2025/07/08 北海道新聞朝刊地方(札幌市内)

 元北海道開発局職員の高尾英男さん(82)=札幌市厚別区=が著書「北海道人たちの満州開拓」を北海道協同組合通信社から出版した。旧満州(現中国東北地方)の農業事情を北海道の農法と絡めて描いた。戦前戦中の大陸侵略の反省を踏まえ、「現地の人に受け入れられる技術協力こそ国際協力」と強調する。

 第1~8話で構成。1932年(昭和7年)からの開拓民移住、満蒙開拓青少年義勇軍の育成、現地の在来農法からプラウで耕す有畜農業の北海道農法へ転換したことを詳述した。ただ、同農法の本格化は41年と遅く、「農具、役畜は不足、農業改良普及員など技術支援策が整うことなく終戦に。(中略)急ごしらえの政策」と指摘した。

 北海道大、学校法人八紘学園、酪農学園大の関係者のほか、開拓団の集団自決「麻山(まさん)事件」に遭遇した道内出身者も紹介。戦後の中国で稲作技術を伝えた原正市さんらの足跡も記した。

 高尾さんは空知管内浦臼町出身。石狩川の水害で離農し、23歳で開発局に入った。農業技術や歴史に関心があり、70歳で共著「北の大地に挑む農業教育の軌跡」を出版。その際、多くの道内関係者が旧満州に渡っていたことを知り、2年前にまとめ、出版にこぎ着けた。新著は4月に出版され、高尾さんは「終戦時の移民者の末路は悲惨。本来は平和産業である農業の国際化の失敗とも言える」と振り返る。

 A5判164ページ、2750円。問い合わせは同社、電話011・209・1003へ。(鈴木雅人)

【写真説明】著書「北海道人たちの満州開拓」を手にする高尾さん
 

2025/07/08 共同通信ニュース  

 太平洋戦争では、「満蒙開拓青少年義勇軍」として少年までが開拓のため、満州(現中国東北部)に送り出された。水戸市にあった訓練所に14歳で入った長野県飯田市の田中稲男さん(98)は「お国のためになると、迷いはなかった」と振り返る。満蒙開拓団は土地を安く買いたたいて反感を持たれ、ソ連侵攻後は襲撃を受けるなどしたが、田中さんは厳しい環境の中、現地の人に助けられた。「お礼がしたい」と今でも思う。

 訓練所があった水戸市内原町。JR水戸駅から西に約10キロの住宅街に碑が残る。1938~45年、ここで農事や武道、軍事の訓練を2~3カ月受け、約8万6千人が満州に渡り、うち約2万4千人が亡くなったとされる。

 田中さんは尋常高等小学校高等科の担任に満州は平和と言われ、広大な土地に憧れた。軍需工場で働くか満州かの2択。両親の反対もなく、満州行きを決めた。

 訓練所に行く前、先生にメダルを着けてもらった。「あこがれの的。偉くなった気がした」。壮行会も開かれ、出征兵士と同様の見送りが「誇らしかった」という。

 訓練所では特殊技能習得生としてみそを造った。体操、整列などの訓練は「軍隊みたい」。つらさや寂しさで、夜中に抜け出す人もいた。

 「腐ったような嫌なにおいがした」。満州に渡った時のことはよく覚えている。外で用を足す環境。「いよいよここでやるんだ」という気持ちが芽生えたが、ノミ、シラミ、冬の厳しい寒さに苦しんだ。生水は飲めず、夜はオオカミの鳴き声におびえた。

 開拓の繁忙期には現地の人を雇うこともあったが、対等に付き合っていた。「言葉は自然と覚えた。彼らとは友だちになったんだ」
 45年8月9日、ソ連が満州に侵攻し、義勇軍も徴兵された。病気だった田中さんは徴兵されず、仲間と現地の人の家に分散して住んだ。「彼らは自分を大事にしてくれた。世話になった人のところに行って、何とかお礼がしたい」と話す。

 田中さんは自宅から40キロほど離れた長野県伊那市の公園にある義勇軍の慰霊碑に、年に一度は足を運び、献花や掃除をする。「同じ釜の飯を食べた仲間。放り出すわけにはいかない」

【写真・図表説明】「お国のため、迷いなく」、満州に渡った青少年義勇軍


 満蒙開拓青少年義勇軍だった自身の体験を語る田中稲男さん=6月、長野県飯田市

2025/07/07 南日本新聞朝刊 
 友好的な日中関係に期待

 鹿児島市の県営住宅に住む中国残留孤児、高橋達雄さん(83)の次女良恵さん(55)は、中国の遼寧省で暮らしていた子どもの頃、父がいつも手紙を書いていたのを覚えている。宛先は日本の旧厚生省。1978年から91年まで、高橋さんは帰国を求めて何度も何度も手紙を書いた。

 中国で生き別れた母と80年に河北省で再会し、高橋さんの身元は判明した。しかし、日本にいる親族の協力が得られず、訪日調査団への参加も取り消された。日本政府からはいつも「待ってください」というむなしい返事が届いた。

 89年にようやく帰国を許された。ところが今度は22歳だった長女だけ帰国できないという。「中国に娘を1人残し、孤児だった自分と同じ思いは絶対にさせたくない」と交渉を続け、2年後に一家6人で帰国を果たした。中国の養父に「日本人だ」と知らされてから四半世紀がたっていた。


 念願の帰国だったが、「歓迎されていない」と高橋さんは感じた。すでに48歳で日本語の習得は難しく、職に就くこともできなかった。近くに住む良恵さんが付き添わなければ病院へも行けない。もっと早く帰国できていれば、違う人生もあったのでは-。

 同じような思いを良恵さんも抱える。20歳から日本語を学んだが、なかなか滑らかにならない。「日本語がうまければ、もっといい職に就けたのに」と思う。

 子育てでも言葉で苦労した。「中国語を話すと子どもが『中国人』とからかわれる」と、人前では親子で話さないようにした。当時は今よりも周りの目が厳しく、うっかり中国語が出てしまわないように子どもと離れて歩いた。長女は日本語も中国語も話せるが、その弟たちは積極的に中国語を学ぼうとしなかった。


 国策に翻弄〔ほんろう〕された残留孤児たちは戦後80年を迎え、4世のひ孫もいる。一家が集まる機会もあるが、中国語を解さない孫たちとの間には言葉の壁が立ちはだかり、戦争の影が尾を引く。

 鹿児島市で育った3世の男性(43)は祖母(82)が残留孤児で小学生の頃、来日した。「兄弟で中国語を話せるのは長男の自分だけ。僕らの世代になるともうどっちつかず。一般の中国人や日本人とは違う生き方をしないといけない」と語る。

 男性の祖母は13歳の頃、周りのうわさで残留孤児だと知り、今でも「親に捨てられた」という思いが強い。戦争がなければたどらなかった運命。「もう昔のようなことが起こるとは思わない」と言いながら、悪化する日中関係を憂慮し、友好な関係を築く政治に期待する。中国の養父母への恩を忘れず、「日本と中国の間で二度と戦争をしてほしくない」と繰り返した。(兵頭昌岳)

【写真説明】鹿児島市の県営住宅で暮らす高橋達雄さん(左)。「二つの祖国の平和が一番大事だ」と語る
 

2025/07/05 中日新聞夕刊 
 私が伝える 91歳の体験聞き取り 紙芝居に

 昭和初期、日本から旧満州(現中国東北部)に渡った満蒙開拓団。その一人で語り部として活動する北村栄美(えいみ)さん(91)=岐阜県池田町=の経験を、同町の主婦若林まり子さん(66)が自作の紙芝居にまとめた。北村さんの語りに胸を打たれ、当時の状況を多くの人に知ってもらおうと、次世代の語り部として動き始めた。(長尾明日香)
 北村さんは長野県大鹿村出身。1941年に一家で旧満州へ渡り、敗戦後の46年に兄と2人で帰国した。現地での食糧難や略奪、妹の死などを目の当たりにした経験を、若林さんが聞いたのは6年前。語り部として岐阜県大垣市で講演した北村さんの言葉一つ一つに涙がこぼれた。高齢な北村さんの記憶を誰が次代につなげていくのか、と考えた時、「私が伝えたい」と思い立った。

 北村さん本人に話を聞き、満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)も見学した。絵本などに比べて費用のかからない紙芝居にまとめることにし、文章は2023年に完成した。絵は知人らの助けを借りながらA3のスケッチブックに描き、今年1月に計26枚を仕上げた。

 紙芝居のタイトルは「命の選択~私の歩いた道~」。北村さんが、自身の経験を語る形で話は進む。

 妹が食糧難の中で百日ぜきにかかった場面では、母親が「エーコ、洋子にはもう重湯やるな。食べさせても長く苦しませるだけやで」と重湯も薬も与えない苦渋の決断をした。亡くなった妹の遺体は塩ザケの木箱に入れられ、「薄っぺらな塩ザケの木箱に納まるくらい、小さな小さな体でした」というセリフには、木箱の絵を合わせた。

 栄養失調で衰弱した弟は、生き残れるようにと中国人に預けた。「もう誰も死なせたくねえだ」。北村さんの母親が、その際にもらした苦渋の言葉を入れた。

 「戦争反対」といった直接的な言葉を使わず、北村さんの経験をありのままに描いた。若林さんは「旧満州であった事実を知ってもらいたい。受け止めた人がそれぞれの頭で考えてほしい」と語る。

 紙芝居は3月から月1回程度、地域の公民館などで上演している。上演の際は岐阜県池田町のピアノ講師成瀬盛子さん(54)が演奏するピアノに合わせ、若林さんが40分ほどかけて読み聞かせる。

 若林さんは同記念館のボランティアグループにも参加。8月11日には北村さんとともに同館を訪れ、旧満州での犠牲者を追悼する慰霊祭「鎮魂の夕べ」でも紙芝居を披露する予定だ。

 北村さんは同年代で亡くなる人が増えてきたといい「本を読んで感じることと、話を聞くとでは違う。次の世代に語り継ぐ人が必要」と若林さんの今後の活動に期待している。

 (メモ)
 満蒙開拓団 旧日本軍が1932年に建国した「満州国」に国策で渡った移民。全国各地から終戦間際まで27万人が送り出された。なかでも長野県からの開拓民は最多の3万3千人だった。飢えや寒さ、ソ連軍侵攻後の集団自決などを含め、8万人が死亡したとされる。

 

2025/07/05 信濃毎日新聞朝刊 

 満蒙開拓の歴史を語り継いでいる市民団体「方正(ほうまさ)友好交流の会」(事務局・東京)が13日、歴史継承のイベント「満蒙開拓団史を次の世代に伝えたい」を都内で開く。開拓団を満州(現中国東北部)に送り出した河野村(現下伊那郡豊丘村河野)の故・胡桃沢盛(もり)村長の孫、胡桃沢伸さん(58)=大阪府東大阪市=の講演と信越放送(長野市)の番組視聴で構成。同会は「戦後80年の節目に満蒙開拓を巡る加害と被害の事実を若い世代にも伝えたい」として参加者を募っている。

 同会は、中国黒竜江省方正県が開拓団員らの遺骨を集め、1963年に建てた日本人公墓の存在を広めようと2005年から活動。年2回、開拓団関係者や学識経験者らの寄稿を中心にした会報「星火方正」を発行してきた。ただ、発行費用の寄付に協力してきた長野県内を含む賛同者らの減少や高齢化が課題になっている。

 同会理事長の大類善啓(おおるいよしひろ)さん(80)は「会の在り方を考える中で、やはり若い世代にも満蒙開拓の事実を知ってもらうことが大切だと考えた」とイベントを企画。関心を示した都内の大学生らも参加することになったという。

 イベント会場は東京都千代田区の日本教育会館8階第3会議室。午後2時から、信越放送が17年に放送したドキュメンタリー番組「あなたのいない村~満蒙開拓を語り継ぐ~」を視聴。その後、胡桃沢さんが、村から送り出した開拓団員が敗戦後に集団自決したことへの責任を感じて自死した祖父への思いなどを話す予定。

 入場無料。事前申し込みが必要。オンライン参加もできる。参加申し込みはQRコードから。問い合わせは方正友好交流の会事務局(?03・3295・0411)へ。