2025/07/26 東奥日報

 満州事変の翌年、1932年に満州国の建国が宣言された。日本人も含む五つの民族が力を合わせる「五族協和」と「王道楽土」をスローガンに掲げ、中国東北部にできた新しい国だ。その実態は日本陸軍の駐屯部隊「関東軍」が実権を握る日本の傀儡(かいらい)国家だった。

 開拓のため政府は移民を募った。「拓(ひら)け満蒙! 行け満州へ!」。満蒙開拓団は歓呼の声に送られ出兵するように故郷を離れた。大陸に渡ったのは終戦の年まで満蒙開拓青少年義勇軍も含め約27万人とされる。

 なぜこんなに多くの人が大陸に渡り、約8万もの命が失われたのか。その実相を知ろうと長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館を訪ねた。

 記念館は国内で最も多くの開拓団を出したこの地域に2013年に創設された。帰還した人たちの聞き取り調査などから真実に迫り、開拓団も結果として満州侵略に加担したという「不都合な事実」も含めて展示する。16年には天皇陛下(現上皇さま)が見学し、満州からの引き揚げ者らと懇談された。

 寺沢秀文館長は計画段階から創立に関与した。両親は開拓団に参加し、ソ連の参戦後、母は避難民の収容所で最初の男の子を病気で失った。現地で召集された父はシベリアに3年間抑留された。その父や帰還者からは同じ話を聞いた。

 「開拓といっても実際は地元の人の土地を奪ったものです。そこを耕し私たちが幸せになっても、現地の人は納得しません。だから敗戦となると、開拓団を攻撃したのです。人さまのものを取っては幸せになれない」
(共同通信編集委員 諏訪雄三)

▼主な参考文献
 「満蒙開拓平和記念館(図録)」、「鍬(くわ)を握る」(信濃毎日新聞社編集局編)、「中国残留邦人」(井出孫六著)、「満州分村移民を拒否した村長」(大日方悦夫著)
●インタビュー/農村の人減らし、反日の盾にも 満蒙開拓平和記念館 寺沢秀文(てらさわひでふみ)館長
 〈移住の目的は?〉
 政府は1936年、関東軍の移住計画を基に、農業移民を20年間で100万戸満州へ送り出す計画を決めました。農業移民が国策となり「20町歩の地主になれる」「1戸当たり千円の補助」の触れ込みで募りました。

 世界恐慌の影響で生糸の価格が大暴落し、養蚕が主力の農村では食べるのも苦労する状態。農地は乏しく貧困状態にある農村からの人減らしが一つの目的です。満州の権益を争うソ連や現地の反日勢力に対する人の盾にする狙いもありました。

 〈移民の方法は?〉
 計画の決定前は、農業経験のある在郷軍人から選ばれた試験移民(武装移民)でした。日本人が匪賊(ひぞく)と呼んだ武装集団の襲撃に遭って死亡者も出ています。

 37年からは同じ地方からの集団移民が始まります。都道府県ごとに募集した開拓団のほか、町村が単独で送り出す分村開拓団、近隣の複数の町村が母体となる分郷開拓団が推進されました。

 土地の確保は、最初は関東軍、その後は満州国政府や満州拓殖公社などが担いました。荒れ地を開拓した所もありますが、現地の農民が耕作していた土地を安く買収して強制的に立ち退かせた所もありました。

 都道府県別の開拓団員数は長野県が断然トップです。中でも記念館のある飯田・下伊那地方が一番多い。耕地面積が少なく、養蚕が駄目になって生活が苦しいこと、地域や行政のリーダーに移民を勧める人が多かったことが背景にあります。

 〈国からの圧力は?〉
 ある村は38年の村民総会で「日本民族の大陸移動こそ帝国の政治経済体制確立の基礎にして満州に分村を行ふことは、銃後国民の義務であり、農を以(もっ)て国に報ぜんとするものの使命である」と宣言しています。

 この村は翌年、860戸のうち約2割が満州に渡りました。移民は政府の拓務省が先導し、県の拓務課を通じて市町村に迫りました。移民を出せば母村に補助金というメリットもありました。

 一方、希望者が集まらず、移住を先導していた村長が自ら開拓団を率いたという話もあります。満州を視察した結果、移民政策に疑問を持ち、分村移民を出さない方針を貫いた村長もいました。

 〈義勇軍とは?〉
 開拓団が集まらなくなり、38年から満蒙開拓青少年義勇軍を募集します。数え年16~19歳の青少年で組織され、訓練期間を経て開拓団に移行して農業の担い手になるという話でした。満州に行く理由は、多い順に教師の指導、本人の意志、父兄のすすめでした。

 学校ごとに割り当てがあり、校長室に何日も立たされて募集に応じた例もありました。義勇軍の数も長野県がトップです。昭和恐慌の時代、教員らの組合活動を「教員赤化」として国が弾圧する事件が長野も含め起きました。反動として教育界が国に忠誠を示そうとした面もあったのでしょう。

 満州では義勇隊と呼ばれ、戦局が厳しくなるとソ連国境に近い地域に入植させられました。

 〈ソ連の参戦後は?〉
 45年に関東軍は満州在住の日本人男性を「根こそぎ動員」しました。満州の4分の3を放棄し南満州で持久戦に持ち込む計画を立てます。ソ連参戦前に軍の主力部隊は南下し、開拓団や一般住民を置き去りにしました。

 開拓団で残ったのは老人、女性、子どもの計22万3千人。北満の入植者らは絶望的な逃避行を余儀なくされました。ソ連軍や中国人の襲撃の中、集団自決を選んだ開拓団もあります。子どもを川に流した親も、つらい経験をした女性もいます。約1万人が戦闘で死んだり自決を選んだりしました。約7万人が病死です。

 終戦時、国は海外在住の一般邦人を現地にとどまらせる方針でした。帰国のめどもない避難民生活の中、中国人に売られた子どももいます。生きるため残らざるを得なかった女性もいます。後に中国残留孤児、残留婦人と呼ばれる人たちです。動員された男たちはシベリアに抑留されました。

 米国と中国の話し合いで46年から日本人の引き揚げが始まりました。故郷に戻っても耕す土地はなく、国内での開拓や海外への移民の道を選んだ人もいます。

2025/07/25 東京読売新聞=長野

 飯田日中友好協会(事務所・阿智村)の案内で、東京都内の大学に通う中国人留学生2人が24日、阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪れた。日中の戦争や開拓団の歴史などについて学び、平和への思いを新たにしていた。

 日中友好協会(東京)が、中国人留学生から希望者を募り、各地に滞在して交流を深めてもらう事業の一環。飯田日中友好協会は隔年で受け入れてきたが、コロナ禍を経て、6年ぶりに実施が決まった。

 2人は東京大大学院で農業・資源経済を学ぶ孫銘岳(そんめいがく)さん(27)と、早稲田大大学院で日本語教育を研究している辛金盈(しんきんえい)さん(27)で、2泊3日の日程で22日に飯田・下伊那入りした。

 この日はボランティアスタッフの説明を受けながら、旧日本軍が主導して1932年に建国された「満州国」の地図や解説パネルなどを見学。当時、国策として進められた満蒙開拓団の歴史を約40分かけて学んだ。見学後、孫さんは「戦後の残留孤児たちの苦しむ姿はとても悲しかった。歴史を学ぶことが将来の平和を築く第一歩だ」と述べた。辛さんは「(満蒙開拓団員は)国に捨てられたという印象だ。戦争で一番つらいのは一般国民。つらい出来事から80年たつが、私たち若い世代が未来に向かって民間同士でもっと仲良くしていきたい」と語った。

 写真=スタッフの解説を聞く辛さん(中央)と孫さん(24日、阿智村の満蒙開拓平和記念館で)

2025/07/20 サンデー毎日 

 ◇戦後80年を歴史の暗部から問う

 戦後80年の今年、私たちは語られざる歴史を振り返るべきだろう。満蒙開拓団が辿った悲劇の道筋には、さらに知られざる暗部があった。戦争と性暴力の実態を描いた映画『黒川の女たち』の監督・松原文枝氏に、倉重篤郎が迫る。

 戦争が世界に渦巻いている。ウクライナ、ガザ、イラン…。あちこちで不気味な口を開け、隙あれば我々を呑(の)み込まんとしている。

 戦後80年目の夏が来た。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」(ワイツゼッカー元独大統領)という。我々には学ぶべき過去がある。その記録と記憶を丹念に掘り起こし、現在と未来に対する責任を?(か)みしめる時期としたい。

 満蒙(まんもう)開拓移民団と呼ばれる集団がいた。1931年の満洲事変以降、昭和恐慌で疲弊する内地農村の救済と対ソ戦兵站(へいたん)地形成という国策の下、日本各地で団を結成し、満洲・内蒙古に開拓民として送り込まれた人々だ。45年の敗戦までの14年間に約27万人が移住した。日本が敗色濃厚になり45年8月9日にソ連軍が満洲に侵攻すると、関東軍は逃亡、何も聞かされていなかった開拓団は過酷な状況に追い込まれた。

 井出孫六著『中国残留邦人 置き去られた六十余年』(岩波新書)によると、ソ連参戦時の開拓団員の実数は22万3000人。戦局悪化で成年男子4万7000人が徴兵されたためで、大半が老人、女性、子供だった。軍の保護も男手もない逃避行の末、約8万人が死亡した。収容所での病死、戦闘への巻き込まれ、地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決だった。把握されているだけでも48の開拓団が集団自決した。

 そんな中、岐阜県黒川村から吉林省陶頼昭に入植した129世帯、660人の開拓団もまた生死を賭けた選択を迫られていた。中国人やソ連兵による虐殺や略奪・強姦(ごうかん)が横行し、隣接の来民(くたみ)開拓団(熊本県)と高田開拓団(広島県)は既に集団自決していた。それに倣うか否か。団幹部が選んだのは、近くの陶頼昭駅駐留のソ連軍に開拓団を守ってもらい、その代償として、17歳から21歳の未婚女性15人をソ連軍の性接待係として差し出すことだった。

 接待所は開拓団内と陶頼昭駅の2カ所に置かれ、ベニヤ板張りの部屋に毎回5、6人の女性が呼ばれ、将校相手に性交させられた。性病や発疹チフスで接待に出された女性4人が現地で死亡し、長期入院を余儀なくされた女性もいた。

 だが、帰国後女性たちを待っていたのは労(ねぎら)いではなく、差別と偏見、口さがない誹謗(ひぼう)中傷だった。身も心も傷を負った女性たちは声も上げられず、事実は長年伏せられてきた。82年には開拓団遺族会が地元神社境内に「乙女の碑」を建立したが、性接待には一切触れなかった。翌83年には雑誌『宝石』(光文社)にその実態の一部が報道されたが、遺族会が周辺の雑誌を買い占めるなど、世の多くが知るには至らなかった。

 2013年7月、被害女性の一人佐藤ハルエさんが実名で姿を出して証言したことでようやく封印が解けた。16年にノンフィクション作家の平井美帆氏が生存者3人の証言を含むルポを発表、17年にNHKが「告白 満蒙開拓団の女たち」で放映、18年8月15日には佐藤ハルエさんの告白が朝日新聞全国版で大きく取り上げられ、11月18日には、性接待の真相を記した新たな碑文が完成、除幕式が行われた。

「黒川の女たち」監督の松原文枝氏(テレビ朝日ビジネスプロデュース局ビジネス開発担当部長)は、朝日の記事でこの話を知り、11月の碑文除幕式からカメラを回し始めた、という。

 ◇事実を歴史に残そうという意志

「ハルエさんの写真が印象的だった。彼女の表情が強い意志をもって語るという感じで、引きこまれた。その時93歳。高齢だから話せるというが、決してそうでないと感じた」
 松原氏と言えば、カジノ誘致を争点にした19年の横浜市長選で、誘致反対を唱える「ハマのドン」こと藤木幸夫氏を主人公にドキュメンタリー映画(23年5月)を世に問うた人だ。テレ朝「報道ステーション」チーフ・プロデューサー時代には、14年12月衆院選を巡る報道で、安倍晋三政権から反政府的だとにらまれた人物(後に経済部長に異動)でもある。

「当時もう経済部所属だったので、除幕式には同僚に行ってもらった。私は中で原稿を受け取ってその日の夕方のニュースに2分くらい出した。19年夏には報道ステーションで10分間の特集をやり、11月にはドキュメンタリー枠で、1時間番組に拡大して放送した」
「碑文ができるまでの経過を追った。実際に開拓団を経験した旧世代が遺族会の主導権を握るうちは、乙女の碑を作っても、真相を話そうという動きは潰されてきた。潰す側にも論理があった。それは被害女性たちを結果的に貶(おとし)めることになると。だが、ハルエさんら女性たちの、事実を歴史に残そうという意志は止(や)むことがなかった。遺族会も戦後世代に代替わり、12年に藤井宏之会長になってからは、それに呼応、遺族会が被害女性の間を回り、新しい碑文に結実させた。一つのドラマだった」
「ただ、その時に藤井会長に『一区切りですね』と言ったら、『まだ終わっていない。苦しんでいる方がまだいらっしゃる』と言う。性暴力を表に出すことが、世の中をどう変えるか。女性本人とその家族にどういう影響を与えるか、私自身気になることもあった。カメラを回し続けると、佐藤ハルエさんのところに実にいろんな人が訪れてくる場面に出合った。証言を聞き取る学者だけでなく、地域の大学生や高校生、会社員の女性たちも、みなハルエさんの話を聞きに来る」
「ハルエさんが切り開いたものに対する深い敬意と強い共感があった。こうやって人の心は動く、人は行動するんだなと思った」
「ハルエさんは二つの開拓事業の経験者でもある。戦前は満蒙開拓、帰国後は故郷を追われ、国が引き揚げ者対策に設けた同じ岐阜県郡上市高鷲(たかす)町の『ひるがの』高原での開墾事業に参加、理解あるご主人と結婚し、標高千メートルの荒れ地を20年越しで切り開く仕事をした。山林で木々を根っこから抜いては、重たい手鍬(てぐわ)で硬い土壌をならす、という原始的耕作だった。結果的にコメは取れず、酪農農家として生きてきた。満洲の苦労に比べればたいしたことないと言っていた。戦中、戦後と時代に翻弄(ほんろう)されながらもたくましく生き抜いた女性の姿があった」
「そのハルエさんも体調を壊され入院、なかなか映像が撮れなかった。久しぶりに退院したと聞き、藤井会長と自宅にお見舞いに行った。安江菊美さんも一緒だった。菊美さんは開拓団の一員で敗戦時は小学校5年生。性接待に出る女性たちが入る風呂を焚(た)く係だった。被害女性たちに寄り添い、史実が残されるよう藤井会長を全面的にバックアップしてきた。ハルエさんは、二人を待っていたかのように10分後に息を引き取った。死に立ち会ったことで、この記録を残さねば、という気持ちが強まった」
「安江玲子さんも印象に残る一人だった。藤井会長が『まだ苦しんでいる方がおり遺族会として謝罪したい』と仰(おっしゃ)っていた人だ。黒川には怨念があり帰りたくない、という気持ちを持ち続けた方だった。彼女は家族にも話せないほどトラウマに苦しめられていた。19年の最初のインタビューは、首下の撮影で、顔を出せなかった。顔を知られると家族がわかってしまう。取材にも消極的だった」

 ◇匿名では性暴力が歴史に埋もれてしまう

「ところが、23年10月、彼女が会ってもいいというので、藤井会長と訪れた時には人が変わったような違う顔を見せてくれた。柔和な顔になり冗談も言う。顔も名前も出していいという。なぜ変わったのか。聞いてみると、お孫さんから『おばあちゃんが自殺もせず、話をしてくれてよかった、ありがとう』と書いたハガキをもらい、肌身離さず持ち歩いている、という。性暴力被害者は、理解者がいることと謝罪してくれる人がいることが大事だというが、まさにその過程を経て、人としての尊厳が回復されたと実感した」
「ハルエさんの死と、玲子さんの変わりよう、人間性回復を見て、ああこれは彼女たちのことを形として、記録として、残さなければならないなと決意した。彼女たちが行動してきたことが人を動かす、と確信した。24年1月にハルエさんが99歳で亡くなり、5月に映画化が決まった。戦後80年に向けて伝えたいとも思った」
 難しかったことは?

「被害女性たちの家族が理解してくださるかどうか。ここに開拓団時代の一枚の写真がある。7人写っているが6人が性暴力を受け、1人はその中の妹さんで洗浄、消毒係だった。皆さんこの写真を共有、シンボル的なものだった。19年にテレビで放送した段階では、顔を出せたのが7人のうちの3人だけで、あとの4人はぼかした。今回は趣旨を丁寧に説明、全員ぼかしを外すことができた」
「最後まで駄目だというご家族もいたが、なぜ顔を出すことが大事かを説明した。彼女たちに起きたことは、性暴力なので匿名や伝聞では、歴史に埋もれてしまう。歴史に実際あったことを実像で伝えさせてほしいと手紙を書き、会っていただけない方には電話でお願いした。映画作りの最後の場面で電話がかかってきて、家族会議を開いて理解しました、と仰る方もいた」
「安倍政権時代の決裁文書改竄(かいざん)事件など、国は平気で時の政権に都合のいいように公文書の書き換えを行い、不都合な歴史を闇に葬ろうとしたが、黒川では、自分たちの不都合な歴史を引き受け、向き合い、親たちがやったことについてもきちんと謝罪し、書いて教訓に残した。国との対比において、救いとも感じた」
 藤井会長の尽力も大だ。

「お父さんは開拓団の一員としてソ連兵に女性を案内する役割だった。女性たちへの贖罪(しょくざい)の意識からタブーとなっていた事実を碑文に残すために奔走、被害女性や家族の理解を得て成し遂げた。材木屋さんで自民党員。戦争時代を知らないが、戦争体験は大事にする。健全な保守があの山奥では生きている、と感じた」

 ◇女性の性を差し出すという悲劇

 黒川開拓団は団員660人中451人が生還できた。人間的には許されない行為だが、生存は守った。

「自分が突きつけられたらどうするんだということですよね」
 男性側は考える。自分だったらどうする?

「答えはないんですよね、私もそう思う。ただ、敗戦になっても開拓団に避難命令を出さなかった。軍関係者や軍属は戦況がわかるから家族を帰していた。敗戦になると秩序がなくなり、女性が犠牲になる可能性があることは見えていた。そうならないように彼女らを早く避難させるべきだった」
 現実はそうでなかった。

「女性が道具のように扱われることで、男性も女性も生きて帰ってこれた。ハルエさんは『生きて帰ってくることが大事だ。ソ連兵に差し出されたことはもちろん嫌だし、こんなこと二度と起こしてはいけない。でも生きて帰るためには犠牲になるしかない』と言った。しかし、1983年の『宝石』では、『身を汚されても私の心は清いと思うことで耐えた。滅私奉公、無私の挺身(ていしん)だと正面から感謝されるのも嫌だった』と本音を語っている。決して納得してはいなかった。生きて戻るために女性の性を差し出すというのは私はさすがにできないし、では死ぬのか、ということでもない。本当に二者択一だったのか。そこは疑問を持ち続けている。開拓団が戦況など当時何も知らされなかったことの罪の大きさだと思う」
 黒川以外に同ケースも?

「戦時性暴力を研究している歴史家の平井和子さんがまとめているが、自分たちの方から情報を差し出したケースが、国会図書館に残っている資料と証言集から44件あったという。氷山の一角だったかもしれない」
「ただ、名前と顔を出して実例として残っているものはない。黒川はその意味では稀有(けう)な事例だ。それを歴史に刻むことができた」
「ハマのドン」との共通点もあると?

「立ち向かうということだ。ハマのドンは権力側にいた人だが最高権力者に立ち向かった。時の菅義偉首相に反旗を翻し、一気にカジノ誘致反対の流れを作った。黒川の女性たちは、ずっと封じ込められていた共同体の抑圧に対して声を上げようとした。私には同じだ。抗(あらが)っていく。立ち向かっていく。何かを突破していく。私は自分が弱いからなかなかできない。それゆえに希望があると思った」
 あなたは安倍政権に立ち向かった?

「この人たちに比べたらたいしたことない」
 最後に映画を見て何を一番感じてもらいたい?

「いくつもあるが、戦争というのは愚かなことだと。女性たちの勇気と人間としての強さ、戦争は二度と起こしてはいけないということを彼女たちを通して感じてもらいたい。そして過去に責任を持つことは未来を切り開くのだということを」
   ◇   ◇
 自分がもし開拓団幹部だったら…。その問いが重く響き続ける試写会の99分だった。映画は7月12日封切り、全国順次公開される。

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 ◇まつばら・ふみえ
 映画監督。テレビプロデューサー。『独ワイマール憲法の“教訓”』でギャラクシー賞テレビ部門大賞、『黒川の女たち』の原型となった『史実を刻む』がUS国際フィルム・ビデオ祭銀賞、映画『ハマのドン』の基になるテレビ番組『ハマのドン』でテレメンタリー2021年度最優秀賞などを受賞

[写真]映画『黒川の女たち』公式サイトより

 

2025/07/24 静岡新聞

戦争を体験した人々の高齢化とともに、戦後生まれの世代による継承が大きな課題になっている。当時の悲惨さを知る祖父母や両親がいる今の70~50代の人たちにも、戦争の重い現実を次代につなぐ役割が求められる。

 「こんな父のことを本当は話したくはありませんでした。でも話すことも必要とも思い、投稿いたしました」(神奈川県・66歳)
 これは雑誌「通販生活」が、7・8月号で特集した「語り継ぐ 親たちの戦争体験」の1編だ。父が戦後も軍国主義を懐かしんでいたことを、批判的に記している。

 同誌の手記募集に146通が寄せられた。掲載された30編には、戦時を生きた親の話のほか、戦後、軍隊式の体罰を子どもに加えていた父への複雑な思いや、教え子を戦地に送った元教員の祖父が自らを生涯責め続けた姿などがつづられている。

 出版元のカタログハウス読み物編集長の釜池雄高さんは「投稿した方たちが子ども、孫世代だからこそ、そしてある程度の時間がたったから書けたのではないでしょうか。戦争だけは二度と駄目だという戦後80年間の思いをなくさないために、体験を語り継ぐことが大事です」と話す。

 国策で日本から旧満州に渡った農業移民団「満蒙[まんもう]開拓団」の歴史を語り継ぐ「満蒙開拓平和記念館」(長野県阿智村)館長の寺沢秀文さん(71)の父は開拓団員だった。

 団員たちの体験は「加害と被害が入り交じった、あまりにも過酷なもの」と寺沢さんは言う。「開拓団の人たちの苦労や悲しみも理解し、当事者間ではタブーとされるようなつらい記憶にも触れられるのは私たち戦後世代です。戦争の悲惨さ、平穏な日常の大切さを考えるために伝えていきたい」。同館は今年、開拓団員の子らをゲストにさまざまな視点で歴史を語る取り組みも始めた。

 東京都国立市は市内に住む広島、長崎の原爆被爆者と東京大空襲の体験者の話を聞き取って語り継ぐ伝承者を、2015年から育成している。25年度は21人が活動しており、80~50代が3分の2を占める。

 「体験者の語りに勝るものはないと思いますが、丁寧に聞き取った伝承者の客観的な講話は分かりやすいという声が多く寄せられます」(国立市市長室長の吉田徳史さん)。広島市、長崎市でも被爆者の家族による語りが続けられている。

 戦闘や空襲など戦時中の記憶だけでなく、心身に深い傷を負った祖父母や両親が戦後をどう生きたかを子ども、孫世代が語り、書き残せば、戦争の傷痕を記録することになるだろう。役割は大きい。

 【写説】雑誌「通販生活」が特集した「語り継ぐ 親たちの戦争体験」
 【写説】長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館では、さまざまな視点で満蒙開拓の歴史を語る取り組みを続けている(同記念館提供)
 【写説】「戦争だけは二度と駄目という共通認識は、みんなのつらい体験から引き継がれてきた草の根の語りでしょう」と釜池雄高さん
(共同)

2025/07/29 週刊エコノミスト

 戦後80年の節目に当たる今年は、東京大空襲、沖縄戦、広島、長崎……と、さまざまな媒体で取り上げられている。そんな中、異彩を放つドキュメンタリー映画が公開された。

 舞台は岐阜県東部の山間にある旧黒川村。そこから満州奥地へ送り込まれた開拓団は、1931年開始の大規模事業「満蒙開拓移民」の一環だった。当時の農村にあふれる生活困窮層を、満州、内蒙古などへ配置し、現地を支配する日本軍の武力を背景に強制接収した現地農民の土地を与えて自立させ、移民として根を張らせようというのだ。

 実は、この政策を強力に推進したのは広田弘毅首相だ。東京裁判で文官として唯一死刑となり「悲劇の宰相」扱いされた広田でさえこうなのだから、あの戦争は軍部だけが暴走した結果ではないのがわかるだろう。

 だが満蒙の開拓団は、苦労して築いた生活基盤を一瞬にして失う。終戦直前のソ連軍侵攻だ。成年男性は既に軍に動員され大半は老人、女性、子どもだった開拓民は、日本軍に見捨てられた末、集団自決や過酷な長距離逃避行で莫大(ばくだい)な死者を出す。

 そんな中、黒川開拓団の幹部は650人ほどの団員を生き延びさせるためソ連軍の保護を求める道を選ぶ。代償は、将校たちへの性接待だ。2カ月余の間、毎夜輪番で差し出されたのは数え年18歳(満17歳!)以上の未婚女性15人。おぞましい話だが、皆を助けるためには引き受けざるを得ない状況だった。行為に伴う性病や伝染病で4人が亡くなっている。

 ところが帰国後は、村中の差別と偏見が彼女たちを襲う。満州での尊い犠牲的行為は隠蔽(いんぺい)され、息を潜めて生きなければならぬ羽目となるのだ。それでも、泣き寝入りせず勇気を出して証言した女性たちが居たからこそ、少しずつ真相は明らかにされてきた。わたしを含め、この話を既に知っている者も少なくない。

 映画は、改めて詳細に経過を追うとともに、過去を語る老いた女性たちの姿を正面から受け止めていく。語る口調、息づかい、微妙な表情の動きに至るまで克明に映し出せるのが映像の力だ。見る側は、事実を知るだけでなく、過酷な運命の下90年以上生き抜いてきた4人の女性の実像に接することができる。彼女たちの示す存在感そのものが、戦争の悪、平和の尊さを体現しているといえよう。

 決して過去の話で終わらせるわけにはいかない。今の平和な日本でも、テレビ局から大物タレントへ「差し出された」女性がいるではないか。このありさまをどう考えるかは、現在のわたしたちに突きつけられた重い問いでもあるのだ。

(寺脇研・京都芸術大学客員教授)

監督 松原文枝
2025年 日本 ドキュメンタリー
7月12日(土)よりユーロスペース、新宿ピカデリー他全国順次公開中