2024/05/11 信濃毎日新聞
鍬を握る・満蒙開拓からの問い 満州といまをつなぐ

[満州・ハルビン生まれ 歌手 加藤登紀子さん(80)]
 父が南満州鉄道(満鉄)に勤めていました。ハルビンで生まれ、終戦の翌1946(昭和21)年、2歳の時に母子4人で引き揚げました。父は召集されていました。

 2022年、中国人画家王希奇(ワンシーチー)さんの作品に出合いました。中国の葫蘆(ころ)島で引き揚げ船に向かって歩く日本人の群衆を描いた横20メートル、縦3メートルの大型作品。「私もこの中にいるかもしれない」と食い入るように見つめました。これをきっかけに「果てなき大地の上に」を作詞作曲しました。昨年は満蒙(まんもう)開拓平和記念館(下伊那郡阿智村)に王さんが訪れると知って駆けつけ、この曲を歌いました。6月2日(完売)、5日に都内で開くコンサートでも歌います。

 中学生の時に歴史を学び、なぜ「満州国」ができたか、日本の関東軍がどんな働きをしたか、理解し始めました。父に聞いたことがあります。「父ちゃんは侵略者だ。私は侵略者の子なんだ」と。

 父は満州国の建国前にハルビンに渡り、語学学校でロシア語を学んでいました。広い世界を見たい一心だったと思います。私の問いには「それだけではないよ。たくさん良いことも残したかもしれないよ」と言っていました。

 日中国交正常化の9年後の81年、中国側からのオファーで、歌手として35年ぶりにハルビンを訪れました。すごく温かい出迎えを受けました。そして、幼すぎて記憶はないはずなのに懐かしかった。

 子どもの頃から、母はよく引き揚げの話をしてくれました。野宿していた時、夜風で目を覚ましたら真っ暗な空から真っ白な雪が降ってきて、瞬く間に寝ている私たちの上に積もっていった、その情景がすごくきれいで生涯忘れない―と話してくれて。それを88年にリリースした曲「遠い祖国」の中に書きました。

 収容所で暮らしていた時も、母は常に私をおんぶしていた。そういう話を聞くたび、私は母が見た風景を一緒になぞりました。だからハルビンで列車が駅に着いた時、「ああ、この駅は知っている」と思いました。不思議ですね。

 「遠い祖国」の中に「たとえそこが祖国と呼べない見知らぬ人々の街でも 私の街と呼ぶことをゆるしてくれますか」という歌詞があります。日本は侵略して入っていった。だから故郷と呼んではいけないかもしれない。でも、私が生まれたハルビンを、私は「私の街」と呼びたい、呼ばせてほしい―。抱え続けていた葛藤を詩に託しました。

 葛藤はずっと持ち続けてはいますよね。でも南京に行った時、中国の人は「私たちはみんな共通の戦争の被害者だ、だからそのことで憎しみ合ってはいけない」と言ってくれた。どういう気持ちで乗り越えていくかは、憎しみを育てていこうとする人もあるし、憎しみを癒やしていこうとする生き方もある。私は歌手として、その傷を乗り越えるためにやっていくんだと決めていました。

 ロシアによる侵攻を受けるウクライナの人たちは「最後の一人になるまで闘う」と言います。戦争末期の日本が言ったことです。国を守るために全員死んでしまうことになる。戦争の不条理です。

 私たちは憲法9条を根拠に、戦争をしない権利を持っています。このことは類いまれな幸運ですが、同時に日本の戦争がとてつもなく悲惨だったことを表しています。若い人たちには、そのことをもう一度よく知ってほしいです。

[かとう・ときこ]
 歌手。1943(昭和18)年、満州(現中国東北部)ハルビン生まれ、京都市育ち。東京大在学中に歌手デビュー。学生運動の指導者、藤本敏夫氏(故人)と獄中結婚した。代表曲に「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」など。