朝日新聞20260704


 日本の国旗を傷つける行為を罰する国旗損壊罪の法案が国会で審議されている。多くの国民が日の丸の旗を振り、兵隊を戦地へと見送った時代を生きた人はいま、何を感じているのか。広島市の切明(きりあけ)千枝子さん(96)に聞いた。


 

 私はね、なんだか変な法律をお考えになったもんだなと思いましたね。

 小学校2年生のとき、日中戦争が始まりました。忘れもしません。七夕様の日。体育の時間、運動場の片隅で裸足の足をザブザブ洗っていると、誰かが「戦争が始まった」って。


 やがて先生に連れられ、兵隊さんを見送るようになる。兵隊さんは4列縦隊で広島港までザクザク歩く。市民が沿道にずらっと並び、手に手に日の丸の旗を持って万歳、万歳って。

 男の子たちは「(中国兵を)やっつけてきてね」「皆殺し」って叫んでいた。

 日の丸の旗はね、紙にコンパスで丸を描いたり、ひっくり返したお茶わんに沿って丸を描いたりして、クレパスで真っ赤に塗る。先生がくださった細い竹にのりをつけ、ぐるぐる回して紙をくっつける。一丁上がりですよ。新聞社がね、社名の入った紙の日の丸を配ってくれたこともありましたよ。

 天長節(当時の天皇誕生日)や紀元節なんかには、どこの家も大きな竹ざおの先に風呂敷くらいの日の丸の旗をつけて、玄関の前に立てました。

 南京陥落のときは盛大でしたね。昼間は小学生たちが日の丸の旗を持って、街を歩いて回る。夜は大人たちが日の丸ちょうちん行列。


朝日新聞20260702


 中国残留日本人孤児だった父に連れられ、永住帰国して40年になる。

 東京の定時制高校に通い、大学進学を目指した。しかし、両親は生活保護を受けており、役所は「早く働いて親の自立を助けろ」と繰り返した。昭和天皇の容体が悪化していたころだ。

 福祉事務所で人生一度きりの大声を出した。「天皇のために満州(現中国東北部)に送られた父たちは苦労させられた。なのに、その子どもは大学にも行かせてもらえないのか」と。その後、就労の勧奨はめっきり減った。

 都立大学に合格。奨学金を得て、寮で生活した。大学院を経て、中国文学の専門家として母校の教壇に立つ。

 父ら全国の残留孤児は2000年代に老後の生活保障を求めて国家賠償請求訴訟を起こして国を動かし、新たな生活給付金制度を勝ち取った。その裁判闘争で日本語ができない孤児たちのために2世を組織して通訳を買って出た。

 今年2月には、弁護団が裁判の経緯を記した「政策形成訴訟」の中国語版が日本で出版された。中国人の大学教授らが翻訳し、校正と出版コーディネートを担当した。

 「残留孤児は日中間の不幸な歴史の証人であり、日中友好の使者でもある。その存在を理解し、少しでも日中間の感情が和らいでほしい」

 いまは孤児らが作るNPO法人の理事も務める。「大学進学をめぐるあの理不尽な体験が活動にかかわる原点です」(文・写真 大久保真紀)

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 おおくぼあきお(58歳)



朝日新聞夕刊 2026/6/19 (金) 16:30


 劉雪蓮(りゅうせつれん)(49)=京都府舞鶴市=は、中国残留婦人だった祖母の人生を本にまとめたいと思っている。

 祖母は生前、満州(現中国東北部)で数年の結婚生活を送った日本人の夫との写真を最後まで大切に持っていた。

 同じ女性だから思う。祖母は、女性ならではの苦しみ、葛藤を抱えていた、と。



 祖母・梶本清子は、1923年に京都で生まれた。家が貧しく、17歳のときに満蒙(まんもう)開拓団員の夫と結婚し、渡満。その後、父が亡くなって困窮していた母ときょうだいを日本から呼び寄せた。

 だが、平穏なくらしは長くは続かなかった。夫は応召し、45年8月にはソ連軍が侵攻、敗戦となった。

 食べ物もなく、行くあてもない。清子が中国人の家に入り、家族の面倒をみてもらうしかなかった。清子と妹以外のきょうだい5人と母は、46年に日本に引き揚げた。

 中断していた引き揚げが53年に再開されると、清子は中国人の夫の承諾のもと、4人の子どもを置いて帰るつもりだった。だが、6歳の娘が泣き叫び、バスに乗ろうとする清子の手を離さなかった。

 願いがかなうのは、日中国交正常化後だ。一時帰国を経て82年に京都府に永住した。


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朝日新聞夕刊 2026/06/17


 ビデオカメラを向けると、中国残留日本人孤児の祖父は「また撮るのか。しつこいな」と嫌がった。それでも、孫の工藤優介(27)は食い下がって撮影を続けた。

 優介は、今春まで学んでいた早稲田大学大学院で家族の歴史をたどる77分のドキュメンタリー「中国残留孤児――3世代の軌跡」を制作した。



 1939年生まれの祖父・哲弘は青森県出身。一家で開拓団として満州(現中国東北部)に渡った。母と弟は病死、父は応召して戦死。生き別れた姉と兄2人の行方はわからず、哲弘は6歳で孤児となった。山奥の中国人の農家に引き取られたが、学校に通うことはなかった。

 肉親捜しのための訪日調査で身元が判明したが、親族に永住帰国を反対された。ボランティアの支援によって、次男、長女と青森県内に永住帰国したのは92年だ。

 優介の父は、哲弘の長男。北京の大学で学び、技術官僚として安定した生活をしていた。だが、哲弘から助けを求められ、中国の生活を捨てて93年に自費帰国。東京で劇薬運送の仕事に就いた。

 優介は東京で生まれた。周囲からのさげすみを感じ、「日本人に見られたい」と願い、同化しようとした。




朝日新聞夕刊 2026/06/17


  「ふつう」の家に生まれることができなかった――。山崎哲(40)=東京都=は、そんな思いを抱え続けてきた。

 自分は日本で生まれ、日本語を話す日本人。家で出てくるのは中華料理で、両親は中国語で会話をしているから中国人。祖父は日本語を全く話せないのに、中国語と日本語の両方を話す祖母がいる。

 自分は何者なのか……。

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 学校からのプリントを母が理解できず、よく忘れ物をした。日本語を話せない母が恥ずかしく、疎ましかった。周囲に同じような子どもはいなかった。自分が中国系であることを周囲に知られたら「人生終わり」と考えていた。

 祖母の幹子(よしこ)は福島県いわき市出身。満州(現中国東北部)に小学校の校長として派遣された父に呼び寄せられ、渡満した。しかし、1945年8月にソ連軍が侵攻。身を寄せた収容所で中国人に引き取られた。49年に養母のおいと結婚、4男2女を産んだ。