2025/07/13 共同通信ニュース

 満蒙開拓の歴史を語り継ごうとする人々を追った信越放送(長野市)のドキュメンタリー番組の上映会が13日、東京都千代田区で開かれた。上映後、出演した精神科医で劇作家の胡桃沢伸さん(58)が講演し、満蒙開拓には加害と被害の両面があるとして「侵略した人の側に立って、責任を共に背負う態度でなければならない」と話した。

 番組名は「あなたのいない村~満蒙開拓を語り継ぐ~」。旧満州(現中国東北部)の歴史を伝える市民団体「方正友好交流の会」(同区)が主催し、オンラインを含め約140人が参加した。番組には胡桃沢さんの他、語り部の活動を続けた男性や、開拓の朗読劇を企画運営した長野県阿智村の職員らが登場する。

 胡桃沢さんの祖父は、同県河野村(現豊丘村)の村長として村民を旧満州に送り込んだという。胡桃沢さんは番組で紹介された朗読劇の脚本も担当しており「祖父のやったことから目を背けることはできなかった」と話した。

2025/07/13 中日新聞朝刊 
 
戦後80年 昭和100年 
 愛知県で唯一編成された満蒙開拓団「東三河郷開拓団」を広く知ってもらおうと、名古屋市在住の舞台俳優、菅谷瑞恵さん(51)が「声」で記憶を語り継いでいる。各地の開拓団の手記を朗読してウェブで公開する中、東三河郷開拓団の体験も読み上げてきた。15日には同開拓団の手記を読む公演を名古屋市内で開催。「かつて、身近にあった満州との関わりを知るきっかけとなれば」と思いを語る。(宮崎正嗣)
 <毎日のように死者が出た。病人たちの顔は青白く、「日本へ帰りたい。死にたくない」と涙ぐみながら、かすかな声で訴えながら死んでいった>
 <民衆は、私を包囲して、「たたき殺せ」「耳をそげ」「鼻をそげ」「銃殺するのが当然だ」と罵声を浴びせた>
 ウェブに公開されている菅谷さんの声。読んでいるのは東三河郷開拓団の手記だ。戦前戦中に旧満州(現在の中国東北部)へ渡り、終戦後は旧ソ連の侵攻で多くの犠牲者が出た開拓団。ソ連軍による銃撃や荷物の強奪、逃避行中での飢えや家族の死、取り残された子どもたちや老人-。過酷な体験を淡々と読み上げる。

 菅谷さんは5年前、一人で「満蒙開拓を語り継ぐ 手記朗読プロジェクト」を開始。毎週月曜日に休むことなく動画サイトで公開してきた音声は、これまで260本以上に上る。

 このうち、東三河郷開拓団の手記は24本。愛知県史などによると、同開拓団は1939年2月以降、愛知県新城市や東栄町、設楽町から146世帯549人が、中国東北部の黒竜江省甘南県に入植した。ソ連軍の捕虜になるのを恐れ、集団自決を選択する開拓団も多かった中、東三河郷は「無抵抗主義」を貫いたと伝わる。

 多くの開拓団を送り出してきた長野県や岐阜県に比べると愛知の開拓団はほとんど知られていない。それでも菅谷さんは生存者に話を聞いたり、慰霊祭に参加したりするなど、関係者とつながってきた。「愛知県で活動している以上、自分も東三河郷開拓団の歴史を学び、発信しなくてはいけないと思った」と話す。

 劇作家の菊本健郎さん(1949~2020年)が主宰する劇団「NEO企画」で活動している時に、満蒙開拓団の存在を知ったという菅谷さん。開拓団には、現地に住んでいた人から農地を安価に収用したという加害と、ソ連の侵攻を受け悲劇に見舞われた被害という二つの面があり「どちらも背負わないといけない以上、冷静に見つめるべきだと感じている」と話す。

 最近は動画を知った人が、朗読用の文章づくりの手伝いにも来るようになり、活動の広がりにも手応えを感じる。「遠い未来、誰かが朗読を聞いたとき、その人の視点で当時起きたことの意味を考えてほしい」
 ◇ 
 東三河郷開拓団の手記を朗読する催しは、15日午後2時から、名古屋市昭和区の昭和文化小劇場で開催。ピアノの即興演奏とダンスパフォーマンスに合わせて手記4編を朗読する。問い合わせは菊本健郎脚本「望郷」を上演する会=メールkikumototakeobokyo@gmail.com=へ。

 (メモ)
 満蒙開拓団 満州国に送り出された農業移民。国策となった1936年以降、全国から約27万人が渡り、中でも長野県出身者は約3万3千人と、全国で最も多かった。45年8月の敗戦で満州国が消滅し、開拓団は現地住民の襲撃のほか集団自決や感染症、栄養失調などで約8万人が亡くなった。戦後も帰国できない残留邦人の問題が残った。

 

2025/07/12 茨城新聞朝刊

■満蒙義勇軍の実像描く 水戸で来月展覧会 「何か感じて」
 戦前戦中に10代の若者が旧満州(中国)に開拓民として送り出された「満蒙開拓青少年義勇軍」。終戦間際のソ連軍侵攻などで、一説には2万人以上が命を落としたとされる。その国内唯一の訓練所が当時、水戸市内原町にあった。戦後80年の今年、元義勇軍の祖父を持つ東京都内の画家(39)が、内原を訪ねたのをきっかけに、被害者と加害者の側面を持つ義勇軍や戦争の不条理を描いた。8月には内原で展覧会があり「何かを感じて」と話す。

 画家は、新進気鋭の弓指(ゆみさし)寛治さん。亡き祖父は三重県出身で、義勇軍として満州に渡り、満州鉄道でレールを敷く作業に従事した。敗戦後は中国人の奇術師の親方に拾われ、各地を転々として日本へ戻った。

 祖父は「もう一度満州に行きたい」とよく話していた。手向けとして、当時の満州鉄道の特急列車「あじあ号」に乗って満州に着いた祖父の姿を描いた。

 この絵が、弓指さんを内原へといざなった。絵を見た評論家から、「満蒙開拓の父」と呼ばれた訓練所長の加藤完治について教わり、より深く義勇軍を知ろうと内原へ向かった。

 市内原郷土史義勇軍資料館を訪れたほか、関連施設を探索。その中で、日本農業実践学園(同所)の籾山旭太学園長と出会った。

 同学園の前身の学校は加藤が創設し、義勇軍とのつながりは深い。籾山学園長の案内で、周辺に残る遺構などを回った。家にも泊めてもらい、代わりに農作業を手伝うなど交流を深め「内原で農業を学んだ祖父と自分が重なった」。

 実像に迫りたいという思いをさらに強くし、加藤に教わった学園の教員や仙台市にいる加藤の弟子、長野県内の資料館なども訪問。義勇軍の抱える複雑さを感じ取っていった。

 不足する農地を外国に求めた国や農業関係者の考え、陸軍の大陸進出への思惑、奪った土地を開拓する加害性、敗戦後に満州に取り残された人々の悲惨な体験-。さまざまな事情が絡み合い、人によって義勇軍への感情はさまざまであることを認識したという。

 深めた見識を基に、義勇軍に関する作品を描いてきた。市内原郷土史義勇軍資料館から展覧会の打診があり、新作も含め、8月1日からの展示に向けて準備を進めている。

 新作には、三重県の義勇軍関係者の記念誌で知った「市川りきみ」さんの体験を反映させた。市川さんは、満州の訓練所を抜け出て現地の飯店を手伝ったり、アヘン窟で女主人らと仲良くなったりするなど「不良少年」だったが、最終的に兵隊となっていく。この姿を通して、義勇軍と戦争の不条理を表現した。

 弓指さんは「何かを感じ、考え、持ち帰ってもらえる機会にしたい」と力を込める。(木村優斗)
【写真説明】
義勇軍と戦争を絵で表現する弓指寛治さん=水戸市内

2025/07/11 朝日新聞

 戦後80年を迎えるこの夏、人間の尊厳を傷つけられた痛みを今に至るまで抱え続ける人がいることを松原文枝監督のドキュメンタリーは追う。

 1945年8月9日、旧満州へのソ連軍侵攻を受け、関東軍は逃亡。当時の資料としてソ連軍による満蒙開拓団の調査資料が出てくるが、出身県、団の名と住民数が正確に記され、事前に備えていたことがわかる。

 本作の主な被写体である佐藤ハルエさんがいた岐阜県からの黒川開拓団も敗戦を受け、現地の人たちの襲来を恐れる。大人たちはソ連兵に護衛を頼み、見返りとして数えで18歳以上の未婚の女性15人をソ連兵の元へ送り出した。

 ハルエさんの証言は細に渡り、「接待」という行為の内容を理解せぬまま、ソ連兵の相手を強いられた絶望と悲嘆が明かされる。そもそも移住は村のトップが推し進めた政策で、ハルエさんをはじめ女性たちは自己決定をする機会をはなから奪われていた。誰がどういう経緯で15人を選んだのかもよくわからない。

 帰国後、女性たちは中傷と偏見に見舞われる。本事件は先行研究として「ソ連兵へ差し出された娘たち」(集英社)や「告白 岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録」(かもがわ出版)があるが、今作はその後の経過として、先の世代の過ちを碑文として残すまでの遺族会の活動と声を上げたい女性の悔しさを間近で見ていた子、孫世代の証言を取った功績が大きい。「なかったことにはできない」との意思が通ったことで彼女たちの尊厳は回復し、歴史の証言者としての誇りが実名での登場へと繋(つな)がった。この矜持(きょうじ)を忘れてはならない。(金原由佳・映画ジャーナリスト)
 ◇東京、大阪などで12日公開。順次各地で
 

2025/07/08 埼玉新聞
 戦争で犠牲となった子どもたちを慰霊する「ともちゃん地蔵」は、さいたま市岩槻区慈恩寺の玄奘塔(げんじょうとう)のそばに、ひっそりとたたずんでいる。建立から四半世紀近くが経過。風化への懸念と悲惨な戦争を次代に伝えていこうと、地元の関係者が昨年、「いわつき ともちゃんの会」を立ち上げて勉強会を主催し、継承活動を行っている。

 ともちゃん地蔵は、中国残留婦人の村上米子さんが2001年2月に建立した。終戦直後、中国東北地方(旧満州)の難民収容所で犠牲となった3歳の男の子を題材にした絵本「ともちゃんのおへそ」(増田昭一原作・夢工房)。絵本を読んだ村上さんが「戦争は二度と起きてほしくないし、起こしてはいけない」との思いから、米寿のお祝いとしてためていた私費を充てた。

 村上さんは戦前、旧日本軍に帯同した夫を追って旧満州に渡る。終戦間際の旧ソ連軍による侵攻で、山から山に逃避行した。男は軍隊に召集され、ほとんどが女と子どもだった。日本への帰国はかなわず現地で結婚。日中国交正常化から7年後の1979年、ようやく日本に帰国した。

 当初は国からの支援がなく、大変な苦労を重ねたという。旧岩槻市に居住してからは、帰国者の互助組織「紅梅の会」を立ち上げた。中国残留孤児らの身元引受人となり、日本語教室を開くなどして長く支援を続ける。2004年9月、91歳で死去した。

 村上さんはともちゃん地蔵の建立当時、「若い人は悲しい物語として涙をこぼすが、昔の話でおとぎ話のように感じている」と語っていた。時代は20年以上が進み、戦争を知る人は少なくなっている。

 風化を危惧した地元の中国残留孤児関係者や有志が同会を立ち上げ、昨年12月に第1回の勉強会を開催。今月5日には第3回が開かれた。「ともちゃんのおへそ」が朗読され、同会の新井治さん(75)=岩槻区=がともちゃん地蔵の由来を説明。首都圏中国帰国者支援・交流センターの協力を得て、中国残留孤児の体験を伝える戦後世代の語り部による講話も行われた。

 勉強会に初めて参加した伊藤澄夫さん(81)=岩槻区=は、生前の村上さんと交流があった。「立派な人で言葉遣いが丁寧だった」と振り返りながら、「戦争はしてはいけない。軍拡をして戦争がなくなるはずがない」と語った。

 同会の新井さんは、防衛費の増額議論や沖縄の基地問題などを念頭に、今を「戦中」と感じているという。日本の戦争と重ねて、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルのパレスチナ・ガザ地区への無差別攻撃を挙げ、「ともちゃん地蔵は戦争の悲惨さを伝えている。戦争を起こさせないために活動していきたい」と話していた。

【ともちゃん地蔵】 さいたま市岩槻区慈恩寺の玄奘塔の敷地内に建立されている。村上米子さんによる銘文には、絵本を引用して「お母さんに会いたい時は おへそを見なさい きっとお母さんの顔が 見えるでしょう」と記されている。母親を亡くし孤児となったともちゃんは、多くの孤児たちと共に飢えと寒さのため、戦争の犠牲となる。「身体をくの字に曲げて おへそを眺めながら 死んでいきました」「二度とこんな悲しみを 子供達に 負わせないでください」。村上さんの願いが銘文に刻まれている。

絵本「ともちゃんのおへそ」の朗読が行われた勉強会=5日、さいたま市岩槻区東岩槻のふれあいプラザいわつき

玄奘塔の敷地内に建立された「ともちゃん地蔵」=さいたま市岩槻区慈恩寺