2025/11/11 徳島新聞朝刊 

 日中友好に大きな役割を果たした徳島市国府町出身の中国残留孤児・烏(ウ)雲(ユン)さん=日本名・立花珠美=の死去を受け、中国内モンゴル自治区での植林活動の協力者や、親交のあった人たちから惜しむ声が上がった。旧満州(現中国東北部)で旧ソ連軍が日本人避難者を襲撃した「葛(かっ)根(こん)廟(びょう)事件」の生存者として、平和への願いを訴え続けた烏雲さんの思いを語り継ぎたいとの声も聞かれた。

 烏雲さんは自分を育ててくれた中国に恩返しをしようと、1994年から内モンゴル自治区の砂漠を緑化する「烏雲の森」づくりに取り組み、NPO法人・烏雲の森沙(さ)漠(ばく)植林ボランティア協会(徳島市)も協力してきた。

 今年4月、協会としては最後となる第50回の植林活動で烏雲さんと会った早崎勲理事長(83)は「にこやかで体調が悪いとはみじんも感じさせなかった。ただ、いつもの現地ではなく、ホテルでの面会だったので心配はしていた。(訃報に)ショックを受けている」と残念がる。

 烏雲さんの実家がある徳島市国府町の北井上中学校は昨年9月、5年ぶりに帰国した烏雲さんを全校生徒で出迎えた。嶋田聡校長(59)は死去の知らせに「残念以外の言葉が出てこない」と話す。

 10日、校内放送で生徒たちに烏雲さんの訃報を伝え、ホームルームで冥福を祈った。「烏雲さんの国際交流や日中友好の足跡を忘れないよう、次の代に伝えることが私たちの使命だと思う」と力を込めた。

 烏雲さんと同じく旧満州で葛根廟事件に遭った大島満吉さん(89)=東京都練馬区=は近年、中国や東京で交流を深めた。大島さんらが訪中時は400キロの距離を駆けつけてくれたと言い、「本当に温かみのある人格者だった」と振り返る。戦後80年の節目の逝去に、戦争体験の語り部を務める大島さんは「烏雲さんの平和への思いを伝えていきたい」と誓った。

 10月29日、後藤田正純知事の代理として県感謝状を烏雲さんの孫・馬森さん(38)に手渡した県日中友好協会の葭(よし)森(もり)健介会長(72)は「回復を祈っていますと伝えたが、かなわず残念な思い」と声を落とす。特に若い世代に対する優しさを感じたといい、「烏雲さんが紡いできた徳島と中国の友好の絆を、戦争を知らない世代にいかに伝えていくかが今後の課題だ」と言う。

 烏雲さんの実家で暮らすおいの立花一夫さん(65)=鮮魚仲卸業会社社長=によると、遺灰は遺言によって日本と中国の間の海に散骨されたという。「叔母が亡くなった悲しみはありますが、散骨は日中の友好に尽くした叔母らしい最期だと思います」と語った。
 

2025/11/11 毎日新聞

 <文化の森 Bunka no mori>
 角川シネマ有楽町(東京都千代田区)で7日に始まった「中国ドキュメンタリー映画祭 In Japan」発起人の竹内亮さん(47)。日中両国で活動し、中国では人気インフルエンサーの顔も持つ。映画祭には「今の中国がよく見えると思う。中国に面白いドキュメンタリーがたくさんあることを知ってもらいたい」との思いを込める。

 自身が監督した2024年公開の映画「再会長江」が大きな反響を受けたことを機に映画祭を企画。20日までの期間中、竹内監督の最新作「名無しの子」の他、中国で多数の映画賞を受賞した4作品を上映中だ。

 「名無しの子」は中国残留孤児の戦後80年を描く。23年から2年間、残留孤児とその家族ら3世代約100人を取材した。日本に帰国した孤児に加え、日本で残留孤児専門の老人介護施設を営む2世の女性や、同じく2世で準暴力団「チャイニーズドラゴン」の初代総長などに密着。日本人と中国人、その間で生きる人々の苦悩を追った。

 孤児と言われる彼らも80歳を超える。1980年代には「残留孤児の帰国」のニュースがテレビでよく流れていたが、最近はその存在を知らない若者も多い。竹内さんは「残留孤児が老人ホームに入る年齢になったことに衝撃を受け、今取材しないと話が聞けなくなると思った」と話す。そして「テーマそのものがアイデンティティーを問い直す。戦争は大変とか反戦とか、それだけではないものを作りたかった」と語る。

 千葉県生まれ。高校時代に映画漬けの日々を送り、監督を志した。専門学校でドキュメンタリー制作を学び、制作会社で「ガイアの夜明け」(テレビ東京系)などの番組を手掛けた。13年に中国人の妻と南京へ移住。現地で映像制作会社を設立し、番組制作をしている。

 本作は日中共同制作。中国人副監督と歴史認識の違いで何度もけんかしたと明かす。例えば「満州国」の表記について、副監督は「日本人が勝手に言っているだけで『偽満州国』でしょ」と主張したが、映画で「偽満州国」としても日本人には理解できない。最終的に柳条湖事件と説明することで落ち着いた。「両方が見てギリギリ許せる範囲の表現にした」
 日中を行き来する中で「互いに日本人のこと、中国人のことを知らない」と感じる。今回の取材を通し「敵国だった民族の子どもを無償で育てた中国人の懐の深さを日本人に知ってもらいたい」と言う。一方で「中国では中国人視点で描かれた日中戦争の話しかない。日本人の視点で撮った物語を見てもらいたい」。

 将来は日本のドキュメンタリーを集めた映画祭を中国で開きたい。「中国で上映される日本の映画はほとんどがアニメ。ドキュメンタリーを通じて交流するイベントを実現できたら」と夢を抱く。「名無しの子」はアップリンク京都(21日から)など全国で順次公開。【諸隈美紗稀、写真も】

 

2025/11/11 日本経済新聞電子版  

俳優の仲代達矢さん(2016年)

 「影武者」などの映画作品やシェークスピア劇の舞台で活躍し、戦後日本の代表的俳優だった仲代達矢(なかだい・たつや、本名=元久=もとひさ)さんが11月8日午前0時25分、肺炎のため死去した。92歳だった。告別式は近親者で行う。

 高校卒業後、俳優座養成所の4期生に。修了と同時に入団し、俳優座の看板俳優としてシェークスピアの「ハムレット」「オセロ」「リチャード三世」、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」などで主演した。千田是也に「もの言う術」を学び、新劇のスターとなる。

 養成所時代の1954年、黒澤明監督の「七人の侍」で映画にデビュー。小林正樹監督に見いだされ「人間の條件(じょうけん)」「切腹」「上意討ち 拝領妻始末」などで優れた演技をみせた。

 また黒澤監督は「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」で主演の三船敏郎に対抗できる俳優として重用した。成瀬巳喜男、岡本喜八、市川崑ら日本映画の黄金時代を築いた監督たちの作品に出演した。「二百三高地」では乃木希典役を演じた。

 黒澤作品の「影武者」では監督との衝突から降板した故勝新太郎に代わって主役を務め、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した。ベネチア、ベルリンと合わせ世界三大映画祭のすべてで出演作が受賞しており、国際的な知名度も高かった。テレビドラマでも中国残留孤児を描いた「大地の子」などの味わい深い演技で知られた。

 1975年に妻の宮崎恭子さんとともに俳優養成の私塾「無名塾」を創立し、役所広司さんら後進を育成。合宿地だった石川県七尾市で1995年に開館した能登演劇堂の名誉館長をつとめ、演劇のまちづくりに貢献した。80歳を超えても演じ続け、2025年5?6月の「肝っ玉おっ母と子供たち」でも舞台に立った。

 著書に「遺し書き 仲代達矢自伝」など。多くの演劇賞、映画賞を受け、15年に文化勲章を受章した。

 05年11月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。

【関連記事】
・仲代達矢、第二の故郷・能登で挑む92歳の大役(2025年6月)
・仲代達矢89歳、能登で気迫の舞台 激しい殺陣披露(2022年9月)
・仲代達矢さん逝く 演劇と映画、領域股にかけたスター

東スポ 2025年11月6日

 準暴力団「怒羅権」の創設メンバーで強盗致傷などの罪に問われた汪楠被告の裁判員裁判で東京地裁は5日、懲役13年の実刑判決を言い渡した。

 起訴状などによると、2023年3月に都内のマンションの一室にガスの点検作業員を装い、複数人の男が侵入。室内にいた中国人の男女2人を結束バンドで緊縛し、現金やノートパソコンなどを奪った。その過程で犯行グループのモンゴル人1人が被害者の反撃によって死亡した。犯行グループの携帯電話を調べるなかで汪被告が指示役として浮上。起訴内容について汪被告は取り調べ中の公務執行妨害については認めたが、指示役については「無罪。まったく関係ない」と否認にしていた。

「怒羅権」は中国残留孤児の2世や3世らから成る準暴力団で汪被告は創設メンバー。2000年に詐欺罪などで逮捕され懲役13年の実刑判決を受け服役。出所後はNPO法人「ほんにかえるプロジェクト」を立ち上げ、受刑者の支援活動を行っていた。メディアにも多数出演し、自身の壮絶な半生を記した著書も出版していた。
 
 入廷した汪被告は白髪混じりの頭にメガネをかけ柔和な表情を浮かべていた。しかし13年の判決を言い渡されると姿勢が乱れ、不服そうな様子がうかがわれた。争点の共謀について裁判長は「役割分担をした組織的かつ計画的な犯行。ガス点検のチラシや名刺を作成し、(犯行グループと)頻繁に連絡を取るなど主導する立場にあり、共犯者の中でも最も罪が重い。反省の態度も見られない」と断罪した。

 審理の中で汪被告は「巧妙な犯罪が好き。自分が指示役だったらこんな荒っぽいことはしない。計画を緻密に立てたと思う」と指示役であることを否認している。
 閉廷すると汪被告は傍聴席にいる支援者や知人に「支援をよろしくお願いします」と頭を下げ、法廷を後にした。支援者たちはどのような思いを抱いているのだろうか。
 

  • 中日新聞2025/10/29
    [歩く 聞く 考える] 「満蒙開拓」の加害性 戦後の「物語」 点検し脱する時だ 劇作家・精神科医 胡桃沢伸さん
 日本の国策として敗戦までに約27万人を旧満州(中国東北部)に送り出したとされる「満蒙(まんもう)開拓」。広島県からも1万1千人余りが海を渡った。敗戦後の集団自決(集団死)や中国残留孤児・婦人といった悲劇は一定に知られていよう。劇作家で精神科医の胡桃沢伸さん(59)=大阪府=は、開拓団を送り出した祖父の体験から満蒙開拓の加害性に迫り、作品で世に問う。戦後80年、この歴史に向き合うことはどんな意味を持つのか。考えを聞いた。(論説委員・森田裕美、写真も)

 ―出身地長野は都道府県で最多の3万人以上を旧満州に送っています。満蒙開拓は身近な問題でしたか。
 子どもの頃、同じ学校に中国からの帰国者がいたり残留孤児のニュースに触れたりしました。ただ自分の問題としては考えていませんでした。

 ―おじいさんは戦中、長野県河野村(現豊丘村)の村長でした。
 国策に協力して「分村」を決意し90人以上を送り出しましたが、敗戦で大半が集団死に追い込まれました。事実を知った祖父は責任を感じ翌年自死しました。それを私が知ったのは37歳の時。空が割れるくらい衝撃を受けました。

 ―なぜ知ったのですか。
 2004年に両親が祖父の残した日記を飯田市歴史研究所に寄贈し、それを報じた新聞記事を友人が見せてくれ、事実を知りました。驚いて実家に連絡すると村の開拓団の証言集が送られてきました。敗戦後、開拓団員が逃げ場を失い、互いを手にかけた集団死の実情を知りました。

 ―日記も読みましたか。
 いえ、長い間読めませんでした。集団死を生き延びた人に後日、体験を聞きましたが、事実が重過ぎて…。精神科医としてトラウマ治療にも携わっていたのに、スランプに陥り、どうしていいか分からなくなりました。

 ―それから約10年後、満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)で初めて公の場でおじいさんについて話しました。
 記念館の旧知のスタッフから声がかかり、引き受けました。安保法制など戦争を招きかねない当時の政治の動きも背景にありました。悩んでいた時期に通った大阪文学学校で在日コリアンの詩人金時鐘(キム・シジョン)さんから、既成の通念に寄りかからない言葉で、現状を認識し、表現する姿勢を学んだことも大きかった。

 人前で話した後、地元放送局の取材を受け、そのために日記を読みました。村の開拓団が送り出された中国・長春も訪ね、「開拓」の名の下に土地を奪われた現地の人にも会いました。1人ではなかったから向き合えました。

 ―おじいさんは遺書も残していました。
 「開拓民を悲惨な状況に追い込んで申し訳がない。後の面倒が見られぬことが心残りだ」とありました。責任を感じてわびていますが、村民への言葉だけで、中国の人々へは思いが至っていません。

 元々農民の祖父は、日記に農民の地位の低さや地主制への疑問も書いていた。なのに中国の農民から土地を奪い小作として働かせたことには無批判です。そんな祖父を美化してほしくないと思います。

 ―「責任を取った」と美談にされがちですね。
 人の死を「尊い犠牲」とか誰かにとって都合の良い言葉や美化の物語に収めないでほしい。それによって加害の側面が見えなくなり、責任を問われずにいる人が存在することを忘れてはなりません。

 満蒙開拓青少年義勇軍の体験を広島から発信した故末広一郎さんは以前、東京の「拓魂公苑(こうえん)」で、満蒙開拓を顕彰して石碑に刻まれた「拓魂」という文字の上に「鎮魂」と書いた紙を貼り、慰霊しました。侵略を「開拓」として推し進めた欺瞞(ぎまん)を反省せねば、過ちは繰り返されるとの危惧からです。こうした問い直しが重要ではないでしょうか。

 ―今後何ができますか。
 貧しさにつけ込まれ国策に利用された農村は被害者であり加害者でもある。満蒙開拓の歴史からは、戦争がもたらす被害と加害の両面を学べます。ところがそれを立案し推進した側の語りは、80年たった今もほとんど伝えられていない。戦後語られてきた「物語」を点検し脱する時です。

くるみざわ・しん
 長野県生まれ。精神科医として勤務しながら「くるみざわしん」名で精神医療や核・被曝(ひばく)、戦争、性暴力などをテーマに作品を発表。「忠臣蔵・破エートス/死」で2019年文化庁芸術祭賞新人賞。祖父をテーマにした一人芝居「鴨居に朝を刻む」は12月25~28日、東京都世田谷区の下北沢OFF・OFFシアターで上演。☎03(6279)9688(一般社団法人マートルアーツ)

(2025年10月29日朝刊掲載)