2025/07/17 信濃毎日新聞朝刊
戦後80年・終わらない問い(3)=父と子の「満蒙開拓」(3)
睡眠薬を飲んで眠る女性や子どもたち。拳銃を持った男性が一人ずつ頭に白い布をかけては引き金を引く。そして、最後に自身のこめかみに銃口を当てた―。戦時中、満州(現中国東北部)の牡丹江(ぼたんこう)省(現黒竜江省)へ入植した第四次東海浪(ひがしはいろう)瑞原義勇隊開拓団は1945(昭和20)年8月19日、「集団自決」に至る。生存者らの証言で、当時の状況が明らかになったのは戦後20年ほどたってからだ。
約300人いた団員は当時、農作業を手伝う勤労奉仕隊の女性、団幹部の家族ら30人余に。団長の成沢(後に霜田)常雄さんを含め、男性の多くは軍に召集されていた。同9日のソ連軍侵攻で大混乱に陥り、避難の途中だった団員たちは同15日、満州国軍の反乱兵に襲われる。約20人が射殺され、その中に常雄さんの妻柳子さんもいたという。
残った十数人も包囲され、自決に及んだ。団の看護婦は幼子に口移しで睡眠薬を飲ませ、自身も眠りに就いた。幼子は常雄さんの1歳半の息子光博ちゃんとみられる。
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シベリア抑留を経て47年7月に帰国した常雄さんは翌月、元団員らを集め三回忌法要を営んだ。48年4月には下伊那郡龍江村(現飯田市)に向かい、満州で全滅した団員一家の墓前にぬかずいた。7本の卒塔婆を見て言葉を失った。後に「私の心は鉛をのんだようだった」と記している。常雄さんが45年2月に一時帰国した際、渡満は「早いほうがよい」と勧めていた。敗戦3カ月前の5月、この一家や、勤労奉仕隊の15人を団に迎えた。「結果的に死ななくともすんだ人を、死なせてしまった」
常雄さんは長野市で教員をした後、県開拓課に8年間勤務し、引き揚げ者の再入植のあっせんに奔走。霜田美恵子さんとの再婚後に退職し、56年、同市にあった美恵子さんの実家の薬店を継ぐ。元開拓団員らでつくる県開拓自興会の副会長も務め、引き揚げ者への支援充実などを国に求める活動を続けた。その中で、国の役人から、自由意思で満州に行ったのではないか―と言われた。国策の犠牲になったのに「『棄民』の形で終わらせてしまってよいのか」と怒りを強めた。
73年、常雄さんの元に手紙が届く。集団自決で亡くなった団の看護婦の母親からだった。娘の弔慰金を国に申請したが、戸籍上「病死」となっており、手続きができないとの内容だった。常雄さんは証言者らの協力を得て、3年がかりで自決での死を立証し、戸籍の訂正を実現した。
戦闘や自決で命を落とした人と、それ以外の犠牲者との間でさえ処遇に差をつける「国の冷淡さ」に常雄さんは憤る。満州や戦争関係の書物を読みあさり、自身の体験に照らして、満蒙(まんもう)開拓を推進した国や県、開拓民を見捨てた軍の責任を問う文章を執筆。多くの書籍を自費出版した。息子でパフォーマンスアーティストの霜田誠二さん(72)=長野市=は書籍の発送作業を手伝ったといい、「(責任追及への)執念を感じた」と話す。
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霜田さんは80年代、中国残留孤児が帰国する場面がテレビで流れるたびに見入っていた父の姿を思い出す。「光博ちゃんが生きていると信じたい気持ちがあったのではないか」。消えない悲しみの一方、常雄さんはこの頃に書いた随筆で、自分たちが被害者になったのは、加害者だったためではないか―と気付くまでに「相当の時間がかかった」と顧みた。入植地を強制的に安く買収し、住民が泣きながら承諾書に印鑑を押す姿を見たことも書き残している。
犠牲者遺族にある、被害と加害の意識が入り組んだ心情についても記した。被害の痛みや憤りが先行したとしても、当時の時代背景を掘り下げることで侵略への反省や不戦の誓いへと思い至る―。「私はその順序と過程を大事にしたい」。当事者であればこそ、被害の悲しみと加害への反省という「単純には割り切れない悩みを追って、一生を終わるのではなかろうか」。
<県とともに送出をけん引 信濃教育会の責任にも言及>
元教員で、満蒙開拓青少年義勇軍の中隊長として渡満した成沢(後に霜田)常雄さんは戦後、義勇軍の内実や、県内から都道府県別で全国最多の約6600人が送り出された背景などについて考えを深めた。県とともに送出をけん引した信濃教育会の責任についても言及している。
1967(昭和42)年刊行の開拓団誌で常雄さんは、義勇軍の役割は陸軍の支援で、教育が困難だったことや、戦後の引き揚げ者支援が不十分な点などを指摘。序文を依頼された信濃教育会の松岡弘会長(当時)は、義勇軍送出には同会も「特別なる協力をした」と認め、常雄さんの批判などについて「示唆を受けることが多い」と記した。
常雄さんは随筆などで、国策に沿って満蒙開拓を推進する構造が生まれた要因の一つには国家権力に弱い県や同会の体質があったとの見方を示し、「会の反省」を含めた「義勇軍送出史」を作るべきだと訴えている。
75年の文芸誌「信州白樺」への寄稿では同会の戦後対応の姿勢を批判した上で、こう記した。「あやまちは二度とくりかえしてはならない。違う衣を着て現れるかも知れないが、それを見抜くためには、過去の事実を冷厳な目で掘(ほり)下げて行く必要がある」
2025/07/16 信濃毎日新聞朝刊
戦後80年・終わらない問い(2)=父と子の「満蒙開拓」(2)
「君の生前に於(お)ける生活は真摯(しんし)努力の四字―」。
広大な満州(現中国東北部)の牡丹江(ぼたんこう)省(現黒竜江省)にあった満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍寧安(ねいあん)訓練所で1942(昭和17)年7月29日、病死した隊員の告別式が開かれた。棺(ひつぎ)の前で弔辞を読んだのは、この隊員が所属した第三中隊長の成沢(後に霜田)常雄さん。隊の指導員で僧侶の桜井焉哉(えんさい)さんが読経した。
亡くなった隊員は西筑摩郡(現木曽郡)開田村出身の森田節夫さん=当時(16)。腹膜炎などで衰弱し、同年7月27日夜、息を引き取った。告別式では、隊の仲間たちが花輪をささげ、敬礼で見送った。
「朝に夕に君の枕辺に全快を祈りつゝ看護したるも其の甲斐なく」「痛惜何ぞ堪へんや」。常雄さんの弔辞が書かれた紙は長さ約2メートルに及ぶ。数年前、森田さんの実家で保管されていた森田さんの日記とともに見つかった。常雄さんが両親に宛てた多くの手紙や、森田さんの容体を逐一知らせる電報も残っていた。
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常雄さんは11(明治44)年、北佐久郡南御牧村(現佐久市浅科)に生まれた。旧制野沢中学(現野沢北高)を卒業し、県師範学校へ進んだ。昭和恐慌による農村の疲弊が極まっていた31(昭和6)年、小県郡の小学校に赴任。松代、下諏訪の学校でも勤務した。アララギ派の歌人島木赤彦に影響を受け、作歌も始めた。
38年に第一次の義勇軍の募集が始まった。教員としての向上心から「開拓にわが生涯を捧(ささ)げてみよう」と「猪突(ちょとつ)猛進」したという常雄さんは41年の第四次義勇軍の幹部に志願した。29歳だった。
茨城県の訓練所で隊員と合流。渡満前の6月に常雄さんと隊員らは松本市を訪問し、県主催の壮行会に臨んだ。会について伝える信濃毎日新聞の記事には、人垣の中を進む市中行進の様子や、「立派に皇国の生命線を築き上げる決心だ」との隊員の言葉が載っている。
その翌日、常雄さんは隊員の保護者らに向かってこう宣言した。「全責任をもって皆様方の御子弟をお預りし、現地へ行きましては立派に訓練し、理想的の開拓団を建設する覚悟でございますから、一切を私たちにお任せ下さい」
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常雄さんは満州で「人間味豊かな開拓者を育てる」とし、教育者として隊員と向き合った。信濃教育会刊行の「信濃教育」41年12月号への寄稿では、雨風の中での軍事訓練や、農事訓練の成績が良かったことの他、多感な少年たちの「不良化」と「病死」を防ぐことを念頭に、娯楽や行事を大切にしていることを報告。生徒が運営する演芸会は趣向が凝らされ「目覚(ざま)しい進歩振りです」と記した。
一方、陸軍部隊で「奉仕作業」をしたことを心配する保護者の声に対しては、「御安心願ひたい」と伝えている。
常雄さんらの隊はその後、義勇隊開拓団として、寧安訓練所北側の東海浪(ひがしはいろう)に入植。敗戦間際には、団長だった常雄さんを含む多くの団員が「根こそぎ動員」された。
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2年近いシベリア抑留を経て常雄さんは47年7月、信州に戻った。栄養失調でやせ細っていた。そしてその日、妻子や多くの団員が命を落としたと知らされる。「頭を金槌(かなづち)でガーンとなぐられた思いだった」。全責任をもって少年たちを預かる―とした渡満前の宣言。「この言葉にそむくようなことが多くあって恥じ入る思い」と後に記した。この時の「悲憤」が常雄さんの戦後の「原点」となる。
常雄さんの息子でパフォーマンスアーティストの霜田誠二さん(72)=長野市=は、教育者として父が背負った責任の重さと、満州での経験の濃密さを想像する。「5年ほどの経験がその後の長い人生を決定づけた。人間とはそういうものなんだと思います」
<軍隊式の訓練所生活 楽しみはレコード鑑賞会や手紙>
政府は日中戦争開始翌年の1938(昭和13)年から、満州での農業経営やソ連に対する警備の補助を担う満蒙開拓青少年義勇軍の隊員として、14~18歳の少年を募集。茨城県の内原訓練所と渡満後の訓練を経て義勇隊開拓団として入植させた。約8万6千人のうち、長野県内からは都道府県別で最多の約6600人を送出。敗戦間際のソ連軍侵攻や逃避行、シベリア抑留で多くの犠牲者を出した。
成沢常雄さんが率いた中隊は、松本市や東筑摩、小県、南佐久の各郡など2市5郡出身の約260人で41年に結成し、寧安訓練所に入所した。一日は起床ラッパと神社での礼拝で始まり、軍事訓練のほか、農事訓練として大豆や野菜を作り、牛馬の世話をした。座学もあり、常雄さんが修身や歴史を教えた。
軍隊式の厳しい規律に基づいて生活し、教育勅語の奉読もあった。一方で、隊員はレコード鑑賞会や肉親に手紙を書く日などの行事を楽しみにしていたという。森田節夫さんの日記には、常雄さんの「迷うな」という教えや「行軍」で遠出した思い出、「中隊長先生」の時局講話についての記述が多く残る。
2025/07/16 信濃毎日新聞
1945→2025・戦後80年
須坂市は8月2日、戦時中に地元から満州(現中国東北部)に渡った「珠山(しゅざん)上高井開拓団」について、2人の体験者から話を聞く講座を市生涯学習センターで開く。戦後80年に合わせ企画。「上高井の満蒙開拓から~戦争体験を次世代につなぐ」と題し、開拓団の生活や壮絶な逃避行について語る。
家族と4歳で渡満した金井義和さん(86)=須坂市須坂=と、農繁期に開拓団を手伝う「勤労奉仕隊」として14歳で満州に渡った牧よし子さん(95)=同=が講演。1945(昭和20)年8月9日のソ連軍侵攻を受け、逃避行が始まった。同開拓団は途中で中国人から襲撃されたり、食料不足に苦し んだりした。金井さんは栄養失調で2人の妹を亡くし、牧さんは勤労奉仕隊の仲間が中国残留婦人になったり、病死したりした。
市生涯学習推進課は「体験者の話を直接聞ける貴重な機会。中学生や高校生も参加してほしい」。午後2時から。申し込み不要。入場無料。問い合わせは同課(026・245・1598)へ。
2025/07/16 信濃毎日新聞
1945→2025・戦後80年
須坂市は8月2日、戦時中に地元から満州(現中国東北部)に渡った「珠山上高井開拓団」について、2人の体験者から話を聞く講座を市生涯学習センターで開く。戦後80年に合わせ企画。「上高井の満蒙開拓から~戦争体験を次世代につなぐ」と題し、開拓団の生活や壮絶な逃避行について語る。
家族と4歳で渡満した金井義和さん(86)=須坂市須坂=と、農繁期に開拓団を手伝う「勤労奉仕隊」として14歳で満州に渡った牧よし子さん(95)=同=が講演。1945(昭和20)年8月9日のソ連軍侵攻を受け、逃避行が始まった。同開拓団は途中で中国人から襲撃されたり、食料不足に苦しんだりした。金井さんは栄養失調で2人の妹を亡くし、牧さんは勤労奉仕隊の仲間が中国残留婦人になったり、病死したりした。
市生涯学習推進課は「体験者の話を直接聞ける貴重な機会。中学生や高校生も参加してほしい」。午後2時から。申し込み不要。入場無料。問い合わせは同課(?026・245・1598)へ。
2025/07/16 朝日新聞/長野県
「映画で観る 戦後80年特集」が7、8月に長野市の長野相生座・ロキシーで催される。新作や県ゆかりのものなど全12作品を上映。担当者は「世界で戦火が絶えない今だからこそ、映画を通じて戦争と平和を見つめる機会になれば」と話す。
新作「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界」(24日まで)が特集の皮切りになる。ナチスの非道など戦争の実相にカメラを向けた、モデルから従軍写真家に転身した女性の人生を描いた実話だ。
新作はほかに、沖縄戦の激戦地、伊江島で生き抜いた元日本兵の実話に基づく「木の上の軍隊」(25日公開)▽広島を舞台にした「惑星ラブソング」(18~31日)▽戦争と性暴力に迫る「黒川の女たち」(8月1~14日)。核戦争の脅威を描いた英国制作アニメの日本語吹き替え版「風が吹くとき」(8月8~14日)は同館初上映だ。
県関連では、「大日向村の46年 満州移民・その後の人々」(18~24日)が昨年に続く上映。村を二分し、国策の満蒙開拓団として送り出された人々へのインタビューなど2部構成・計155分のドキュメンタリーだ。19日は山本常夫監督らによる対談もある。
「原田要 平和への祈り」は、真珠湾攻撃に加わり、99歳で亡くなるまで平和の尊さを講演会などで訴えた長野市の元零戦パイロットを追った作品。上映日の8月11日は宮尾哲雄監督らが登壇する。
ほかの上映作品は「War Bride 91歳の戦争花嫁」(25~31日)、「蟻の兵隊」(8月1~7日)、「野火 Fires on the Plain」(8月8、10、13日)、「ほかげ」(8月9、12、14日)、「東京裁判」(8月15~21日)。「黒川の女たち」と「War Bride」、「蟻の兵隊」、「惑星ラブソング」も監督の舞台あいさつなどを予定している。
同館は毎年この時期、戦争関連の2、3作品を上映。戦後75年時は5作品だったが、今回は12作品と倍以上に増やした。劇場フロアマネジャーの高橋恵里子さんは「戦争体験者ら語り手が少なくなるなかで、貴重な証言を収めたドキュメンタリーなど、『今見なくていつ見るんだ』との思いで企画しました」。
問い合わせは長野相生座・ロキシー(026・232・3016)。(北沢祐生)