埼玉新聞2025/08/19


「骨と皮の状態」で拾われ…日本人だと知らず育つ 戦後の混乱期に取り残された中国残留孤児 戦後世代が体験伝える 語り部を育成 現在は13人が在籍


 戦後の混乱期に中国に取り残され、その後日本に永住帰国した中国残留孤児や家族らを支援する、国の宿泊型研修施設「中国帰国者定着促進センター」が、埼玉県所沢市並木にあった。設立から2016年2月の閉所までの32年間で、樺太からの帰国者も含め6644人が日本語や生活習慣を学んだ。中国残留孤児たちの苦悩した体験を伝えるため、戦後世代の語り部の育成が行われている。



■究極の選択


 「母の実母は、どうすれば子どもだけでも残せるか、究極の選択をしたのだと思う」。東京都練馬区で今月9日、中国残留孤児2世の長久保まりさん(52)が、母の間瀬珠美さん(81)の人生を語った。1歳だった間瀬さんは「骨と皮の状態」で拾われ、自身が日本人だと知らずに育った。17歳の時、「日本の名前や出自が書かれた紙があった」と叔父に聞いたが、養父母に真実を尋ねることはできなかった。


 長久保さんは「母が取材を受けた記事には、30年以上、日本人だと言えない悩みを抱えて生きたと書かれていた。子どもに弱音を言わない強い母だった。語り部として母の人生をたどり直して初めて、母のつらい心情が強い痛みとして、私の中に流れ込んできた」と胸の内を語る。間瀬さんは養父母の死後、1991年に48歳で中国人の夫、長男、長久保さんの家族4人で永住帰国した。


■「所沢が故郷」


 帰国した長久保さんらは、所沢市の中国帰国者定着促進センターで、日本語や日本の生活習慣を学んだ。長久保さんは「先生たちは優しく寄り添ってくれて、本当に大好き。とても幸せな時間だった」と目を細める。帰国者とその子どもや養父母まで、幅広い年代が集まった。生活環境もそれぞれで、識字学習を受けていない人もいた。講師は教材を一から作り、プログラムを考えたという。

 帰国者数は72年の日中国交正常化を機に増加しており、入所者は設立した83年度に86人、87年度には最多の642人になった。同センターで日本語を教えた馬場尚子さん(68)は「入所者同士でも異文化交流。多様性のるつぼだった」と当時の状況を振り返る。「『所沢が故郷のようだ』と言う方も多い。一日中机に座って、(入所期間の)6カ月間で住む場所も決めなければならず、大変だったと思う」と話す。


■一人の人生を考える


 同センターは帰国者の減少に伴い閉所となり、最終年度の入所は3人だった。役割を引き継いだ、「中国帰国者支援・交流センター」(東京都台東区)は、中国残留邦人らの体験を後世に残そうと、2016年度から語り部育成事業を開始した。担当者は「語り部は、その人がなぜ中国に渡ったのか、向こうでの体験、帰国の経緯、日本に帰ってからの人生について語る。一人の人生を知ってもらうことで、戦争や平和を考えるきっかけになればと思う」と願いを込める。

 在籍する語り部は現在、センターで3年間の研修を受けた30~70代の13人。戦後に生まれた世代が、残留邦人やその親族らから聞き取った内容を語り継いでいる。長久保さんは「残留孤児として確認されている2818人のうち、母も含めて1534人の身元が分かっていない。過去の問題でなく今も続いていること。これからも伝えていかなければ」と強調した。


2025/08/04 中日新聞朝刊

 【長野県】阿智村の満蒙開拓平和記念館で3日、同館のボランティアガイドが子どもらに分かりやすく、満蒙開拓の歴史を伝える活動「夏休み子どもWEEKEND(ウイークエンド)」があった。

 帰国者2世で同館ガイドの北村彰夫さん(64)が解説した。旧満州(中国東北部)へ渡った人たちが中国人の家や田んぼを安く買い、追い出したという加害の歴史を伝えた。同時に、入植地がソ連との国境沿いに集中していることを解説し、「人の盾」として利用された被害者の側面も紹介した。

 10代後半の青少年が開拓民として送り出された満蒙開拓青少年義勇軍の展示では、軍国教育の中で多くの子どもが入植した歴史を紹介し「あなただったら行きますか?」と問いかけた。旧満州が冬は気温がマイナス30度に達するほど寒く、飢えに苦しんだ歴史を展示で学んだばかりの子どもからは「行きたくない」と声が上がった。

 参加した飯田市龍江小6年の池田舞さん(12)は「国のために働けと言われて満州に行った子たちはかわいそう。昔に生まれなくて良かったと思った」と話した。

 16、17日にも同様の活動がある。(問)同館=0265(43)5580(神村俊貴)

2025/08/03 信濃毎日新聞朝刊
1945→2025・戦後80年 歴史伝えていく―この時代だからこそ

 泰阜村民でつくる「満蒙開拓の歴史を伝える会」などが2日、シンポジウム「村の戦後80年を考える」を村内で開いた。分村移民を送り出した責任として村が帰国者支援に尽力した戦後を振り返りつつ、排外主義的な言説が広がる今、中国帰国者の子孫が自身を「3世」や「4世」と名乗る困難さと意義を語った。

 シンポでは、70年代以降に村職員として帰国者受け入れや生活支援に尽力した宮島吉子さん(76)と遠山信義さん(88)が登壇。宮島さんは、自身も引き揚げ者だった保健師の中島多鶴さん(故人)が「私が帰れたことが奇跡」と使命感を持って支援した姿に導かれ「1人の方に寄り添う基本を受け止めた」とした。

 後半は、都内在住の研究者で祖母が残留婦人の山崎哲さん(39)と曽祖母が残留婦人の森川麗華さん(26)が講演。山崎さんは、日本人でも中国人でもないアイデンティティーにもがいたが「3世」と名乗ることで「歴史の延長線上に生きていることを意識できる」と話した。

 森川さんは「日本人ファースト」など昨今の排外主義的なかけ声について、「自分は排除される側の人間だと目の当たりにさせられ、怖いなと思う」としつつ、「排外主義がはびこる中でも『4世』と言っていきたい」とした。


 

2025/08/03 信濃毎日新聞朝刊 
1945→2025・戦後80年 歴史伝えていく―
 須坂市は2日、戦時中に満州(現中国東北部)に渡った珠山(しゅざん)上高井開拓団について、市内在住の2人が語る講座「上高井の満蒙開拓から 戦争体験を次世代につなぐ」を市生涯学習センターで開いた。生死のはざまに立った壮絶な体験談に、市内外の約140人が息をのんだ。

 満州では終戦間際の1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍による侵攻が始まった。幼い頃に家族と暮らしていた金井義和さん(86)はソ連軍の機銃掃射を受け、馬から転げ落ちた体験を紹介。「悲しくても涙が出なかった」ほど過酷だったと振り返った。

 牧よし子さん(95)は農繁期に開拓団を手伝うため、14歳で満州へ。現地では食料などが不足し「やるしかないと思って頑張った」とした。満州に渡った体験を踏まえ「戦争は、やって得をすることは一つもない」と力を込めた。

 小布施町から2人の話を聴きに訪れた返町(そりまち)光代さん(73)は「淡々と話されているからこそ壮絶な思いをしてこられたことが伝わってきた」と話していた。

2025/08/03 東京読売新聞

 ◇戦後80年
 ◆弟の最期 みとれず後悔
 辻岡富男さん(88)が引き揚げ列車を知らされたのは出発当日の未明。発車までたった数時間で、千振駅に着くと列車の姿はなかった。母と自分、6歳、5歳、1歳あまりの弟たちと5人、新京まで歩くしかなかった。

 乗り遅れた人はほかに40人はいたと思う。一団はソ連の追っ手におびえながら、川沿いなどを進んだ。民間人のため、攻撃されることはなかったが、金品の略奪は横行していた。

 夏場で喉の渇きが耐えがたかった。馬車のわだちにたまった水さえ貴重だ。「ボウフラがわいている水面をフッと吹くと沈む。その間に飲むんだ」。そうでもしないと生きていけなかった。

 引き揚げ前、父・忠男さんは現地人から餞別(せんべつ)金をもらい、貯金もあった。母は全て持って家を出た。腹をすかせてぐずる子どもたちにと、沿道の現地人から食べ物を買おうと懐に手を入れた瞬間、現地人が札束をむしり取り、まんじゅう3個を投げつけて走り去った。全財産の半分の2000円(当時)をあっけなく失った。

 「もう歩くのは嫌だ」。真ん中の弟が駄々をこね、末の弟を背負う母が引っ張って連れ歩いたが、早々に限界に達した。見かねた義勇隊とおぼしき人が「乗りなさい」と、むずかる弟を馬に乗せてくれた。ところが、馬は先を行き、やがて見えなくなった。「それっきり行方不明になった」
 松花江にほど近い方正に向かう途中だった。辻岡さんはすぐ下の弟・静夫さんと川に魚捕りに行っていた間に、母たちがいた一団が匪賊(ひぞく)に襲われた。辻岡さんが戻ると死体がいくつも転がっていた。母と末の弟とはぐれたが、運良く別の開拓団に保護してもらい、方正まで移動した。

 方正には1945年9月下旬に着いた。偶然、千振の自宅の隣人に見つけてもらい、同じ集落の一行に合流できた。れんが造りの官舎のような施設に春先まで逗留(とうりゅう)した。部屋には30人ほどいて、1人につき、半畳あるかどうか。小さな体を丸め、弟と抱き合って眠った。

 《方正は寒村のような場所で、食料の備蓄が多少あったが十分とは言えず、子どものほか、高齢者や女性が次々と倒れた》
 冬が近づき、寒さが日増しに厳しくなったが、2人は夏服姿で防寒着がなかった。部屋の暖炉近くで壁沿いに体をべったりはりつけ、壁伝いの熱やオンドル(床暖房)でしのいだ。

 子ども2人、知恵を出し合い助け合ってきたが、辻岡さんが発疹チフスにかかった。弟がおかゆを運んで、看病もしてくれた。物静かで、何をするにも自分の後ろをついてくる弟だった。

 熱に浮かされていたからだろうか。なぜそうしたかを覚えていない。一度、食事を持ってきた弟を殴ったことがあった。弟は悲しげに言った。「なんで殴るんだよ」
 病から回復した時、弟の姿はなかった。栄養失調で亡くなったと、周囲の大人から聞かされた。「餅が食いたい、餅が食いたい」。弟がたびたびつぶやいていた言葉だ。殴ったことをわびることもできず、家族の誰にもみとられず、逝ってしまった。今も悔いている。

 残ったのは弟の夏服。遺体を着衣のまま葬ることが「もったいない」と考えさせる窮地だった。「すまない、ありがとうな……」。心の中でことわり、袖を通した。

 あの時、自分にできたことはほとんどなかった。分かっているが「俺が殺したようなもんだ」。方正に残した未練は、大きすぎた。

 写真=弟を亡くした当時を振り返り、言葉を詰まらせた辻岡富男さん
 写真=現地で亡くなった開拓民が眠る方正地区日本人公墓(満蒙開拓平和記念館提供)