朝日新聞 2026/9/13 (日) 5:00


東京・六本木の繁華街を抜けた歩道脇に小さな地蔵がある。腹を出し、へそをなでるような姿で佇(たたず)んでいる。終戦後、旧満州で亡くなった子どもたちをしのぶ「ともちゃん地蔵」という

▼ともちゃんは、3歳になったばかりの男の子だった。いつもだぶだぶの服をたくし上げ、へそを見つめていた。さびしい時、へそを見ればお母さんの顔が見える。死に別れた母親に、そう教わったからだ。〈おなかにいる時、おへそからおっぱいを吸っていたのよ〉

▼孤児たちは次々と栄養失調に倒れていった。亡くなった子らはみな、へそを見るように体をくの字に曲げていたという。生き延びた故増田昭一氏が著書に記した▼国策で送られた満蒙開拓団の多くは、農村出身の家族連れだった。敗色濃い1945年8月、ソ連軍が攻め込む。我が物顔で満州国を建て、威を振るってきた関東軍はなす術(すべ)がなかった。民間人は置き去りにされた

▼長野県の満蒙開拓平和記念館で先月、当時の体験を聞く機会があった。11歳だった仲田武司さん(92)は同級生3人を集団自決で亡くした。自らの家族も入水する寸前まで追い詰められた。「いつも弱い子どもが犠牲になる」と、まっすぐ前を見て語った

▼開拓団27万人のうち8万人が亡くなったとされる。どれほどの子どもがいたか、今も分からない。ともちゃん地蔵の横の碑には、こう刻まれている。〈そんな子どもたちがいたことを忘れないで〉。小さな地蔵の素朴な顔立ちに一人ひとりの姿を重ねた。


★写真はわたしが撮ったものです。


「手加減なしで作った」戦争映画 加害者目線で描く戦場とトラウマ

朝日新聞 編集委員・大久保真紀

 戦場での苛烈(かれつ)な現実と兵士が負った戦争トラウマの問題を世に問う映画「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」が9月11日から公開される。戦争映画を手がけてきた塚本晋也監督が原作にほれ込み、10年以上をかけて制作した。

 原作は、10代でベトナム戦争に送り込まれた元米海兵隊員の故アレン・ネルソンさんが自らの体験をつづった、映画と同名のノンフィクション。塚本監督が2014年公開の「野火」の映画化を準備する中で手にした資料・書籍の中の一冊だった。

 「読んで衝撃を受けた。戦場で起こることを包み隠さず赤裸々に語っていた」

 ネルソンさんは18歳で海兵隊に入隊し、沖縄のキャンプ・ハンセンを経て、ベトナムで最前線に立った。子どもや女性、老人でもベトコンに協力していると疑えば、お構いなしに殺害するなど殺戮(さつりく)を繰り返した。復員後はトラウマを抱えて、ホームレス生活を送り、精神的に苦しみ続けた。

 そんなネルソンさんの存在が、塚本さんの心をとらえた。「何としてもネルソンさんを現代によみがえらせて、多くの人に知ってもらいたいと思った」

 しかし、戦闘シーンも想定される撮影の規模は大きく、自主制作は無理だった。ほかの映画を撮影するかたわら、原作をもとに構成を書き始めた。出資者が見つかって本格的に動き出したのは23年になってからだった。

 撮影は4カ国、ニューヨーク、タイ、ベトナム、沖縄で行った。スタッフ、キャストは総計約200人にのぼる。

戦争に行けばこうなる、を包み隠さず

 これまでの戦争映画は、多くが兵士の武勇伝や被害者の視点で描かれている。塚本監督は「被害者の目線で描くことも大切だが、それだけでは十分に語ったことにはならない」として、今回は戦場での加害行為に焦点をあて「人がどう思うかを考えず、手加減しないで作った」と話す。

 「世界中がきな臭い。日本も戦争できる国になってしまうかもしれない。若い人たちを戦場には行かせたくない。ネルソンさんの人生を体験してもらって、実際に戦争に行けばこうなるのだということ、戦争の恐ろしさをこの映画でじっくりかみしめてほしい」


 枯れ葉剤の影響とみられる多発性骨髄腫のために09年に61歳で亡くなったネルソンさんは日本との関係も深い。1995年にあった沖縄の米兵による少女への性暴力事件をきっかけに日本に来るようになり、実体験を語った日本での講演は1200回以上に及ぶ。いまは、石川県加賀市の寺に眠っている。

 この作品は、今年の第83回ベネチア国際映画祭で、最高賞の金獅子賞を競うコンペティション部門に選ばれている。

「おやじが目の前で人を殺しているよう」

 映画にはネルソンさんの日本での活動を支援する日本人「黒井」が登場する。

 塚本監督によると、日本で取材した関係者たちを、一人の「黒井」という人物に集約させたという。

 そのモデルの一人となった黒井秋夫さん(77)=東京都武蔵村山市=は、元日本兵が戦場での過酷な体験によるトラウマを家に持ち帰り、暴力やアルコール依存などに苦しんだ心的外傷後ストレス症(PTSD)の問題にいち早く注目。2018年に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会(現・PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会)」を立ち上げた。

 黒井さんの父は2度召集され、中国戦線で戦った元日本兵だ。戦後は、無気力でほとんど話すこともなく、「抜け殻」だった。黒井さんはそんな父を嫌悪し、亡くなったときも涙ひとつ流さなかった。

 ところが、15年末に妻と乗り込んだピースボートでDVDの上映会に足を運び、ネルソンさんのドキュメンタリー番組をたまたま見た。「戦場は地獄だ」と話すネルソンさんの悲しいまなざしが父の暗い目と似ていた。

 それがきっかけで父の軍歴を調べ、父は「戦争で壊されてしまった」と思い至った。「心に傷を負った復員兵は日本中にいたはず」。その思いで、会を立ち上げた。

 当初は反応がほとんどなかったが、ここ数年で仲間も増え、全国の新聞やテレビがこの問題を取りあげるようになって会の存在は広く知られるようになった。

 今回、試写で「ネルソンさん~」を見た。


 「おやじが目の前で人を殺しているシーンを見せられているようだった」と漏らす。

 黒井さんの父は、「匪賊(ひぞく)討伐」や「治安工作」に従事し、優秀な兵士の証しである「善行証書」まで授与されていた。映画の中のネルソンさんが、父と重なった。

 「あんなことをすれば、おやじの心が壊れるのは当たり前だと思った」

 黒井さんと同様に、元日本兵だった父や祖父が抱えたトラウマの問題に気づき始めた人たちも増えている。PTSDの日本兵家族会は、千葉、神奈川、名古屋、大阪、福岡にも発足。今後は北海道、東北、中国、沖縄でも立ち上げていく予定という。

 黒井さんはこう訴える。「心を壊した兵士が家族の元に戻り、戦争が終わった後に家族は苦しむ。戦争をしたらどうなるか、為政者には、そこまで考えてほしい」

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「手加減なしで作った」戦争映画 加害者目線で描く戦場とトラウマ:朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASV8T0S9GV8TUTIL005M.html?ptoken=01M1X9869X0D0HN6FKMK5T50N0

中国残留孤児の父と中国人の母をもち、豊丘村で暮らした大橋春美さんが今年4月、56歳で亡くなった。ふたつの祖国の戦争の歴史を背負う自らの存在の理不尽さと向き合いながら、中学校の教諭として中国帰国子女の支援にも力を尽くした。春美さんはその生き方を通して何を遺したのか。息子の遼太郎さんが生涯をたどり、日中友好の明日を見つめる。




読売新聞20260818


 終戦前後の混乱で中国に取り残された中国残留邦人の2世が、いまだに不自由な生活を強いられている。「中国人」として生まれ育った後に日本に移住したため、言葉の壁が立ちはだかっているからだ。長崎市に住む宮崎一也さん(73)もその一人。その話からは、帰国後の暮らしぶりや2世の課題が浮かび上がる。(野平貴)


母に頼まれ45歳で長崎へ

 長崎市内にある県営住宅の一室。中国の飾り物が掛けられている部屋に宮崎さんは妻・智子さん(63)と暮らしている。宮崎さんは日本語をほとんど話せず、中国出身の智子さんも片言の日本語しかしゃべることができない。宮崎さんは「2世が直面しているのは言語の問題。日本語を話せなくてうつになった人もいる」と話す。

 宮崎さんの母・菊子さんは3歳頃、満州(現中国東北部)の開拓団として、日本から移った。一家8人ほどで暮らしていたが、戦況が悪化。旧ソ連の侵攻で一家は住まいを追われ、その間、菊子さんは帰国することなく現地の中国人に半ば身売りするような形で引き取られたという。


 菊子さんは養父母の元で育った。日本人であることがわかると差別を受けるため、現地では「王秀蘭(おうしゅうらん)」と名乗っていた。その後、中国人の男性と結婚。宮崎さんを含め計5人の子どもをもうけた。

 1972年の日中国交正常化後、菊子さんは94年頃に親類を頼り、長崎へ帰国を果たした。

 宮崎さんは大学卒業後、現地で警察官をしており、結婚もしていた。だが菊子さんに「日本へ帰ってきてほしい」と頼まれたため、98年に長崎へ帰国した。45歳の時だった。

「日本人との差別感じる」

 日本での生活は苦難の連続だった。国費ではなく自費で日本へ来た宮崎さんは、就労支援や言語を学ぶ機会がなかった。塗装工の仕事についたものの、給料は他の従業員より少なかった。智子さんも働いていたが、同様の厳しい環境を強いられた。

 スーパーや病院に行っても言葉が通じず、病院で症状を説明するときは、周りの助けが必須だ。


 現在は生活保護を受けて生活しており、生活は苦しいままだ。一方、地元の自治会長は自分たちに理解を示してくれ、ボランティアに参加するなど社会とのつながりは維持している。宮崎さんは、「日本も中国も愛しているが、他の日本人と差別されていると感じる。我々の現状を知ってほしい」と訴える。

2世は原則、支援の対象外

 中国残留邦人の永住帰国は日中国交正常化を受け、80年代から本格化した。2007年に中国残留邦人支援法が改正され、国民年金の満額支給などの経済支援が行われるようになった。ただ、2世は原則、支援の対象外となっている。

 厚生労働省によると、中国残留邦人の永住帰国者は6月30日現在、6731人で、家族を含めた総数は2万918人。

 県中国帰国者二世の会によると、会員は195人いるという。また、2世を支援する日本中国友好協会県連合会は、署名活動や行政との橋渡しなどを担っている。

 一方、厚労省中国残留邦人等支援室は「自費で帰ってきた2世は支援の対象に入っていないため、対応が難しい」との立場を示している。