私の先祖の話をぜひ見てください。


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1945年8月15日、日本は無条件降伏により終戦を迎えました。終わったはずの戦争。しかし、新潟から中国・満州へ渡った人たちは翻弄され続けていました。ソ連軍の侵攻で日本へ帰ることができず、逃げ場を失った末の集団自決。そしてシベリアへの強制連行。戦争が終わってもなお多くの命が失われました。「痛いほど肩を抱いてくれた」。柏崎市出身の93歳女性が経験した母との別れ。集団自決に身を投じた母との記憶を今も語り継ぎます。満州での混乱により中国人家庭に預けられた男の子。中国残留孤児として生きる中、日本の母から届いた手紙をきっかけに止まっていた家族の時間が再び動き始めます。シベリア抑留を経験した男性は死と隣り合わせの極限の生活の中で人が人を狂わせる戦争の恐ろしさを語ります。シベリアの地で多くの命が失われる中、ある兵士の遺骨が家族のもとに届けられました。遺骨を受けった娘が亡き父にかけた言葉とは―。戦後80年。いまも決して消えることのない戦争の記憶をみつめます。

2025/08/02 中日新聞朝刊 地方版(信州版)
 逃避行の話 広く次世代に 「なんでこの歴史知らないの?」出発点

 【長野県】「戦争」と「国策」が絡み合った歴史を伝える阿智村の満蒙開拓平和記念館で事務局長を務める三沢亜紀さん(58)。広島県出身で平和教育が身近にあった。全国で最も送り出した人数が多い長野県内でも知らない人が多い満蒙開拓の歴史。戦後80年を迎え当事者が少なくなる中、三沢さんは「家族や仲間、大切な人を失った痛みを抱えて生きてきた。次の時代に生かせるか、私たちに問われている」と思いを強くする。(藤野華蓮)
 -広島県出身。子どもの時はどのような平和教育を受けたか。

 原爆が落とされた8月6日は必ず登校日でした。スライドを見たり当事者の話を聞いたりしました。当時のスライドで見た原爆で皮膚がただれ、水を求めて街をさまよう被爆者の様子は記憶に残っています。

 県外に出てから、広島だからこそ熱心な教育があったんだなと思いました。長野に来ると、戦争の傷痕が目に見える形で残っていないので「のどかなところもあったんだ」と思いました。でもケーブルテレビに勤めていた時に満蒙開拓を取材し、一人一人話を聞いていくと知らない歴史とそれぞれの思いがありました。衝撃的でしたし「なんでこの歴史を知らないの?」と大きな疑問を抱きました。

 -大きな被害があった広島、長崎、沖縄などと他の県で温度差はあるか。

 どれだけそのことを伝えようとする人がいるかどうか。確かに国は向き合おうとしなかったし、送り出された、出した側がいるので向き合いにくい歴史だったと思います。満蒙開拓は国策。当時の情勢、経済状況を知って「どうしてこれが良しとされたのか」を考え、繰り返さないためには何が必要か考える力が必要です。

 今はどれだけ教育現場とタッグが組めるかだと思います。ただ、学習指導要領は国が決めるので、教員や教育委の関心次第であるところはあります。どれだけ教員や教育委の人たちと思いを共有できるか問われるところです。まだ手探りですが探っている最中です。

 -満蒙開拓の歴史を伝える情熱はどこからくるか。

 経済、教育、メディアなど切り口がたくさんある歴史だと思います。開拓団の悲劇、というだけでなく多面的に歴史を学ばせてくれるものです。私が印象深い話は、逃避行の話です。2015年、中国で残留孤児を育てていた養母に話を聞きました。その方は、その子どもを自分の子どものように育て本当の親が日本で見つかったときには「親のそばで育つのが良い」と気持ち良く送り出したそうです。

 普通であれば当時、母親は子どもを置いて帰国しないはず。でも当時の過酷な環境の中で自分だったらと考えたら自分も子どもを置いてきた母親だったかもしれない。そう考えてしまいました。そこまで追い詰められるのはむごいことだと思いました。養母も自分がどこに帰属しているか関係なく、人として判断したこと。抑圧を受けてきた中国人がなぜ日本人の子どもを助けたのか。母親や養母がなぜこのような行動をしたのか考えてほしいんです。

 -館でどのようなことを感じてほしいか。

 これまでどんなところを通り歩んできたのか歴史の道筋をたどり、今の社会を見極めて一人一人考える力を見つけてほしいです。平和に向かうための正解はなくて、戦争がなければ平和だということでもない。平和は「自分の目標に向かって進める社会」だと思います。平和のために自分は何を大事に生きるか、考えてみてほしいです。

    ◇
 みさわ・あき 1967年、広島県尾道市(旧因島市)出身。大学卒業後、東京で8年働き、結婚を機に飯田市に移住した。飯田ケーブルテレビで15年働いた後、2009年12月から満蒙開拓平和記念館開館準備事会の専従職員となり、12年1月からは同館事務局長を務める。

 

2025/08/02 茨城新聞朝刊
 戦争に得なんてない 不発弾爆発、左手失う
 東の夜空が真っ赤に燃えていた。火の雨がいつまでも街に降り注いでいた。「まるで花火のようだった」。河合衛さん(101)=水戸市=は水戸空襲があった夜を思い出し、身震いする。

 1945年8月2日未明。米軍の爆撃機が水戸を襲った。街は焦土と化し、300人以上が亡くなった。被害は夜が明けても続いた。落とされた爆弾は約1100トン。田畑などに落ちて起爆しなかった不発弾が大量に残った。

 河合さんは不発弾によって左手の肘から先を失った被害者だ。「戦争に得なんてない、被害ばっかしだっぺよ」。ゆらゆらと揺れる袖を見やり、つぶやく。

 7人兄弟の長男だった。中学卒業後、家業の農家を継いだ。兵隊として外地に行った父に代わり、先祖代々の土地を守った。

 内原町(現水戸市)の家のそばには、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所があった。全国から若者が集い、大陸に渡って開拓民となった。くわを担いで駅まで歩く姿を何人も見送った。

 20歳になり、徴兵検査に臨んだ。「兵隊になるのが怖いなんて思いはあんめえ。お国のためだもの」。父や同年代の義勇軍の姿に感化された。合格し、群馬県の前橋飛行場に配属された。

 程なく「外地に行く前に一度家に帰れ」と命令され、帰郷。空襲の日を迎えた。

 夜が明け、地元の警防団の招集で水戸の片付けに向かった。市街地に近づくと、あちこちに不発弾が転がっていた。「危なくて駄目だっぺよ」。仲間と相談し、桜山で引き返した。

 道中、友人に「よーよー」と呼び止められた。手には不発弾。「危ない」。反射的に遠くにたたき落とすと、爆発した。気付くと、左肘の先がなかった。「白い骨が出ていた。ショックで痛みはなかった」。友人も軽いけがをした。

 「何だい、いたずらしたな」。通りがかりの兵隊に助けを求めると叱られた。応急手当てを受け、血を流しながら病院まで歩いた。「病院はけが人だらけ。腕やら足やら、ない人がごろごろいた」
 玉音放送を聞き、「平和になるのかな」と期待を抱いた。戦後、片腕で懸命に生きた。農業にいそしみ、子どもたちを育て上げた。戦時中のつらさは「もう覚えてない」。

 世界各地で起こる戦争に気をもむ。当事者間で解決できないのは「皆、お国のためと必死で戦うから」。広がる戦禍に「力のある人が間に入って仲直りさせるべき。戦争なんて被害ばっかしだっぺよ」。(木村優斗)(随時掲載)
 太平洋戦争の終結から80回目の夏を迎えた。県内の体験者から、戦争の記憶と平和への思いを聞いた。

★水戸空襲
 1945年8月2日午前0時31分から同2時16分までの約1時間45分間、米軍の爆撃機B29約160機は水戸市の中心市街地に約1100トン余りの爆弾を投下した。米軍資料によると、使われたナパーム剤入りの焼夷弾(しょういだん)は、日本家屋の特徴に合わせて開発された。延焼しやすい上に鎮火しにくいのが特徴で、市内の死者は300人を超え、市内全戸の約9割に当たる1万戸余りが被害を受けた。

【写真説明】
・水戸空襲があった日の夜を語る河合衛さん=水戸市鯉淵町
・米軍の空襲で被災した水戸の市街地。泉町から大工町方面を望む=「戦後70年茨城の記録」より
 

2025/08/02 河北新報朝刊

 太平洋戦争の展示施設を造るよう山形県に求め、県民有志が動き出した。県内に公設の施設はなく、資料の保管は個人が担ってきた。戦後80年となり有志も高齢化しており、後世への伝承に危機感を募らせている。

 同県村山市に「平和祈念館」を開設する下山礼子さん(74)もその一人。2019年に自宅を改装し、シベリア抑留を経験した叔父が当時の過酷な状況を描いた長さ32メートルの絵巻物の複製や、ソ連製の冬服など600点を展示。入場無料で開放する。

 開設から6年。資料も増えてきたが、施設を引き継ぐ近親者はいない。「戦争経験者が減り、伝えていくためには資料を残すしかないが、このままでは焼却炉送り。現代も戦争犯罪が起きており、シベリア抑留は昔話ではない」と語る。

 平和教育に力を入れる九里学園高(同県米沢市)の九里広志理事長(78)も資料を保存する。「政治的な右、左に関わりなく、戦時中の人々の考えを知るために資料を振り返ることができる体制をつくっておくことは不可欠」と訴える。

 下山さんと九里さんは6月末、吉村美栄子知事と面会。移転予定の県立博物館に、戦争の資料室を併設するよう要望した。

 吉村知事は「(資料の収集に関し)戦後80年を最後のチャンスだと思って取り組んでいければと考えている」と応じたが、博物館は基本構想策定の段階で、資料室を設置するかどうかは未定だ。

 下山さんは「山形は空襲が少なく、戦争のイメージは強くないかもしれないが、長野県に次いで多くの満蒙開拓団を送り出した県。山形にも戦争を伝える施設は必要だ」と話す。(渡辺拓斗)

2025/08/02 東京読売新聞

 川崎市幸区の市産業振興会館で9日、戦争体験者による講演を聞く催し「PEACE」が開かれる。同区の市民団体「世研話」が企画した。

 午後3時から始まる前半では、子供の頃に広島で被爆した森政忠雄さん、長崎で被爆した中釜眞姝子さんが、自身の経験と現在の家族の状況について語る。午後5時20分から始まる後半では、川崎大空襲で被災後、満州(現中国東北部)に渡った猿田勝久さんが残留孤児となって苦労を重ねた経験を語る様子などを映像で流す。いずれも本人が質疑に応じ、参加者と対話する。

 団体代表の須摩修一さんは「戦争を経験した方の話を聞き、人生を考えるきっかけとしてほしい」と話している。

 高校生以上1000円。中学生までは無料。8日までに、メール(s.suma@hotmail.co.jp)