2025/07/05 信濃毎日新聞朝刊
信濃毎日新聞社と信毎文化事業財団は4日、第32回信毎賞の贈呈式を長野市のホテルで開いた。さまざまな分野で優れた業績を挙げた県関係の個人・団体を顕彰しており、今年は2氏1団体が受賞。小坂壮太郎・信濃毎日新聞社社長が正賞のブロンズ像「耀(かがや)く」と賞状、副賞の100万円を各受賞者に贈った。【関連記事26面に】
受賞したのは、諏訪湖の水質改善に尽力した生態学者で信州大名誉教授の沖野外輝夫(ときお)さん(88)=諏訪市、日本人初の「国際山岳医」として山岳医療の普及に取り組む大城和恵さん(58)=長野市出身、満蒙開拓団の歴史を伝える満蒙開拓平和記念館(下伊那郡阿智村)。
贈呈式には表彰委員会の阿部守一知事ら約100人が出席。沖野さんは「諏訪湖の浄化は1人でやったものではなく、多くの人が協力して今の状態になった。諏訪地域全体で賞をもらったということになればいいかなと思っている」とあいさつ。大城さんはビデオメッセージで「受賞は温かい激励だと受け止めている。山岳医療が日本や国際社会で歩みを進めていけるよう一層尽力していく」と述べ、満蒙開拓平和記念館の寺沢秀文館長(71)は「受賞を励みとし、二度と悲しい犠牲者が出るような国や時代にならないようがんばっていきたい」と意気込みを語った。
小坂社長は、それぞれの功績を称え「今後も郷土のために大きく貢献してくれるものと確信している」と一層の活躍に期待を込めた。
続いて開かれた祝賀式には政財界や文化界、メディア、新聞販売店などの関係者約100人が出席し、受賞者と親交を深めた。
信毎賞は1993年の創刊120周年を機に翌94年に創設。今年は県内外から23件(個人16件、団体7件)の推薦があり、前年度までの推薦分と合わせて審査した。
<信毎賞受賞の2氏1団体(敬称略・順不同)>
[沖野 外輝夫(おきの・ときお)(88)]
生態学者。信州大名誉教授。アオコの発生原因の解明に取り組み、諏訪湖の水質浄化に向けた対策の基礎を築く。研究者として市民の環境保全活動を支えた。諏訪市在住。
[大城 和恵(おおしろ・かずえ)(58)]
医学博士。日本人で初めて「国際山岳医」の資格を取得。北海道や北アルプスなどを拠点に山岳医療の普及に取り組む。「山岳医療救助機構」代表。長野市出身。
[満蒙開拓平和記念館(まんもうかいたくへいわきねんかん)]
戦時中に旧満州(中国東北部)に渡った満蒙(まんもう)開拓団の歴史を伝える資料館。多くの犠牲を生んだ開拓の実態とともに、現地での加害の史実にも向き合う。下伊那郡阿智村。
今夜 10時
NHK映像の世紀
ふたつの敗戦国 日本 660万人の孤独
敗戦後、海外にいた660万の日本人は、一斉に日本への帰還を目指した。彼らはその時どこにいたかで命運が分かれた。満州にいた人々は、侵攻してきたソ連軍の暴力に無防備でさらされた。その後も中国に取り残された人々は、国交がないため、長い間帰還への道が閉ざされた。日本に帰還できても故郷に居場所がなく、辺境の地での開拓に乗り出す人々もいた。住み処を追われ、流転の運命を背負った日本人の記録である。
2025/06/28 佐賀新聞
1945(昭和20)~46(昭和21)年 坂口康子さん(88)多久市 父は出征、母と弟2人失い引き揚げ 食料なく衰弱、死が身近に
旧満州(中国東北部)で8歳のときに終戦を迎えた多久市の坂口康子さん(88)。記憶にとどめていた戦争体験をまとめ、2023年8月に著書を出版した。タイトルの「蟻(あり)のなみだ」は、日本人やきょうだい4人だけになった自分たちの引き揚げをアリの群れと重ね合わせた。過酷な状況に置かれ、身近に死があった悲惨な少女時代。表紙にはこうつづられている。「今伝えたい、平和への願い」
■坂口さんは1937(昭和12)年、旧満州の撫順市で生まれた。父は製紙会社を営んでおり、妹が2歳のときに亡くなったが、両親ときょうだい6人で何不自由なく暮らしていた。
「父は運動が好きで、ゴルフ姿が格好良かった。母はいつも着物を着て、帯もきちんと締めていた。しつけに厳しく、おてんばだった私はよく怒られてね。10人くらい使用人がいて、裕福な暮らしだったと思う。家にスチーム暖房が入っていたから、冬でもブラウス1枚で過ごしていたの。土曜日には河原に家族で遊びに行って、夜は中国料理屋に食べに行っていたかな」
■戦局が悪化した太平洋戦争末期。坂口さんが7歳のときに、41歳だった父が召集された。45(昭和20)年5月27日、撫順の駅で国防婦人会の人たちが多くの日の丸の旗を振りながら見送り、「万歳、万歳」の声が上がった。
「お父さんっ子だった私は、学校を休んで母と見送りに行ったの。『康子、康子』と人混みをかき分けて私を探す父の声が聞こえたけれど、出て行く勇気がなかった。父はきっと抱きしめてくれたはずなのに。父は汽車に乗り込むときも、何度も振り返ってね。その姿がずっと心に残って、いつか謝りたかった」
■父が出征した後、母は心労も重なって体調が悪くなり、坂口さんの姉が付き添って入院した。8月6日、息を引き取った。旧ソ連と満州の国境守備に送られていた父は、姉の電報を受け取りながら「今は帰れないが必ず帰る」との連絡を最後に、戻ってくることはなかった。
「姉から電話が来て、私たちは病院へ急いだ。母にそっと触れると氷のように冷たくて…。ふと、ぼんぼりがついた黄色のセーターを編んでくれたことや、きつねうどんを食べに行ったことを思い出したの。母の死を信じたくなかったけれど、悲しい現実を受け止めないといけなかった」
■母が亡くなって9日後、8月15日に終戦を迎えた。坂口さんはきょうだいだけで暮らし、日ごとに弱っていった2歳の弟は46(昭和21)年2月に亡くなった。7歳だった弟も肺結核となって入院し、4月に無言の帰宅となった。
「2歳の弟はだんだん言葉も出なくなって、何か言いたそうに口を動かすけれど声にならない。きっと母を探していたのだろう。かわいそうでたまらなかった。7歳の弟が亡くなった後、火葬場は人が人の上に積み上げられて死体の山だった。弟は受け入れてもらえず、家族で遊びに行った河原で、自分たちだけで荼毘(だび)に付した。こんな悲しくて残酷なことがあるのかと、つらくて仕方なかった」
■46年(昭和21年)6月、坂口さんたちは旧満州から引き揚げることになった。終戦後も父は帰らず、8人だった家族は1年間できょうだい4人となった。引き揚げ船を待つ間、屋根と柱だけが残っている所で1週間ほど暮らした。誰もが衰弱して食料は少なく、連日亡くなる人が出た。7月10日ごろ、ようやく船に乗ることができ、京都・舞鶴港へたどり着いた。
「引き揚げ船を待った場所はとても悲惨で、食料もないし、草さえ人が食べ尽くして残っていない。みんな生きることに必死で、目だけギラギラと動物みたいに光っていた。優しい日本人の心なんて消えていた。やっと引き揚げ船に乗って港を出たときには、安心したのかな、『万歳』と声が上がったの。日本に着いたときは夢みたいだった。姉が小城に伯父がいることを知っていて、汽車を乗り継いで向かったの」
■91(平成3)年に当時ソ連のゴルバチョフ大統領が来日した際、シベリアで抑留されて死亡した約3万6600人分の名簿が提出された。その中に坂口さんの父がいて、47(昭和22)年1月に亡くなっていた。坂口さんは新聞で名前を見つけ、92(平成4)年9月に墓参りのために姉とシベリアへ向かった。
「現地では『友よ 安らかに眠れ』と書かれた墓標が立っていた。日本に帰ることができた戦友の方たちが、私たちが行く2カ月前に建ててくださったみたい。父の墓参りを終えて帰国したら帯状疱疹(ほうしん)になって、今も毎日傷跡にばんそうこうを貼っている。当時のこと、忘れたくても忘れられない。だって傷跡が残って痛むから」
文・沖田日和 写真・西浦福紗
=ひも解く=
満州への移民、国策で進める
旧満州は中国東北部に位置し、現在の遼寧省や吉林省、黒竜江省などに当たる。1931(昭和6)年9月、駐屯していた日本の関東軍が柳条湖事件を起こして満州事変が始まり、満州全土を占領した。翌32年3月に日本のかいらい国家の「満州国」が建国された。
日本は国策で満州北部に農業移民「満蒙開拓団」を送り出した。36(昭和11)年8月、広田弘毅内閣が大規模な移民計画の「満州農業移民二十カ年百万戸送出計画」を決定した。翌37年8月には開拓団の支援などを行う「満州拓殖公社」が設立された。開拓団では約27万人が渡ったといい、8万人を超える10代の青少年義勇軍も含まれていた。
45(昭和20)年8月9日、ソ連が対日参戦して満州を侵攻した。9日後の同18日、満州国は消滅した。開拓団の約8万人が犠牲になったとされ、混乱の中で取り残された子どもや女性らは残留孤児、残留婦人となった。
終戦までに満州に渡った日本人は150万人以上ともいわれている。集団引き揚げは46(昭和21)年5月から始まった。坂口康子さん(88)=多久市=の著書「蟻(あり)のなみだ」は、終戦から帰国するまでの状況も記されている。
佐賀県内の戦争体験者らの証言をまとめた聞き書き企画「つなぐ 戦後80年さが」。手記や写真、遺品に加え、記憶に刻まれた出来事に焦点を当て、戦時中、終戦直後の混乱期を生きた人たちや地域の戦禍、暮らしぶりなどを描く。毎週土曜掲載。


