朝日新聞WEB 2026/03/30

編集委員・大久保真紀


連載「引き裂かれた絆」 第2回


 アジア・太平洋戦争の終結時、中国東北部(旧満州)には多くの日本人が取り残され、子どもや女性が「残留孤児」「残留婦人」となった。その背景には、「満蒙開拓団」の存在がある。

 戦前から戦時中、日本は国策として傀儡国家の「満州国」に全国から約27万人の満蒙農民を送り出した。旧ソ連の参戦と日本の敗戦により逃避行を余儀なくされ、戦闘や飢餓、病気、集団自決などにより約8万人が命を落とした。

 「残留孤児」とは何か。こうした史実をどのように語り継いでいくべきか。日本で唯一、満蒙開拓に特化した満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)の館長を務める寺沢秀文さん(72)に聞いた。


累計25万人が来館 両陛下も視察

――長野県は、満蒙開拓団に最も多くの団員を送り出したことが知られています。

「はい。その数は約3万3千人にのぼります。そのうちの4分の1を、記念館がある飯田・下伊那地方が占めています」

――寺沢さんのご家族も開拓団員だったのですか?

「8人きょうだいの三男だった私の父も開拓団員として渡満しました。母は『大陸の花嫁』として海を渡りました」


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朝日新聞WEB 2026/03/30

連載「引き裂かれた絆」 第1回
 81年の人生を、四つの名前で生きてきた。
徐明→吉川明子→今村明子、そして、池田澄江。実の父母がつけたこの名前にたどりついたのは、51歳のときだった。

いわゆる中国残留日本人孤児だ。

 アジア・太平洋戦争の末期、1945年8月9日にソ連(当時)が満州(現・中国東北部)に侵攻し、その地で暮らしていた日本人は命からがらの逃避行を余儀なくされた。戦闘や飢餓、疫病……。親たちも生きるだけで精いっぱいの状況の中、中国人に預けられた子どもたちがいた。

 池田さんもそのひとり。1歳前後で、日本人の実母から中国人に託された。

 「徐明」は、中国人の養父母がつけた名前だ。

 黒竜江省牡丹江市で、貧しいながらも大切に育てられた。学校では「日本鬼子(リーベングイズ)」といじめられたが、成績は良く、師範学校に進み、62年に小学校の先生になった。

だが、赴任先は電気もない山奥。中国社会の中で、敵国人だった「日本人」という出自はいつも重たかった。

 そんな人生は、72年の日中国交正常化が大きな転機となる。

「父」との再開… 一転して絶望に

 牡丹江市に来た訪中団の日本人たちに面会すると、肉親捜しをしている自身のことが日本の新聞で報じられ、北海道の男性から「私の娘だ」と連絡が来た。

 父親の職業、預けられた場所、年齢、いずれも一致した。写真も交換した。

 天にも昇る気持ちだった。

 ミシンや自転車などを売って旅費を工面し、子ども3人を連れて81年夏に日本へ自費帰国。「吉川明子」として「父」の家に身を寄せた。

 しかしその後、血液鑑定の結果が出る。親子関係が否定された。

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語られなかった戦争の傷

 大阪市で喫茶店を営む藤岡美千代。幼い頃、父から激しい虐待を受けて育った。10歳の時にその父が自死したと聞き、思わず万歳してしまうほどだった。だが成長後、彼女自身もまた、娘を虐待 してしまうという苦悩を抱えることになる。

 神奈川県でタクシー運転手をする市原和彦。幼少期、父が母に浴びせた「この淫売女が」という黒声は、今も消えない傷として胸に刻まれている。4 0 代で結婚するが 、 妻に日常的に暴力を振るってしまったことを、死別した今も悔い続けている。

 シングルマザーの佐藤ゆな(仮名)もまた、幼少期の唐待により複 雑 性 P T S D ( 心 的 外 傷 後 ス ト レ ス 障 害 ) を 抱 え 、娘 と の 向 き 合 い方に迷い続けている。新興宗数に傾倒した母からの過剰な支 配は、今も彼女の心を締めつけている。 三人が抱える「生きづらさ」は、どこから来たのか。 取材を進めるなかで浮かび上がったのは、彼らの父や祖父が、 いずれも戦争に従軍していたという共通点だったー。

 

生きづらさの、こたえを求めて子どもたちは、親をたどる

 近年、帰還兵の多くが深刻なP TSDを抱えていた事実が、ようやく明らかになりつつあ る。癒やされなかった心の傷は、DVや依存症という形で子や孫へと受け継がれることがあり、肉親間の断絶を引き起とすこともある。その連鎖を、いかにして断ち切ることができるのか。

 本作でこのテーマに挑んだのは、「ちょっと北朝鮮までいってくるけん。」「生きて、生き て、生きろ。」を手がけてきた島田陽磨(日本電波ニュース社)。戦争や国家分断という 巨大な力に翻弄されながらも、自らの足で立とうとする(個人)を記録してきた監督と、 戦後日本の現実を記録し続けてきた日本電波ニュース社が、戦後80年の節目に、受け継がれた痛みと向き合う人々の姿を静かに見つめる。

 

 


上映情報

<公開初日~上映最終日>

2026/3/14 〜 3月下旬 〜 未定

<最終日>

未定

<タイムテーブル>

3/14(土) ~ 20(金) 12:00

3/21(土) ~ 27(金) 14:00

3/28(土) ~ 4/3(金) 9:50

イベント情報は→こちら


黒川の女たち

なかったことにはできない
1945年関東軍敗走の満州で待ち受けた、黒川開拓団の壮絶な運命──

監督:松原 文枝
語り:大竹 しのぶ 
撮影:神谷 潤 金森 之雅
編集:東樹 大介
プロデューサー:江口 英明 
製作:テレビ朝日 配給:太秦 
2025|日本|99分|ドキュメンタリー


80年前の戦時下、国策のもと実施された満蒙開拓により、中国はるか満洲の地に渡った開拓団。

日本の敗戦が色濃くなる中、突如としてソ連軍が満洲に侵攻した。

守ってくれるはずの関東軍の姿もなく満蒙開拓団は過酷な状況に追い込まれ、集団自決を選択した開拓団もあれば、逃げ続けた末に息絶えた人も多かった。

そんな中、岐阜県から渡った黒川開拓団の人々は生きて日本に帰るために、敵であるソ連軍に助けを求めた。

しかしその見返りは、数えで18歳以上の女性たちによる接待だった。接待の意味すらわからないまま、女性たちは性の相手として差し出されたのだ。

帰国後、女性たちを待っていたのは労いではなく、差別と偏見の目。節操のない誹謗中傷。同情から口を塞ぐ村の人々。込み上げる怒りと恐怖を抑え、身をひそめる女性たち。

青春の時を過ごすはずだった行先は、多くの犠牲を出し今はどこにも存在しない国。身も心も傷を負った女性たちの声はかき消され、この事実は長年伏せられてきた。だが、黒川の女性たちは手を携えた。
したこと、されたこと、みてきたこと。幾重にも重なる加害の事実と、犠牲の史実を封印させないために―。



★★イベント情報★★

※登壇者は予告なく変更となる場合がございます。

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3月13日(金)@東京 女性の人権を考える映画上映会(東京YWCA会館 カフマンホール)

14:00上映の回終了後

【登壇者】松原文枝さん(監督)


3月14日(土)@神奈川 大倉山 第16回大倉山ドキュメンタリー映画祭

12:50~上映後トーク有

【登壇者】松原文枝さん(監督)


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3月3日(火)@CINEMA Chupki TABATA

10:20の回上映後

【登壇者】江口英明さん(プロデューサー)


3月14日(土)@港南台シネサロン

10:15の回上映後

【登壇者】松原文枝さん(監督)



3月21日(土)~27(金) @東京 ポレポレ東中野


3月21日(土)

11:40の回上映後舞台挨拶

【登壇者】松原文枝さん(監督)


3月22日(日)

11:40の回上映後トーク

【登壇者】大久保真紀さん(朝日新聞記者)×松原文枝さん(監督)


3月23日(月)

11:40の回上映後トーク

【登壇者】藤井宏之さん(黒川開拓団遺族会会長)藤井湯美子さん(黒川開拓団遺族会)

×江口英明さん(本作プロデューサー)


3月24日(火)

11:40の回上映後舞台挨拶

【登壇者】松原文枝さん(監督)


3月25日(水)

11:40の回上映後トーク

【登壇者】寺沢秀文さん(満蒙開拓平和記念館)× 江口英明さん(本作プロデューサー)


3月26日(木)

11:40の回上映後舞台挨拶

【登壇者】江口英明さん(本作プロデューサー)


3月27日(金)

11:40の回上映後トーク【教育現場からバトンをつなぐ】

【登壇者】山本めゆさん(立命館大学准教授)×川口芳彦さん(入間向陽高校教諭)

 ×高野晃多さん(佼成学園女子高校教諭


読売新聞20260308

終戦時に樺太(サハリン)に残留し、当時の混乱と冷戦期の動乱で長年帰国できなかった日本人について知る集い「樺太残留邦人の体験と思い」(北海道中国帰国者支援・交流センター主催)が7日、札幌市中央区で開かれた。


 残留邦人の体験を後世に伝えようと、国は「語り部」を育成する取り組みを進めている。集いでは、語り部の友末可織さん(54)が、ソ連崩壊後の2009年に永住帰国し、100歳を迎えた元残留邦人の戸倉冨美さん(札幌市在住)から聞き取った証言について講話を行った。


 戸倉さんが84歳でようやく日本に引き揚げるまでの苦難の半生を、友末さんは丁寧に語った。これを受けて、集いに参加した80歳を超えた引き揚げ者も、自らの体験を語り始めた。

 残留邦人2世で、2012年に永住帰国した石橋政美さん(77)(札幌市)と妻の笑里さん(70)(ロシア名=イシバシ・リュボフ・アレクサンドロブナ)は、子どもの頃のサハリンでの生活や、現在の日本での暮らしで感じていることを、笑いを交えながら話した。

 石橋さんは「(自分たちの)子どもたちはサハリンにいる。早く飛行機が(日露間を)飛ぶようになってほしい」と願いを語っていた。

 厚生労働省によると、サハリンなどの残留邦人で日本に永住帰国した人は、家族を含め280人。


写真説明

戸倉さんの体験について話す「語り部」の友末さん(7日、札幌市で)