2025/07/29 東京新聞朝刊 地方版(茨城版)
2025年 戦後80年 「お国のため 迷いなかった」
【茨城県】太平洋戦争では、「満蒙開拓青少年義勇軍」として少年までが開拓のため、満州(現中国東北部)に送り出された。水戸市にあった訓練所に14歳で入った長野県飯田市の田中稲男さん(98)は「お国のためになると、迷いはなかった」と振り返る。満蒙開拓団は土地を安く買いたたいて反感を持たれ、ソ連侵攻後は襲撃を受けるなどしたが、田中さんは厳しい環境の中、現地の人に助けられた。「お礼がしたい」と今でも思う。
訓練所があった水戸市内原町。JR水戸駅から西に約10キロの住宅街に碑が残る。1938~45年、ここで農事や武道、軍事の訓練を2~3カ月受け、約8万6千人が満州に渡り、うち約2万4千人が亡くなったとされる。
田中さんは尋常高等小学校高等科の担任に満州は平和と言われ、広大な土地に憧れた。軍需工場で働くか、満州かの2択。両親の反対もなく、満州行きを決めた。
訓練所に行く前、先生にメダルを着けてもらった。「あこがれの的。偉くなった気がした」。壮行会も開かれ、出征兵士と同様の見送りが「誇らしかった」という。
訓練所では特殊技能習得生としてみそを造った。体操、整列などの訓練は「軍隊みたい」。つらさや寂しさで、夜中に抜け出す人もいた。
「腐ったような嫌なにおいがした」。満州に渡った時のことはよく覚えている。外で用を足す環境。「いよいよここでやるんだ」という気持ちが芽生えたが、ノミ、シラミ、冬の厳しい寒さに苦しんだ。生水は飲めず、夜はオオカミの鳴き声におびえた。
開拓の繁忙期には現地の人を雇うこともあったが、対等に付き合っていた。「言葉は自然と覚えた。彼らとは友だちになったんだ」
45年8月9日、ソ連が満州に侵攻し、義勇軍も徴兵された。病気だった田中さんは徴兵されず、仲間と現地の人の家に分散して住んだ。「彼らは自分を大事にしてくれた。世話になった人のところに行って、何とかお礼がしたい」と話す。
田中さんは自宅から40キロほど離れた長野県伊那市の公園にある義勇軍の慰霊碑に、年に一度は足を運び、献花や掃除をする。「同じ釜の飯を食べた仲間。放り出すわけにはいかない」
2025/07/28 共同通信ニュース
青々とした山の谷間に、月2日、計4時間しか開かれない小さな平和祈念館がある。人口約2千人の岐阜県東白川村。太平洋戦争の復員兵と遺族が設立し、村の徴兵や満蒙開拓団の歴史をほそぼそと伝えてきた。「兵士達は人を殺す為のロボットだ」。葛藤を克明につづった兵士の日記など、貴重な史料が眠る。だが来館者は月10人足らず。ボランティアの高齢化で存続が危ぶまれている。
急勾配の道路の先にたたずむ倉庫だった祈念館。昼下がり、開放された重い銅の扉を通り抜けると、窓一つない古びた館内に木の湿ったにおいが漂っていた。
入ってすぐ目に飛び込むのは、軍服に身を包む男性たちの白黒の顔写真。一軒家ほどしかない狭い館内に、村出身の戦没者約200人の遺影がずらりと飾られている。
戦後50年を前に、後世に語り継ごうと、遺族らが兵士の遺品などを持ち寄り開館した。太平洋戦争戦没者の所持品を中心に約850点が所狭しと並ぶ。召集令状を届けたかばんや、実際に着用した軍服、戦後の旧ソ連抑留生活で履いた布製の軍靴などを自由に素手で触ることができる。
中でも目を引くのが、日中戦争で戦死した東白川村出身の今井龍一さん=当時(22)=の日記だ。「お母さんのおとなしい息子だった僕はいま、人を殺し、火を放つ、恐ろしい戦線の兵士達の一人となって暮してゐます」。兵士を「人を殺す為のロボット」になぞらえ、腹部を撃たれて死亡するまでの10日間の苦悩が記されている。軍の言論統制が厳しかった時代。祈念館の運営委員大坪兼行さん(82)によると、戦争を批判的に捉えた日記の原本が残されているのは珍しいという。
太平洋戦争で父由郎さん=当時(35)=を亡くした大坪さん。1階の片隅に飾られた父の遺影を指さし「国が進むべき道を誤った結果の犠牲者だ」と話す。当時2歳で、父親の記憶は「皆無」。だが祈念館の運営を宿命だと考えてきた。
運営するボランティア18人は平均80歳代。人口の約半数が65歳以上の村で、なり手の確保は難しい。「このままだとあと数年で閉館しなくてはならない」。だが、3月のメンバー募集に手を挙げる人はいなかった。
村最後の太平洋戦争の復員兵が2年前に他界し、村内では祈念館存続への思いに温度差がある。それでも、世界中で民間人を巻き込む紛争が続く状況に「ここで展示品を手に取り、戦争の愚かさを感じてほしい」との思いは強まるばかりだ。
「『悲しいあの時代に逆戻りしちゃあかんで』と父に言われている気がする」と語る大坪さん。「国や家族の平和を願い死んでいった若者の証しを何としても残したい」
【写真・図表説明】岐阜の平和祈念館が存続危機、山村に残る庶民の戦史
平和祈念館に飾られた村出身の戦没者の遺影=6月15日、岐阜県東白川村
2025/07/28 中部読売新聞=三重
戦後80年に合わせ、熊野市にゆかりのある人たちの戦争体験記などを展示する「『語り継ぎたい平和への想い』積み上げた証言の記録」が、熊野市の市文化交流センターで開催されている。
同センターは2014年から、戦争体験者による講演会や、証言を記録した展示を計5回、開催してきた。体験者への聞き取りは、同市の作家中田重顕さん(83)が担ってきた。
今回は、過去5回で取り上げた証言の中から、29人分をパネルで展示する。元特攻隊員や、フィリピンのルソン島で負傷し、捕虜となった元兵士、遺族らの証言を取り上げる。そのほか、満蒙開拓団として旧満州に渡り、戦後のシベリア抑留で亡くなった男性については、開拓団時代に家族に送った手紙などから、当時の状況や男性の思いなどを推察している。
戦艦「大和」の元乗組員の手記には「当時の若者たちは勇気をふりしぼって死んでいった。みな立派だった。しかし、その死を称賛してはならない。むなしい死だとして哀(かな)しむべきものなのである」などの文章が残されている。
入場無料。8月17日まで。1、9日の午前10時から、中田さんのギャラリートークが予定されている。
写真=戦争体験者の証言などが紹介された展示(27日、熊野市で)
2025/07/28 朝日新聞/兵庫県
第2次世界大戦後も中国に残留し、戦い続けた旧日本兵を描いた、2006年のドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」が、戦後80年のこの夏、全国で再上映されている。県内では8月2~8日、神戸市中央区の元町映画館で鑑賞できる。
監督の池谷(いけや)薫さん(66)は神戸市在住。7年前から、甲南女子大学教授として、同大文学部メディア表現学科で映画論などを教えている。
映像制作会社で、中国残留孤児問題などのテレビドキュメンタリー番組を手がけた後、文化大革命に翻弄(ほんろう)された父娘の再会を描いたドキュメンタリー映画「延安の娘」(2002年)が、監督としての劇場デビュー作となった。
04年、日中友好協会の知人から、終戦後、中国・山西省で、日本軍の一部2600人が武装解除を受けることなく残留し、国民党軍に合流。4年間、共産党軍との内戦に動員され、550人が戦死したと聞いた。「そんなことがあったなんて。知らないのは罪だと思った」
元残留兵の奥村和一さんを紹介された。奥村さんは、日本軍幹部の命令で残留させられたにもかかわらず、勝手に残って傭兵(ようへい)になったとされていることに異議を唱えていた。「私たちは命令に従い、蟻のようにただ黙々と戦っただけだった」
当時、奥村さんは、旧軍や国の責任を問うために元残留兵仲間と提訴したが敗訴し、控訴の準備を進めていた。池谷監督は、日本軍が命令した証拠を集めるため山西省に行くという奥村さんの思いを映画にしようと決めた。
中国に着いてから、奥村さんは、初年兵教育のための「肝試し」と称して、中国人を銃剣で刺し殺すよう命令を受け従ったことを告白した。今では荒れ地となった、その現場に立ち、「ここが私が初年兵として人を殺せるようになった仕上げの場所でした」とつぶやき、地面に線香を供えた。
「戦争とはどういうものか。日本軍はどうやって人間の理性を奪っていったのかを明らかにしたい」
奥村さんは、戦争によって自分たちが受けた被害だけでなく、加害の事実、加害の苦しみにも真っ正面から向き合った。
だが、最高裁は上告を棄却。奥村さんの願いは届かなかった。
映画の最後で奥村さんは言う。「初年兵だった私は本当の戦争を知らないかもしれない。だからこそ、知る必要がある。この機会を逃したら、わかりませんから。時間との競争でもある」
11年5月、2カ月前に起こった東日本大震災の被災者を気遣いながら、奥村さんは86歳で亡くなった。
そのとき、池谷監督は、この震災で息子を亡くした木こりの老人が自宅を再建するまでを追う3作目「先祖になる」を撮影中だった。4作目は、非暴力の闘いに込めたチベット人の心を描いた「ルンタ」を作った。一貫して人間の尊厳をテーマにし続けている。
池谷監督は「『蟻の兵隊』は奥村さんの遺言だったかもしれない」と話す。「元日本兵の話を直接聞くことは、もうできない。でもスクリーンの中で彼らは生きていて、私たちは、その言葉から本当の戦争を知ることができるんです」
「一人でも多くの若者に、戦争とは何かを知ってほしい」と考えた池谷監督は数年前から、大学などの授業で「蟻の兵隊」を見てもらい、その後で講演し、学生と語り合う活動を続けている。戦後80年の今年は全国計17の高校や大学で実施する予定だ。(三浦宏)
【写真説明】
池谷薫監督=神戸市
映画「蟻の兵隊」の一場面。自分が中国人を刺し殺した現場に立つ故・奥村和一さん
映画「蟻の兵隊」の一場面。日本軍山西省残留問題を訴え続けた故・奥村和一さん=いずれも(C)蓮ユニバース
2025/07/27 京都新聞朝刊
戦後80年
戦争を体験した人々の高齢化とともに、戦後生まれの世代による継承が大きな課題になっている。当時の悲惨さを知る祖父母や両親がいる今の70~50代の人たちにも、戦争の重い現実を次代につなぐ役割が求められる。
「こんな父のことを本当は話したくはありませんでした。でも話すことも必要とも思い、投稿いたしました」(神奈川県・66歳)。これは雑誌「通販生活」が、7・8月号で特集した「語り継ぐ 親たちの戦争体験」の1編だ。父が戦後も軍国主義を懐かしんでいたことを、批判的に記している。
同誌の手記募集に146通が寄せられた。掲載された30編には、戦時を生きた親の話のほか、戦後、軍隊式の体罰を子どもに加えていた父への複雑な思いや、教え子を戦地に送った元教員の祖父が自らを生涯責め続けた姿などがつづられている。
出版元のカタログハウス読み物編集長の釜池雄高さんは「投稿した方たちが子ども、孫世代だからこそ、そしてある程度の時間がたったから書けたのではないでしょうか。戦争だけは二度と駄目だという戦後80年間の思いをなくさないために、体験を語り継ぐことが大事です」と話す。
国策で日本から旧満州に渡った農業移民団「満蒙(まんもう)開拓団」の歴史を語り継ぐ「満蒙開拓平和記念館」(長野県阿智村)館長の寺沢秀文さん(71)の父は開拓団員だった。
団員たちの体験は「加害と被害が入り交じった、あまりにも過酷なもの」と寺沢さんは言う。「開拓団の人たちの苦労や悲しみも理解し、当事者間ではタブーとされるようなつらい記憶にも触れられるのは私たち戦後世代です。戦争の悲惨さ、平穏な日常の大切さを考えるために伝えていきたい」。同館は今年、開拓団員の子らをゲストにさまざまな視点で歴史を語る取り組みも始めた。
東京都国立市は市内に住む広島、長崎の原爆被爆者と東京大空襲の体験者の話を聞き取って語り継ぐ伝承者を、2015年から育成している。25年度は21人が活動しており、80~50代が3分の2を占める。
「体験者の語りに勝るものはないと思いますが、丁寧に聞き取った伝承者の客観的な講話は分かりやすいという声が多く寄せられます」(国立市市長室長の吉田徳史さん)。広島市、長崎市でも被爆者の家族による語りが続けられている。
戦闘や空襲など戦時中の記憶だけでなく、心身に深い傷を負った祖父母や両親が戦後をどう生きたかを子ども、孫世代が語り、書き残せば、戦争の傷痕を記録することになるだろう。役割は大きい。(共同)
【写真説明】
雑誌「通販生活」が特集した「語り継ぐ 親たちの戦争体験」
【写真説明】
長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館では、さまざまな視点で満蒙開拓の歴史を語る取り組みを続けている(同記念館提供)