

 シングルマザーの佐藤ゆな(仮名)もまた、幼少期の唐待により複 雑 性 P T S D ( 心 的 外 傷 後 ス ト レ ス 障 害 ) を 抱 え 、娘 と の 向 き 合 い方に迷い続けている。新興宗数に傾倒した母からの過剰な支 配は、今も彼女の心を締めつけている。 三人が抱える「生きづらさ」は、どこから来たのか。 取材を進めるなかで浮かび上がったのは、彼らの父や祖父が、 いずれも戦争に従軍していたという共通点だったー。

 

生きづらさの、こたえを求めて子どもたちは、親をたどる

 近年、帰還兵の多くが深刻なP TSDを抱えていた事実が、ようやく明らかになりつつあ る。癒やされなかった心の傷は、DVや依存症という形で子や孫へと受け継がれることがあり、肉親間の断絶を引き起とすこともある。その連鎖を、いかにして断ち切ることができるのか。

 本作でこのテーマに挑んだのは、「ちょっと北朝鮮までいってくるけん。」「生きて、生き て、生きろ。」を手がけてきた島田陽磨(日本電波ニュース社)。戦争や国家分断という 巨大な力に翻弄されながらも、自らの足で立とうとする(個人)を記録してきた監督と、 戦後日本の現実を記録し続けてきた日本電波ニュース社が、戦後80年の節目に、受け継がれた痛みと向き合う人々の姿を静かに見つめる。

 

 


上映情報

<公開初日~上映最終日>

2026/3/14 〜 3月下旬 〜 未定

<最終日>

未定

<タイムテーブル>

3/14(土) ~ 20(金) 12:00

3/21(土) ~ 27(金) 14:00

3/28(土) ~ 4/3(金) 9:50

イベント情報は→こちら