2025/07/20 信濃毎日新聞朝刊 
戦後80年・終わらない問い(6)=父と子の「満蒙開拓」(6)

 「アーティストの自由な表現への検閲に対し、常に反対を掲げてきた」
 米ニューヨークを拠点に前衛的な作品の収集や支援に取り組む団体「フランクリン・ファーネス・アーカイブ(FF)」のディレクター、ハーレー・スピラーさんは8日、東京都内で開いたトークイベントでこう語った。念頭には文化の多様性を否定する米トランプ政権の姿勢があった。

 FFは1976年、フェミニズムや政治風刺のパフォーマンスで知られるアーティストのマーサ・ウィルソンさんが創設。前衛的で政治や社会への批判を含むアート、中でもその場限りで記録が残りにくいパフォーマンスの収集と保存、制作・発表の場をつくってきた。

 トークイベントはFFの創立50年に合わせて開いた企画展の会場で開催。長野市のパフォーマンスアーティスト霜田誠二さん(72)も参加した。霜田さんは91年に、FFのイベントに出演したことがあり、2人は再会を喜んだ。

 91年のイベントは湾岸戦争の終結後だった。各地で反戦の立場から集会が開かれたこと、イベントは右派政治家の介入で予定していた施設が使えなくなり、近くの教会が会場になったこと、霜田さんが全裸でテーブルの上に乗って体を動かす代表作「オン・ザ・テーブル」を披露したこと…。思い出を語り合った。

 そして、ハーレーさんはトランプ政権下の米国のアートやメディアの現状を踏まえ、「未来の研究やアートに生かすため(FFの)活動を実践し続ける」と強調。終了後の取材には「私たちは隠れない。表現の自由がありますから」と語った。

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 活動を始めて今年で50年となる霜田さん。FFについて、「グラスルーツ(草の根)の民主主義の強さをバックアップして燎原(りょうげん)の火のように広げ、前進させている」とその歩みに共鳴する。

 世界60カ国以上で活動してきた霜田さんは今、多くの海外アーティストに背中を押されたと感じるとともに、父常雄さん(1911~92年)の存在の大きさを改めて感じている。「親の立場からすれば、息子が訳の分からない前衛芸術の道に進み、思うこともあっただろうが、何も言わなかった」。パフォーマンスの映像を常雄さんに見せると「大変そうだな。体、壊すなよ」と一言。帰省するたびに家族写真を撮ると喜んだ。

 戦時中、日本が侵略した満州(現中国東北部)に10代の子どもたちと満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の中隊長として渡り、開拓団長となった常雄さん。戦後、妻子を含む多くの人が命を落とすことになった満蒙開拓の影を追い続け、国策で人々に犠牲を強いた政治や社会、それを支えた組織や個人の振る舞いを鋭く批判した。自身の責任についても考え抜きながら―。

 霜田さんが思い出すのは、組織の腐敗を嫌悪する父の姿だ。教員、県職員を辞し、妻の実家の薬店を継いだ父。「結局、おやじは個人で薬屋をやり、『野の人』となった。一本の筋を通し、自分なりに時代に『落とし前』を付けたんじゃないか」
   ◇
 今月12日、長年通う台湾・台北での霜田さんのワークショップ。参加者は男女20人ほどで若者の姿も目立った。霜田さんは参加者に投げかけた。「自分の創造性を楽しんで、自分だけのユニークな時間をつくってください」
 参加者たちはそれぞれ、顔に糸を強く巻き付けたり、床に寝そべったり、冷蔵庫に入ったり。そして、霜田さんは昭和の歌謡曲を流しながら、顔に赤い塗料を塗る「レッドフェイス」を披露し、最後は自撮り。周りに参加者が集まり、温かい空気に包まれた。

 アジアや欧州、米国…。霜田さんはパフォーマンスアートについて、それぞれの国や地域の異なる価値観を知り合える「自己紹介」のようなものと言う。そして、霜田さんが開くワークショップやフェスティバルは、個々人が自身の問題意識やこだわりと向き合って生み出した生身のアートを互いに持ち寄り、認め合う場だ。

 今、世界で、そして日本でも分断と混乱の光景が広がる。その中にあって、霜田さんは人の生き方そのものでもあるパフォーマンスアートが持つ大きな可能性を信じている。「民衆ができることを粘り強く、諦めずにやり続けるしかない」
   (稲玉千瑛)
   <第1部おわり>

2025/07/19 信濃毎日新聞朝刊 
戦後80年・終わらない問い(5)=父と子の「満蒙開拓」(5)

 陽光にきらめく牧草地が見渡す限り広がり、所々に牛舎が並ぶ。今月10日、北海道東部の酪農の町、別海町の泉川地区には雄大な景色が広がっていた。かつて原生林に覆われていたこの地区で農業法人「ジェイファームシマザキ」を経営する島崎美昭(よしあき)さん(72)は言う。「満州(現中国東北部)に行って捕虜になり、原始の森を開いてここに骨をうずめようと自分たちの『文化』をつくったおやじの姿を思えば、何でもやればできるとエネルギーが湧く」
 美昭さんの父昭七さんは南佐久郡海瀬村(現佐久穂町)出身。戦時中に渡満した満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の成沢(後に霜田)常雄さんが率いた中隊、開拓団の一員だった。1945(昭和20)年の敗戦でソ連軍の捕虜となり、46年に帰国した。泉川に入植したのは48年3月。20歳だった。

 敗戦時、満州には約27万人の開拓移民がいた。引き揚げ者の再入植地の確保、そして戦後の食糧増産も目的に「国策」として、全国各地で開拓が進められた。別海町を含め、気候が寒冷で「日本一困難」とも言われた根釧原野の開拓にも満蒙開拓経験者が投入された。

 農家の三男だった昭七さんは「新天地」を求め、義勇軍の引き揚げ者が対象だった農家委託生に応募。泉川には20歳前後の11人でつくる班で入植した。他に長野県出身者の班などもあり、総勢30人ほどで開拓を始めた。

 75年に刊行した郷土誌「風蓮川源流を拓(ひら)く」では、昭七さんが入植当時の様子を記している。極寒の中で小屋を建て、炭焼きをしながら空腹と戦った。バレイショなどを作付け、甘く香るソバの花が一面に咲けば「満ち足りた思い」に浸った。仲間と兄弟のように喜怒哀楽を分かち合い、義勇軍の教訓が「共同生活の中に生かされていた」とする。

 ただ、現地住民から収奪した土地に入植した満州とは異なり、泉川では、冬には氷点下30度を下回ることもある過酷な環境の中でも、仲間と共に地域を一から築く喜びがあった。美昭さんは言う。「(元義勇軍の)おじさんたちは、軍の指令などではなく自由にやるんだという活気があって、目の輝きが違った」
 郷土誌からは炭焼き、畑作から酪農へと移行しつつ、農業組合や住民組織をつくり、小中学校や保育所の整備、電気の導入、そして文化活動にも力を注ぐ開拓民の様子が伝わる。美昭さんは、酪農業で多忙な中でも組合理事や町内会長として人々をつなぎ、地域づくりに奮闘する父の姿に学んできた。

 美昭さんらの世代はさらに新たな挑戦を続ける。ジェイファームシマザキの牧場面積は約500ヘクタールに及び、乳牛と肉牛を計1100頭飼育。新しい組合で地域ブランドの牛乳販売にも知恵を絞る。先人が築いた礎の上に「地域を発展させ、歴史を守ることが使命だと思っているんです」。

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 常雄さんの開拓団では、敗戦前後の混乱などで子どもを含む63人が犠牲となった。昭七さんは戦時中のことはほとんど語らなかったが、北佐久郡軽井沢町の泉洞(せんとう)寺で、元団員らでつくる「瑞原(みずはら)会」が毎年開いた開拓団の慰霊法要には度々出席した。「教え子」の様子を気に懸けた常雄さんは、随筆で昭七さんと法要で再会したことに触れ、「かつて満州で果たせなかった夢を見事に果たして、前途洋々らしい」と喜んだ。

 美昭さんは「父から長野のことをよく聞いた。ずっと大切にしていた」。昭七さんは2011年に亡くなる。美昭さんらは佐久穂町の生家を訪れ、夕暮れの佐久平を望む畑に父の遺灰の一部をまいた。

 泉洞寺での慰霊法要は1971年に始まった。住職の桜井朝教(ちょうきょう)さん(68)は、昭七さんをはじめ、遠方から訪れる元団員の姿を覚えている。今年6月下旬に寺を訪れた、常雄さんの息子でパフォーマンスアーティストの霜田誠二さん(72)=長野市=とも元団員との思い出を語り合った。

 朝教さんは、先代の住職で団幹部だった父焉哉(えんさい)さんについて「子どもたちを供養することが使命と思ったのだろう」。高齢化などもあり、会の慰霊法要は2012年に終えたが、寺が引き継いだ。会の資料も大切に保管する。朝教さんは父や団員の人生を思い、「慰霊を続けることが供養になる。平和のありがたさをかみしめる場にしたい」。
 

2025/07/18 信濃毎日新聞朝刊
戦後80年・終わらない問い(4)=父と子の「満蒙開拓」(4)

 長野市のパフォーマンスアーティスト霜田誠二さん(72)は1982(昭和57)年6月上旬、父常雄さん、父が団長を務めた開拓団の元団員らとともに、かつて満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の訓練所や入植地があった中国・黒竜江省(旧牡丹江(ぼたんこう)省)の寧安県を訪ねた時、バスの中で見た光景が忘れられない。

 バスが丘を越えると、広大な平原の中に集落が現れた。すると、「大の男たちが一斉に声を上げて泣き出した。おやじのそんな姿も初めて見たので、あぜんとした」。敗戦前後の混乱で多くの犠牲者を出し、消滅した常雄さんらの「第四次東海浪(ひがしはいろう)瑞原義勇隊開拓団」があった村だった。

 同省を含む中国東北部(旧満州)は、日本がかいらい国家「満州国」を建国し、支配した地域。日本人に対する現地住民の反感を考えると、大っぴらに団員の慰霊をするのは難しい。一行は「それでも…」とバスを降り、腰をかがめて線香を立てた。テープで経を流し、満州やシベリアで亡くなった団員63人の冥福を祈った。ここでもみんなが泣いていた。

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 18人の一行は9日間の日程で寧安県のほか北京、ハルビンなどを訪問。72年の日中国交正常化を経て、県日中友好協会の計らいで悲願がかなった。元団員は60歳前後、常雄さんは70歳になっていた。母美恵子さんに頼まれ、28歳だった霜田さんも同行した。

 現地の人々と交流し、行く先々で宴席が設けられた。霜田さんは当時最新の携帯音楽プレーヤーで道中のさまざまな場面を録音。小中学生200人による歓迎会の音声も残る。みんなが赤い旗を振り、歌や太鼓で「怖いくらいの大音量だった」と言う。

 訪問中、一行は自分たちの開拓団を含めた日本の侵略をわびている。寧安県庁を表敬訪問した際、元団員の一人はあいさつで、入植当時について「悪いことをたくさんしてきました」とし、「日中友好を考え、手を取り合って、絶対に戦わない、平和に暮らしていきたいという希望の元で参りました」と述べた。

 ただ、歓迎ムードだけではなかった。開拓団があった村を出発しようとした時、バスを見送る群衆の中で高齢の女性が叫んだ。「リーベンクイズ!(日本の鬼の子)」。早く帰れ―と迫られた。

 その後、北京に戻る列車の中で、元団員たちが口々に軍の横暴さを語り、「日本が勝てばさらに狂気の軍人がのさばっただろう」と話していたことが霜田さんの印象に残っている。帰国後、常雄さんは、満蒙開拓の「犠牲」から学び、「愚行を繰り返さない」ことで「真の日中友好と平和への展望が開けてくるのではなかろうか」と述べている。

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 霜田さんにとって初の海外経験となったこの訪中をきっかけに、世界の舞台へと扉が大きく開かれていく。

 同年12月、パリに飛んだ霜田さんは、むさぼるように舞台作品を鑑賞した。中でもドイツの伝説的な振付家ピナ・バウシュ率いる多国籍の舞踊集団の革新的な作品に衝撃を受ける。「泣けてきた。生きていることに感謝だなと」。その後、毎年3カ月近く西欧でツアーを行うようになり、冷戦崩壊前後の世界の大転換も肌で感じた。

 92年1月、友人となった香港のアーティストを長野市の自宅に招くと、常雄さんは香港の様子について次々に質問を投げかけた。世界を飛び回り、出会いを広げる霜田さんの姿を喜んだ。だが、この年、常雄さんは病に倒れ、80歳でこの世を去る。

 霜田さんが中国で初めてパフォーマンスを披露したのはその7年後。2012年には30年ぶりに父らと訪ねた開拓団跡地周辺を再訪する。新型コロナ禍を経て23年以降も中国各地をツアーで巡った。芸術祭や大学などに頻繁に招かれ、ワークショップも開いている。参加者は各地で意欲的に活動しており、今年5月には、武漢を拠点とする20、30代のグループが信州で公演。霜田さんも出演した。

 自由な表現に制約もある中国で、身一つの「行為芸術」に挑む若者たちの意欲や成長を頼もしく思い、続く交流を楽しみにする。「おやじが生きていたら何て言うだろう」
<東南アジアで知った「日本の立ち位置」 歴史に敏感でなくては>
 世界60カ国以上を巡りパフォーマンスを披露してきた霜田誠二さん。活動の軸の一つが、父常雄さんの死去をきっかけに1993年から始めた「日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(通称ニパフ)」だ。2020年までに長野市や東京都内で計25回開催。アジア各国で開くニパフ・アジアを合わせると、海外から招いた出演者は400人を超える。

 ニパフをきっかけに東南アジアにも人脈を広げていった霜田さん。インドネシアもその一つだが、訪問した際、現地の人から親が日本兵に銃剣で殺された―と詰め寄られた。霜田さんは「(東南アジアに)行くたびに学び、日本の立ち位置が分かった。歴史に敏感でなくてはいけないと思った」と話す。

 全裸になり、机の上で自身の体を目いっぱい動かす代表作「オン・ザ・テーブル」(1990年発表)は東南アジアでも高い評価を受けた。フィリピンのアーティスト、ケイ・オーエックさん(49)は、霜田さんのパフォーマンスについて「人間の肉体の粘り強さを見せる力、生身で観客と瞬時につながる力がある」とする。

 同国ではニパフをモデルにしたイベントが根付く。主催者の一人のケイさんもニパフに招かれ、各国のアーティストから刺激を得た。霜田さんやニパフの存在が同国の多くのアーティストに影響を与え、芸術活動の発展にもつながっているとしている。
 

2025/07/17 中日新聞朝刊
戦後80年 昭和100年 戦争の証言や資料を1冊に 伊那 昨秋の催し中心に収録 ウクライナやガザ関連も
 【長野県】伊那市で昨年9月に開かれた「平和のための信州・戦争展in上伊那」(中日新聞社など後援)での講演や展示内容をまとめた記録集「80年目の証言」が完成した。実行委員長を務めた東京都立大客員教授の宮下与兵衛さん(同市)は「体験を証言できる人がほとんどいなくなっている」として、ウクライナやガザでの武力紛争を踏まえ、「今、あらためて戦争を知って平和について考えてほしい」と呼びかけている。(稲熊美樹)
 記録集には、核兵器廃絶国際キャンペーンICANの国際運営委員川崎哲さんの記念講演や、登戸研究所調査研究会共同代表の小木曽伸一さんによる最新研究の発表、731部隊の元少年隊員清水英男さんの体験などを文字に起こして写真や資料を交えて収録した。

 戦争展で展示した遺品の一覧も写真で収めた。登戸研究所で使われたとされる大型蒸留器や、731部隊の隊長が発明したとされる濾水機の一部、戦時中に上伊那で配布された反戦チラシの実物などを載せた。ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ攻撃、集団的自衛権に関する「安保3文書」、憲法と戦争との関係などの解説もある。

 教え子を戦場に送り出したことを悔やみながら今年1月、102歳で亡くなった三沢豊さんの証言も、過去の講演の記録や手記などをまとめて収めた。

 ある日、三沢さんの教員住宅を1人の教え子が訪ねてきた。父は体が不自由で母は病気がち、兄は工場へ行って妹はまだ小さいという。そんな少年に三沢さんは「満州は日本の生命線である。大和民族の発展を考えたら、君らのような若者がこの重責を負わなくてどうする」「農村更生のためにも君らが新天地に雄飛する以外にない。今満州は君たちを求めている。あの広大な沃野(よくや)は君らを待っている」と得意になって話したと回顧。満蒙開拓青少年義勇軍へと送り出した。戦後、その子は帰らず、墓石が建てられたという。

 三沢さんは体調を崩し、戦争展での講演はかなわなかったが、事務局が講演直前に聞き取った話として「今、世界中で戦火が絶えず、わが国にも平和憲法を書き換え、戦争をする国づくりを進めようとする動きがありますが、戦争は駄目です。たとえどんなことがあっても食い止めなければいけない」と話していたと記されている。

 記録集はB5判150ページで、カラー印刷。1冊880円で市内の書店で販売している。送料込み千円で発送も可能。

 (問)事務局の戸田義美さん=090(1867)3974

2025/07/18 岩手日報朝刊

 戦争を体験した人々の高齢化とともに、戦後生まれの世代による継承が大きな課題になっている。当時の悲惨さを知る祖父母や両親がいる今の70~50代の人たちにも、戦争の重い現実を次代につなぐ役割が求められる。

 「こんな父のことを本当は話したくはありませんでした。でも話すことも必要とも思い、投稿いたしました」(神奈川県・66歳)。これは雑誌「通販生活」が、7・8月号で特集した「語り継ぐ 親たちの戦争体験」の1編だ。父が戦後も軍国主義を懐かしんでいたことを、批判的に記している。

 同誌の手記募集に146通が寄せられた。掲載された30編には、戦時を生きた親の話のほか、戦後、軍隊式の体罰を子どもに加えていた父への複雑な思いや、教え子を戦地に送った元教員の祖父が自らを生涯責め続けた姿などがつづられている。

 出版元のカタログハウス読み物編集長の釜池雄高さんは「投稿した方たちが子ども、孫世代だからこそ、そしてある程度の時間がたったから書けたのではないでしょうか。戦争だけは二度と駄目だという戦後80年間の思いをなくさないために、体験を語り継ぐことが大事です」と話す。

 国策で日本から旧満州に渡った農業移民団「満蒙開拓団」の歴史を語り継ぐ、満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)館長の寺沢秀文さん(71)の父は開拓団員だった。

 団員たちの体験は「加害と被害が入り交じった、あまりにも過酷なもの」と寺沢さんは言う。「開拓団の人たちの苦労や悲しみも理解し、当事者間ではタブーとされるようなつらい記憶にも触れられるのは私たち戦後世代です。戦争の悲惨さ、平穏な日常の大切さを考えるために伝えていきたい」。同館は今年、開拓団員の子らをゲストにさまざまな視点で歴史を語る取り組みも始めた。

 東京都国立市は市内に住む広島、長崎の原爆被爆者と東京大空襲の体験者の話を聞き取って語り継ぐ伝承者を、2015年から育成している。25年度は21人が活動しており、80~50代が3分の2を占める。

 「体験者の語りに勝るものはないと思いますが、丁寧に聞き取った伝承者の客観的な講話は分かりやすいという声が多く寄せられます」(国立市市長室長の吉田徳史さん)。広島市、長崎市でも被爆者の家族による語りが続けられている。

 戦闘や空襲など戦時中の記憶だけでなく、心身に深い傷を負った祖父母や両親が戦後をどう生きたかを子ども、孫世代が語り、書き残せば、戦争の傷痕を記録することになるだろう。役割は大きい。