2024/05/16 中日新聞

 【長野県】阿智村駒場の満蒙(まんもう)開拓平和記念館は開館10周年記念誌「前事不忘 後事之師」を作った。施設の沿革とともに、満蒙開拓団の体験者による語り部講話の実施記録、ボランティア活動の概要などを載せている。

 記念館は2013年4月25日に開館。多くの開拓団を送り出した飯田下伊那地域に満蒙開拓に特化した施設を-と、飯田日中友好協会を母体に建設準備が進められた。施設と同名の一般社団法人が運営している。

 記念誌は、開館の経緯のほか、開館後の語り部定期公演や調査旅行の実施、修学旅行受け入れ、ボランティア養成講座開催などの活動をまとめた。語り部や開催申込団体の名を記録した語り部講話実施一覧、見学を受け入れた学校の一覧もある。

 寺沢秀文館長は冒頭のあいさつ文で「満蒙開拓の教訓から明日への平和へつながる『平和の種まき』」を続け、「『小さくてもキラリと光る記念館』を目指し続けたい」と記した。

 三沢亜紀事務局長は「高齢になった開拓体験者とともに、貴重な10年を歩んだ記録といえる」と話している。A4判、97ページ。300部を印刷。関係者や関係団体に配布した。(近藤隆尚)
 

2024/05/15 熊本日日新聞
 終戦後に旧満州に残され、後に帰国を果たした中国残留邦人の2世への支援を求める「中国帰国者を励ます集い」が12日、福岡市であった。熊本県内の2世ら4人を含む約120人が参加し、1世と同等の年金支給や就労支援を訴えた。

 日本中国友好協会福岡県連合会などでつくる実行委員会主催で2回目。2007年の帰国者支援法改正で1世への老齢基礎年金の満額支給が認められたが、2世は対象から外れている。就労の機会に恵まれず、生活保護に頼る2世も多いという。

 2世を代表して石原麗子さん(57)=久留米市=が「本来受け取れるべき権利を取り戻したい。日中友好が続くよう、政府は再び戦争を起こさないでほしい」と宣言。邱継英[きゅうけいえい]さん(61)=菊陽町=は「40、50代で帰国できた2世が受給できる年金はごくわずかで、老後の生活に不安を抱えている」として、早急な支援を求めた。

 日本中国友好協会などは6月、「中国帰国者2世の生活支援等を求める請願署名」を国会へ提出する予定。(遠山和泉)
 

2024/05/13 京都新聞
 中島茂(なかじま・しげる)さん(89)=長野県飯田市 姉が嫁ぎ、家族救われた

 5歳だった1940年9月に満蒙(まんもう)開拓団に加わり、長野県泰阜村から満州に渡った。7人きょうだいの5番目。詳しいことなんか分からず、家族で旅行に行くみたいだった。

 満州では寄宿舎から学校に通った。戦争で勝った話ばかり聞いていたが、45年8月9日、45歳だった父が軍に召集された。開拓団は徴兵免除だと言われていたのに、子どもながら何かおかしいなと思った。

 その後、集落がある場所は危険だということで、四つほどの開拓団が集まって逃避行を始めたが、中国人の襲撃に遭った。すぐ近くを「ヒュー」「プスッ」と音がして弾が飛んでいく。はぐれないよう、撃たれて倒れた人をまたいで必死に走った。私の家族は誰も弾に当たらず、運が良かったとしか言えない。

 満州に侵攻していたソ連兵に9月に捕まり、収容所に入れられた。開拓団の幹部はシベリア送りになった。食べ物はわずかで、満州で生まれた妹は11月ごろ死んだ。

 冬になって、姉が現地の中国人に嫁ぐのを条件に、収容所を出ることができた。姉は当初「そんなところに行くくらいなら死んだ方が良い」と拒んでいたが、生きていればなんとかなると考えて、犠牲になって。それで家族も救われた。

 私は豚や牛の放牧をしたり現地の学校に通ったりした後、近所の人の紹介で印刷所で働いた。借りていた家を買い上げ、暮らしは安定していた。

 だから53年に18歳で母と弟と一緒に帰国すると決まった時は複雑な気持ちだった。親戚や友人も皆、帰ることになったけど、日本語は忘れてしまって完全に中国人になっていたからね。日本では、抑留先のシベリアから戻っていた父と暮らしながら土木工事やタクシー運転手をした。

 泰阜村の開拓団経験者の会に参加していたが、会員の高齢化で2023年、活動を終えた。語り部活動は、なんとか90歳まで続けたい。(年齢・肩書は取材当時)=随時掲載します
≪満蒙開拓≫
 1931年の満州事変後に国策として、中国東北部の旧満州に開拓名目で移民が入植。終戦までに約27万人が渡り、長野県からは全国最多の約3万3千人が送り出された。旧ソ連軍の侵攻による犠牲や、多くの残留孤児も発生した。(共同)
【写真説明】
満蒙開拓団に加わり満州に渡った当時の生活を語る中島茂さん

2024/05/11 信濃毎日新聞
鍬を握る・満蒙開拓からの問い 満州といまをつなぐ

[満州・ハルビン生まれ 歌手 加藤登紀子さん(80)]
 父が南満州鉄道(満鉄)に勤めていました。ハルビンで生まれ、終戦の翌1946(昭和21)年、2歳の時に母子4人で引き揚げました。父は召集されていました。

 2022年、中国人画家王希奇(ワンシーチー)さんの作品に出合いました。中国の葫蘆(ころ)島で引き揚げ船に向かって歩く日本人の群衆を描いた横20メートル、縦3メートルの大型作品。「私もこの中にいるかもしれない」と食い入るように見つめました。これをきっかけに「果てなき大地の上に」を作詞作曲しました。昨年は満蒙(まんもう)開拓平和記念館(下伊那郡阿智村)に王さんが訪れると知って駆けつけ、この曲を歌いました。6月2日(完売)、5日に都内で開くコンサートでも歌います。

 中学生の時に歴史を学び、なぜ「満州国」ができたか、日本の関東軍がどんな働きをしたか、理解し始めました。父に聞いたことがあります。「父ちゃんは侵略者だ。私は侵略者の子なんだ」と。

 父は満州国の建国前にハルビンに渡り、語学学校でロシア語を学んでいました。広い世界を見たい一心だったと思います。私の問いには「それだけではないよ。たくさん良いことも残したかもしれないよ」と言っていました。

 日中国交正常化の9年後の81年、中国側からのオファーで、歌手として35年ぶりにハルビンを訪れました。すごく温かい出迎えを受けました。そして、幼すぎて記憶はないはずなのに懐かしかった。

 子どもの頃から、母はよく引き揚げの話をしてくれました。野宿していた時、夜風で目を覚ましたら真っ暗な空から真っ白な雪が降ってきて、瞬く間に寝ている私たちの上に積もっていった、その情景がすごくきれいで生涯忘れない―と話してくれて。それを88年にリリースした曲「遠い祖国」の中に書きました。

 収容所で暮らしていた時も、母は常に私をおんぶしていた。そういう話を聞くたび、私は母が見た風景を一緒になぞりました。だからハルビンで列車が駅に着いた時、「ああ、この駅は知っている」と思いました。不思議ですね。

 「遠い祖国」の中に「たとえそこが祖国と呼べない見知らぬ人々の街でも 私の街と呼ぶことをゆるしてくれますか」という歌詞があります。日本は侵略して入っていった。だから故郷と呼んではいけないかもしれない。でも、私が生まれたハルビンを、私は「私の街」と呼びたい、呼ばせてほしい―。抱え続けていた葛藤を詩に託しました。

 葛藤はずっと持ち続けてはいますよね。でも南京に行った時、中国の人は「私たちはみんな共通の戦争の被害者だ、だからそのことで憎しみ合ってはいけない」と言ってくれた。どういう気持ちで乗り越えていくかは、憎しみを育てていこうとする人もあるし、憎しみを癒やしていこうとする生き方もある。私は歌手として、その傷を乗り越えるためにやっていくんだと決めていました。

 ロシアによる侵攻を受けるウクライナの人たちは「最後の一人になるまで闘う」と言います。戦争末期の日本が言ったことです。国を守るために全員死んでしまうことになる。戦争の不条理です。

 私たちは憲法9条を根拠に、戦争をしない権利を持っています。このことは類いまれな幸運ですが、同時に日本の戦争がとてつもなく悲惨だったことを表しています。若い人たちには、そのことをもう一度よく知ってほしいです。

[かとう・ときこ]
 歌手。1943(昭和18)年、満州(現中国東北部)ハルビン生まれ、京都市育ち。東京大在学中に歌手デビュー。学生運動の指導者、藤本敏夫氏(故人)と獄中結婚した。代表曲に「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」など。
 

2024/05/11 東京読売新聞

 国民年金の一時金を受けられる「特定中国残留邦人等」の認定申請を却下された旭川市の70歳代女性が国を相手取り、処分取り消しを求めた訴訟の控訴審で、札幌高裁(佐久間健吉裁判長、斎藤清文裁判長代読)は10日、却下処分を違法とする判決を言い渡した。

 1審・札幌地裁は認定要件の「生年月日」を理由に請求を退けたが、高裁は樺太(ロシア・サハリン州)で一緒に暮らしていた女性の兄が認定を受けている点を重視。「生年月日の違いだけで処遇を変えるべきではない」と指摘した。

 一時金の制度は、日本の敗戦後の混乱で中国国内や樺太に残らざるを得なかった人々の支援を目的としており、〈1〉1946年12月31日以前に生まれた〈2〉同日の後の生まれでも、帰国できない事情があった――などの要件を設けている。

 原告の女性は50年代に生まれ、99年になって44年生まれの兄と一緒に永住帰国した。兄は生年月日の要件を満たしていたことから認定を受けた一方、国は女性の生まれ年に加え、「両親は帰国を希望していなかった」などの理由を挙げて申請を認めなかった。

 1審も同様の判断をしたが、高裁は「父親の死後、母親は永住帰国を望みながら果たせなかった」と指摘。「女性にも帰国できない事情があった」とし、却下処分の取り消しを命じた。

 厚生労働省によると、特定中国残留邦人等ではないとする国の認定が裁判で覆ったのは全国4例目。道内では初めてだという。同省は「国の主張が認められない厳しい判決。内容を検討し、関係機関と協議する」とコメントした。