2025/08/01 信濃毎日新聞朝刊
諏訪出身の作家・中山さん小説 祖父編さんの開拓誌を基に「関心寄せて」
諏訪市出身の作家中山夏樹さん(72)=さいたま市=が、旧富士見村(現富士見町)から旧満州(現中国東北部)に渡った「富士見分村開拓団」を取り上げた小説「ノート1954」を出版した。帰国者らが1954(昭和29)年に出した「富士見分村満洲開拓誌」の編集を手がけた祖父の存在が、執筆の大きなきっかけとなった。国策の下で翻弄(ほんろう)される団員の足取りを、新型コロナウイルス禍の現代と交錯させながら描いた力作で、中山さんは「満蒙(まんもう)開拓を知らない人が手に取り、関心を寄せる機会となればうれしい」としている。
富士見分村は39年、旧浜江省(現黒竜江省)木蘭県王家屯に入植。農業で品種改良を実施するなど運営は比較的安定していた。終戦時の在籍者は約850人。終戦後、満州国成立で土地を奪われた現地民らの襲撃などに見舞われ、生還者は約600人だったとされる。
中山さんによると、祖父の林圃(りんぽ)さんは通信社の元記者。富士見分村開拓団の元団長の依頼を受けて帰国者らに聞き取りを重ね、開拓誌を編さんした。中山さんは林圃さんから詳しく話を聞くことはなかったが、小説を書き始めた退職後に深く読み込み、「向き合わなければいけない」との思いに駆られた。2022年にロシアの侵攻を受けたウクライナの姿が満州と重なり、「今書こう」と筆を執った。
小説は、敗戦後の混乱で大きな苦難に巻き込まれていく様子を軸に展開。飢えに悩まされながら、慰安婦を求めてくるソ連兵と対峙(たいじ)し、暴徒から逃れるため中国共産党の八路軍と交渉する団員たち―。開拓誌を基に、満州から帰国した知人や阿智村の満蒙開拓平和記念館などへの取材も参考に、生々しく描く。
新型コロナ禍の経営難で人員整理に踏み切った旅行会社に勤める男性が、祖父が関わった開拓誌をひもといていく足取りも織り交ぜた。帰国者が戦後に開拓した土地を訪ねた際、同行した知人が「いったい何が正しかったんだろう」とつぶやく。中山さんは、加害と被害が複雑に絡む満蒙開拓について「現代との接点を見つけながら、ニュートラルに描きたかった」と話す。
鳥影社刊で四六判、276ページ。1600円(税抜き)。今月上旬ごろから、全国の書店などで購入できる。
2025/07/31 東京読売新聞
◇戦後80年
◆世界恐慌 農村に波及
満州開拓の背景には、1929年に始まった世界恐慌が日本にも波及し、農村不況を引き起こしたことなどが挙げられる。農村救済が声高に叫ばれ、打開策として移民が浮上した。そのさなか、31年に満州事変が勃発。32年に満州国が建国された。
「王道楽土」を建国理念とする満州国への入植者は、地方の農家の次男、三男が中心だった。32年に在郷軍人を主体とする第1次試験移民が満州に渡った。後に「満蒙開拓団」と呼ばれる移民の始まりだ。現地は厳寒地帯で赤痢も流行したが、早くも33年に第2次試験移民団(千振開拓団)が送り出された。現地民の反発に遭いながらも開拓に精を出し、大豆やトウモロコシなどを生産した。
単身で入植した男性のもとには、日本から若い女性が嫁ぎ、家庭を築いた。故郷の異なる開拓民たちは大きな家族のように結束した。病院、学校、慰労施設などを整備して荒野をまちに変え、生活の質を向上させた。
移民はその後も拡大した。36年、広田弘毅内閣の7大国策に盛り込まれ、総力戦体制構築の一角に位置づけられた。満州での経済開発需要に加え、極東ソ連軍の増強への対抗策としても移民の重要度が増し、100万戸移住計画が浮上した。
37年に日中戦争が始まり、泥沼の長期戦に突入する。戦時体制への移行に伴い、満州は本土を支える「食料供給地」としての性格を強めた。この頃に「移民団」は「開拓団」に改称された。
そして戦争末期。ソ連が満州に侵攻し、各地の開拓団は避難を余儀なくされた。47年までに大半の引き揚げが完了したが、多くの人々が命を落とした。
開拓団員の総数は詳しく分かっていないが、少なくとも27万人に上ったとされる。このうちソ連の対日参戦後の死者数は8万人前後とも言われている。行方不明者も多数で、中国残留邦人となった人もいた。
敗戦後、満州の開拓民たちは、国内の荒れ地の開拓に従事する。死者、行方不明者の特定、帰国者の生活保障など、開拓団事業が残した問題は現在まで尾を引いている。
図=満州国図
図=千振村イメージ図
写真=開拓団が生産した大豆の山(千振開拓農業協同組合提供)
2025/07/30 中日新聞朝刊
戦後80年 昭和100年
ウクライナやガザの空爆で無残に砕け散った家々の映像を目にするたび、涙がにじむ。異国のがれきが残る町で、あかぎれが痛む手でレンガを拾って小さな家を建てた記憶。中国残留邦人1世の岩見鈴子さん(89)=愛知県一宮市=は、8歳で大陸に渡り50歳まで残留生活を送った。念願の帰国後もつらい日々は続いた。「私は国なき子。心から笑ったことは一度もない」と語る。(児島恵美)
1936年、岐阜県白鳥町(現・郡上市)で生まれた。終戦の5カ月前の45年3月に一家7人で旧満州(現在の中国東北部)へ。父が7月に徴兵された直後に敗戦を迎え、母やきょうだいと逃げまどった。奉天(現在の瀋陽)の収容所に入ったが、物資不足で衛生状態は劣悪。「ここよりまし」と母に諭され、中国人の養子になった。
漢字にカタカナでふりがなを振って中国語を必死で覚えた。近所の子どもに「小日本」「悪魔の子」とののしられ、泣きながら帰る日々だったが、13歳のころ、現地で再婚していた実母と偶然再会した。
父は戦死し、弟妹たちも病死していたと知った。母と暮らし始め、夜間学校で読み書きを習って教員の職を得た。職場の中国人と結婚し2男1女に恵まれたが、「日本で家族と過ごした幸せな記憶がいつも心にあった」。帰国の可能性を信じ続けた。
日中国交正常化から3年後の75年、長女とともに一時帰国が実現した。だが、空港で出迎えてくれる親類はいなかった。ロビーで、帰国の夢半ばで病死した母の骨つぼをきつく抱いて座り込んだ。不安と居心地の悪さでいっぱいだった。
30年ぶりに帰った故郷の生家は、水田に変わっていた。「今、鈴子が帰ったよ!」。大声で叫んだが、山々にむなしくこだまするばかり。死別した家族の顔が浮かび、涙があふれた。「やっと日本に帰れたのに悲しいばっかり。全然面白くなかった」
86年に永住権を手にした後も、周囲からは「中国もん」と厄介者扱いされた。中国人でも日本人でもないと、孤独感に苦しんだ。「死にたい」と思い詰めた50代のころ、遺書代わりに帰国までの約40年を中国語でつづり始めた。「小日本奮闘記」と題し、200ページ以上に及ぶ手記を書くうち「死んではあかん。まだ終わっていない」と奮起した。独学で日本語を覚え直し、中華料理店を営んで生き抜いた。
米寿を過ぎた今、長女の家族と暮らし、週3日は市内のデイサービスに通う。施設のカラオケで、同年代が楽しげに歌う青春時代の流行歌はよく分からない。「歌の日本語は難しい。でも聞くのは好きだよ」とほほ笑み、手拍子を打つ。
「映画みたいな人生でしょ。でも、私の奮闘記も、もうすぐ終わりだよ」。戦争に翻弄(ほんろう)される人生は、自分たちで終わりにしてほしいと願う。
(メモ)
中国残留邦人 国策のため旧満州に移住し、太平洋戦争末期の1945年8月の旧ソ連軍の侵攻で、現地に取り残された。日本政府は80年代以降、帰国支援を本格化し、2025年6月末現在で永住帰国した残留邦人1世は6731人。大半が80歳以上となり、医療や介護を受ける上で言葉の壁が課題になっている。政府が全国7カ所に設置する「中国帰国者支援・交流センター」では、帰国者向けに日本語教室や交流活動などを続け、17年からは介護支援事業を開始した。
2025/07/30 毎日新聞/和歌山
なつやすみの美術館15「美術の歴史と歴史の美術」が、和歌山市吹上1の県立近代美術館で開かれている。9月15日まで。
美術作品は、生み出された時代や社会、人々の心のありようを反映し、美術の歴史の一部でもある。昭和100年、戦後80年、美術館開館55周年の節目の夏に、70作家による241点と、雑誌など資料21点を展示。明治時代以降、西洋の絵画や彫刻の技法を習得した日本人が、震災や不況を経て海外に経済圏を拡大するなかで、移民や戦争をどう表現してきたかが見どころだ。
高野口町で育った高井貞二の「エミグラントの街」は、ロシア語の表示が目立つ街に、移住者がひしめいている。画面右下の地図には旧満州(現中国東北部)の「哈爾浜(ハルビン)」の文字が見える。「五族協和 王道楽土」の理想郷を建設しようと、少年たちが農作業や国境警備にあたった満蒙開拓青少年義勇軍の姿など、現地に取材して描いた油彩画や、本の挿絵原画を展示する。
和歌山出身のヘンリー杉本は、日米開戦により、アメリカ西海岸で米国籍を持つ日系人も強制収容された体験を描いた。「Strange Home」はその一つで、作家が寄贈した作品。
青木加苗主任学芸員は「戦争に至るプロパガンダと、個人の経験を対比して並べました。背景を知ると作品の見え方も変わってくると思います。美術や歴史の先生方と作ったワークシートを配布しているので、夏休みの自由研究に活用してください」と話している。
入場は午前9時半~午後4時半。月曜休館(8月11日、9月15日は開館)8月12日休館。観覧料は一般600円、大学生330円。高校生以下、65歳以上は無料。担当学芸員によるギャラリートークは8月24日、9月13日の午後2時から。【松本博子】
■写真説明 高井貞二「エミグラントの街」1940年
■写真説明 ヘンリー杉本「Strange Home」1969年=いずれも県立近代美術館蔵
2025/07/29 京都新聞
プロデューサー 阿武野勝彦 過去の良作、現代に位置付ける意義
戦没画学生の絵を集めた美術館「無言館」(長野県上田市)の共同館主となった内田也哉子が出演する全6回のドキュメンタリーシリーズ「戦後80年 内田也哉子 ドキュメンタリーの旅 『戦争と対話』」。企画、プロデュースを務めた阿武野勝彦は、戦争を扱う作品の未来を見据え「過去に作られたものを、どうやってよみがえらせるかが重要だ」と話す。
本作は、回ごとに異なる信越放送の過去のドキュメンタリー番組を放送。当時の現場を内田が訪ね歩き、番組を見た著名人と対話を重ねる。信越放送と日本映画専門チャンネルで放送し、8月以降、東京を皮切りに全国で順次劇場公開される。
第1回は、旅の起点となる無言館を取り上げた2006年制作の番組を基に、当時の出演者や画学生の遺族に追加取材し、現在に引き寄せた。フォークシンガーの森山直太朗との対談では、森山が画学生の創作への情熱に思いを巡らせ、表現者としての自身を省みる。
自らも昨年退職した東海テレビ(名古屋市)で数々のドキュメンタリーを発表してきた阿武野。「当時の番組を今に位置付けることで、ただ見直すのとは違った見方ができる」と手応えを語る。
満蒙開拓青少年義勇軍、北朝鮮、沖縄…。番組が扱うテーマは世界へと話が広がるが、登場するのは多くが長野ゆかりの人々だ。日本の一地方を深掘りした先に「世界中を巻き込んだ戦争の実相が見えてくる」という。
他者と向き合う「対話」とは相反する「自分ファースト」に傾く社会への危機感は強い。戦争体験世代が減る中で、次世代にその悲惨さを伝えるために何ができるか。阿武野はドキュメンタリーをタイムカプセルになぞらえる。「よくできたものを開けると、ものすごい光を放つ。だから、今を撮る人たちの奮闘が将来の人のためになるんです」(共同)
【写真説明】
「戦争をしない、させないために、どういう番組を作るべきかを考えてきた」と話す阿武野勝彦