2025/06/28 信濃毎日新聞朝刊
=客観的かつ公平に伝えていく決意 加害と被害、繰り返さない
昨年末、飯田市下久堅の建設コンサルタント会社役員、青島重行さん(68)の元に電話があった。
「おじいさんや、満州移民の持つ『加害』の問題については、どう考えますか」
戦時下、旧満州(中国東北部)に赴いた祖父・秋夫さんの日記を翻刻し、冊子にまとめる作業が大詰めに入った頃だった。共に取り組んできた飯田市歴史研究所の「満洲移民研究ゼミ」を主宰する本島和人さん(76)=伊那市=から、問いを投げかけられた。
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青島さんにとって、翻刻に取り組んだ4年余は、祖父母や家族の悲運を目の当たりにした時間でもあった。祖母と子は敗戦後の逃避行で亡くなり、祖父はシベリアで死亡。引き揚げることができた父も、苦労が多かった。
「私は祖父一家の満州移民について、被害の側面を軸に語る傾向があった」。青島さんは振り返る。
一方、ゼミの中では疑問があった。農村振興に情熱を傾け、現地で開拓団の青年たちに農業実習を教えた秋夫さんが、家や畑を奪われた現地の人たちをどう捉えていたのか。なぜ抵抗感を抱くことなく満州へ行ったのか―。
本島さんは、この問いを考える前提として、当時の人たちが明治以降育んだアジアに対する意識に注目する必要性がある―とする。
アジア軽視や蔑視に基づく「脱亜入欧」のかけ声により、日本人のアジアとのつながり方がいびつだった当時、「人々を満州へ赴かせることは容易であった」と本島さん。こうした意識は、現地の人の耕作地を奪うことになった満蒙開拓だけでなく、中国を含むアジアの人々へ、戦中にさまざまな加害を生み出したと指摘する。
青島さんが自費出版した冊子には「祖父日記と満洲移民」と題した考察を加えた。開拓団には、現地の人々の家屋や田畑を奪った側面があったこと。秋夫さんに勧められて、満州へ渡ったという元教え子の証言にも触れた。
あとがきにはこう記した。
「大きな加害という枠のなかで祖父一家は被害を被ったといえる」「加害と被害の面をできるだけ客観的かつ公平に伝えていかないと、さまざまな立場や境遇の人々の共感を得るのは難しいように思う」
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「人ごととは思えない。日記には、今の時代を見つめ直すヒントがある。みんなの共有財産ですね」
5月、青島さんは、同研究所で会ったゼミ員の松葉孝子さん(66)=喬木村=から声をかけられた。「また一緒に研究をしていきましょう」。松葉さんはこうも話した。
「なおより正しく、よりよく生きん」と願った祖父はどうして満州に行ったのか、開拓団の実態をどう捉えていたのか―。青島さんにはまだ、はっきりわからないままだ。
ただ、気付いたことがある。祖父や父とは違い、平和な時代に生きる「満州移民の孫世代」の青島さんは「満州移民にまつわる不条理を恨む気持ちはあるものの、それを内に秘め激することはなく客観的に考えることができる世代」ということだ。
加害と被害の悲惨な歴史を繰り返さないために、どうしたらいいのか―。青島さんの元には、翻刻がまだ手付かずの、銃後の妻が秋夫さんに宛てた手紙などが残っている。祖父にまつわる史料に向き合い、当時の時代状況を探り、答えを見つけたいと思っている。
2025/06/20 日本海新聞
戦争の記憶と記録 戦後80年・鳥取 第2部 身近にあった戦争(3)
父徳永(旧姓前橋)通雄の遺品の資料の中に1枚の写真がある。満蒙開拓青少年義勇軍に入隊する時の家族写真だ。早くに両親を亡くした山間の貧しい農家にとって、兄弟だけが写った写真は高価なものであり、一世一代の晴れ姿であろう。視力に難があった父には義勇軍はわが身を処するに値する道であり、開拓団として先に渡満していた嫁いだ姉の存在と、父を含む村の隣り合わせた3軒が一緒に志願したことも後押しになったであろう。
父の入隊した鳥取県第4次満蒙開拓青少年義勇軍は、1941(昭和16)年に編成され、茨城県内原訓練所に入所、同年渡満、旧満州国北西部景星県に入植する。45(同20)年終戦に伴い、武装解除の後チチハルに退却。翌46(同21)年引き揚げ船で帰国している。
大人同士の話の聞き覚えか、直接語ったのか定かではないが、私の記憶に残っている父の話は、開拓団の姉を幾度か尋ねたことの他は、ただただ景星県を脱出する行軍のすさまじさ、死線をさまよったむごさのみである。幾度とないソ連兵との戦闘、繰り返される土着民からの襲撃。その中で唯一の犠牲者となる副県長であった柳瀬隊長の戦死。見つかれば惨殺の恐れもある元警察官の匿(かくま)い。チチハルでの食糧の確保。徴兵で隊員が欠ける中、年長だった父は退却軍の隊長として重責を担い、緊迫した場面での決断を迫られ続けたようだ。復員後、チチハルで世話になった徳島県の青少年義勇軍の人々を頼り、数年間商売をさせてもらうことになる。
父の戦後も満蒙開拓青少年義勇軍と共にあったと思う。鳥取県拓友会の設立準備に奔走した。拓友の慰霊碑である「拓魂之碑」の建立、第4次の組織作りのために商売を母に任せて何度も鳥取市へ出向いた。第4次満蒙開拓義勇軍の記録誌となる『昿野(こうや)の青炎』の編さん、行方不明になった開拓団の姉家族の捜索に尽力した。中国残留孤児の調査が始まってからは、厚生省(当時)とやりとりをした。その中の一人の女性が顔立ちや生い立ちが似ているとのことで対面調査にも臨んだ。肉親が現れなかったら姪(めい)に認定してもらうところまでいったが、肉親が現れて願いがかなわなかった。
数年後の調査で甥(おい)が見つかる。そして一時帰国を果たす。その際は智頭町の全面協力をいただいた。若い人たちと「燎原会(りょうげんかい)」を結成しおいの家族との交流の場とし、中国へも2回行った(うち1回は連れ合いが危篤のため欠席)。
父亡き後拓魂祭に列席すると「前橋さんのおかげで生きて日本に帰ってこられた」と米子の方から声を掛けていただいた。私を見つけるやいなや、名前も告げていないのに「徳永さんですよね」と手を握ってくれた広島県呉市の柳瀬さんは銃弾に倒れた副県長の娘さんで、命を救ってもらったとお話しになる。開拓団にいた沖縄の女性が退却部隊に匿われたご恩に感謝すると交流が始まった。父から語られなかったのは、このことが特別なことではなく、当たり前の出来事だったからだろう。
国策として進められた満州国建国と、続く侵略と悲惨な結末は願った未来ではなかったであろう。しかし大志を抱いた少年にとっての満州は、青炎を燃やした“昿野”であったに違いない。今年もまた4月第1日曜に拓魂之碑に向かい手を合わせる。東郷湖畔藤津の丘に建つこの碑は満開の桜の中、遠く満州に向かい建つ。 (徳永起宏・68歳、智頭町)
(毎週金曜日掲載)
2025/06/19 毎日新聞
日本の敗戦直前にソ連軍が侵攻した旧満州(現中国東北部)で、岐阜県から渡ってきた日本人開拓団の若い娘たちが、ソ連兵への「性接待」のために差し出された。その被害女性らの貴重な実名告白をたどるドキュメンタリー映画「黒川の女たち」が今夏、公開される。あれから80年を経てなお、登場人物が「日本の縮図」と評するのはなぜか。監督の松原文枝さん(58)と考えた。
岐阜県南部の山村、白川町黒川(旧黒川村)の佐久良太神社の境内に、「乙女の碑」という石碑がある。台座の上でお地蔵さまが瞑目(めいもく)するこの碑から映画は始まる。テレビ朝日プロデューサーなどとしてドキュメントや報道番組を制作している松原さんが碑の存在を知ったのは7年前のことだった。
「乙女の碑は1982年に建てられたんですが、長い間、碑文も説明文もありませんでした。石碑の隣に碑文が建ったのは36年後の2018年です。この年の11月に除幕式があることを知り、2分ほどのニュースにして放映したことが最初でした」
史実を説明しておこう。
旧黒川村の住民は日本の国策(満蒙開拓)に従い、1941年から「黒川開拓団」として旧満州・陶頼昭(現中国・吉林省松原市)に入植する。ソ連軍の侵攻、敗戦、地元の満州族の蜂起――。開拓民を守るはずの日本軍は真っ先に逃げた。残された周辺の日本人開拓団が次々に集団自決を図るなか、黒川開拓団は約650人のうち約450人が帰国を果たす。
松原さんは黒川の人々にインタビューを重ねつつ、「空白の碑文」をめぐる証言をフィルムに焼き付けてゆく。
なぜ黒川開拓団の少なからぬ人が帰国を果たせたのか?
実は開拓団の幹部らは、ソ連軍に自分たちを守ってもらうため、数え年で18歳以上の女性15人を「性接待」のために差し出したのだった。
詳細はここでは書かない。2カ月ほどの地獄のような暴力の日々の中で、性病などで4人の女性が落命した。生き抜いてやっと帰国した女性たちを待っていたのは、元団員らの「汚れた娘」「きずもの」といった差別と中傷だった。
松原さんは2019年から5年間にわたり、存命していた最後の被害女性3人(1925年生まれの佐藤ハルエさん=昨年1月に99歳で死去、28年生まれの安江玲子さん、27年生まれの水野たづさん)を取材する。
「佐藤ハルエさんは故郷にいられなくなり、遠くの山野を開拓し、酪農を始めた人です。普段はよく笑うかわいらしいおばあちゃんなのに、満州の話になったとたん、張り詰めた表情になるんです。すごい熱量で語るわけではなく、ただただ聞き手に正面から向き合い、自分に起きたことを伝えようとする。私たちもこの人のことを何としても記録に残さねば、という責務にかられる。そういう人です」
「性接待」を最初に公にしようとしたのもハルエさんである。1980年代には雑誌に匿名で満州での体験を明かし、2013年には被害者の一人、安江善子さん(16年、91歳で死去)とともに、満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)で開かれた講演で、初めて実名で被害を告白した。「あったことをなかったことにはできない」という、居ても立ってもいられない思いからだ。
「大変な勇気が必要だったはずです。戦後70年近くもの間、女性たちは家族にも打ち明けられずに苦しんできたのです。自分の犠牲の上に帰国できたはずの黒川の人たちすら、事実を伏せるばかりか、差別までする。ハルエさんが体験を告白した雑誌も、元開拓団員らが買い占めて焼却したといいます。女性たちは被害者同士で慰め合う、あるいは人知れず文章や詩にして自分の苦悩を吐露するしかありませんでした」
前出の善子さんが帰国後に書き残した悲痛な一節である。
<次に生まれるその時は 平和の国に産まれたい。愛を育て慈しみ花咲く青春綴(つづ)りたい>
その善子さんは82年の「乙女の碑」建立前、開拓団遺族会の文集に手記を寄せたが、核心の部分は勝手に削られた。碑文が書かれなかった理由にも通じる。長男・泉さんは「黒川開拓団は日本の縮図。反省しないまま終わっている。だれも戦争を総括していない」と答える。松原さんが自問する。
「『総括する』ということは、責任の所在を明らかにすることにほかなりません。開拓団で起きたことも同じです。碑文が書かれなかったのは『被害女性を中傷や差別から守るため』という理屈ですが、彼女らを性暴力に差し出した共同体が事実を認め、『彼女らを差別する社会構造がおかしいのだ』と声を上げることこそが、本当の意味で女性たちを守ることではないですか」
付言すれば性暴力の被害者が中傷される社会のあり方は、今も変わらない。元タレント・中居正広氏の性暴力問題でも、被害女性が中傷されている。この意味でも、黒川は「日本の縮図」である。
映画は99分。過去と現在を行き来しつつ、胸をえぐる重い問いが続くが、幾筋か、光が差し込む瞬間がある。
女性の証言や親世代の罪を引き受け、ついに碑文の設置にこぎつけた戦後生まれの開拓団遺族会会長、藤井宏之さんたち。ハルエさんらの証言を聞きに遠方から訪ねてくる学生。そして最初は松原さんにも心を閉ざし、顔出しでの撮影を拒んでいた被害女性の玲子さん(97)がついに浮かべた柔らかな笑み。
「玲子さんも黒川を去って東京で暮らしています。自分をソ連兵に差し出した黒川の人たちには会いたくない、と言っていた。19年に取材した時は全く笑わず、あまり話もしない。でも23年に会いに行くと……」
別人のようなおだやかさで、撮影にも応じてくれた。
「笑顔を初めて見たんです。彼女も自分の体験を家族に明かせず、夜も眠れないほど苦しんできたのですが、玲子さんの証言を知った孫娘さんが『生きて日本に帰ってきてくれてありがとう』とつづったハガキを送りました。玲子さんは理解者の存在を初めて知り、笑顔を取り戻したんです。やっと彼女は尊厳を回復できた。ハガキは今も肌身離さず持ち歩いているそうです」
玲子さんは最後に「(戦争に)負けて良かった」「憲法9条は守ってほしい」とつぶやく。そして映画は静かに息を引き取るハルエさん、過去を告白したハルエさんをたたえる3人の孫をとらえつつ幕を下ろす。「戦後80年」とくくられるが、そもそも「戦後」は訪れているのか、というやるせない問いも突きつける。
「女性たちの告白は多くの人を動かしました。私もその一人です。彼女たちの証言をきちんと歴史に埋め込んでいく。歴史は簡単に書き換えられてしまいますから」
7月12日からユーロスペース、新宿ピカデリー(いずれも東京)など全国で順次公開する。【吉井理記】
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■ことば
◇満蒙開拓団
満州事変の翌1932年に日本が建国したかいらい国家・満州国の開発や食料増産のため、日本政府が送った移民団。満蒙開拓平和記念館(長野)によると推計27万人が送り出された。開拓といいながら満州族の土地や家屋を収奪しただけのケースも多かった。ソ連軍の侵攻などで8万人が現地で死亡したとされる。
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■人物略歴
◇松原文枝(まつばら・ふみえ)さん
テレビ朝日イベント戦略担当部長。1966年生まれ。91年入社。政治部記者や「報道ステーション」チーフプロデューサーなどを経て現職。2016年ギャラクシー賞テレビ部門大賞。監督した映画は「ハマのドン」(23年)に続き2作目。
■写真説明 黒川開拓団の若い女性たち。前列右が安江玲子さん、後列右端が佐藤ハルエさん。前列左の女性以外、全員が「性接待」を強いられた。松原さんが写真に写るすべての女性の遺族の許可を得たうえで映画にも使用した=cテレビ朝日
■写真説明 黒川開拓団遺族会の藤井宏之会長(左)と話し込む安江玲子さん。表情は別人のようにおだやかになった=cテレビ朝日
■写真説明 松原文枝監督=宮本明登撮影
2025/06/15 朝日新聞/長野県
満蒙開拓団として大日向村(現・佐久穂町)から中国東北部(旧満州)に渡った人やその子、孫らがかつての入植地を訪れる。6年前に訪問した2世が各家のあった場所を示す地図も作製。現地で犠牲になった元団員を悼み、戦後80年に改めて戦争の実相を刻む。
農村には田畑が広がり、赤茶けたれんが造りの家屋が並ぶ。前回、2世らが訪中した2019年5月の吉林省舒蘭市郊外の様子だ。入植した日本人が「神社山」と呼んだ、こんもりとした丘からは「満州大日向村」のほぼ全景が望めた。
旧満州への農業移民の送出は国策として推し進められた。佐久町(現・佐久穂町)誌などによると、大日向村からは1938年に先遣隊が入植し、満州大日向村が発足したのは41年。200戸超、約700人が暮らした。五つの集落を設け、学校や役場機能をもつ施設もあったという。
長野県は約3万数千人という全国最多の満蒙開拓団員を送り出した。なかでも大日向村は、地域を二分して一家で入植する「分村移民」の第1号として映画や新聞、雑誌に取り上げられ、全国的に注目された。
今回、16日からの訪問団で唯一、当時を知るのは軽井沢町の市川渥夫さん(90)だけだ。ほか2世、3世ら一行は計20人ほどになる。
19年の訪中時、市川さんのほかに同年代の2人がいたが、1人は亡くなり、1人は病気療養中で今回は参加しない。
市川さんは両親ら家族7人で旧満州に赴いた。1戸に15~20ヘクタールが与えられたといい、父親が「コメを1年作れば、20年は食べられる」と胸躍らせていたのを覚えている。
ただ、その土地は元々は地元住民のものだった。県史は「現地の中国人やさきに入植していた朝鮮人を、その努力して切り開いた畑・水田や住居から排除してなりたった」と指摘。「移民に課せられていた五族の協和やアジアの平和のスローガンとは正反対のところに、満州移民が位置していたことを意味する」と記す。
45年8月、ソ連侵攻と日本の敗戦で開拓団は追い詰められた。集落は中国人らの襲撃を受け、家財道具などを持っていかれた。市川さんは、取られないようにと親が重ね着させてくれていた衣服を1枚はがされた。
「トウモロコシやアワなどの畑では中国人、田んぼでは朝鮮人を小作人のように使っていた。すべてを奪われた彼らが恨みを持つのも当然だろう」と市川さん。数十人が避難した先で「皆で自決する」との声も上がったが、かくまってくれた中国人が「絶対によせ」と止めてくれたという。
苦難は続く。収容された旧満州国首都の新京(現在の吉林省長春市)では、極寒と不衛生な環境のなかで、幼い子らが発疹チフスや栄養失調などで死んでいった。荷車で数体の遺体が運ばれるのを目にした市川さんも父たち家族を収容所でなくし、「人が死んでいくことが当たり前の世界で、当時は何も感じなかった」と言う。
佐久町や県などの資料によると、満州大日向村の開拓団員は46年9月に帰郷。収容所などでほぼ半数が命を落とし、一部(65戸、165人)は翌年、浅間山のふもとの軽井沢町に入植した。佐久穂が第一、旧満州が第二、そして軽井沢が「第三の大日向」と呼ばれるゆえんだ。
市川さんの家族7人のうち、戻ってこられたのは母と姉と自身の3人だけだった。この6回目の訪中に「足腰も悪くなって心配だが、(伝えられるのは)俺しかいない。戦争というのは悲惨だってことをただ知ってほしい」との思いでいる。
19年に続き今回のツアーを企画したのは、互いの伴侶を亡くして軽井沢に引き揚げてきた両親から戦後に生まれた堀川正登さん(73)だ。前回の現地踏査や、市川さんら関係者への聞き取りなどから集落ごとの地図を完成させた。
多くの2、3世が参加する機会に「まずは、旧満州がどういうところか見てほしい」と話す。そして、こう付け加えた。
「神社山に登って眺めたら良いところだと思った。日本人が来る前に暮らしていた人たちは土地や家を取られ、せつなかったんだろうと。戦争は絶対に起こしてはいけない」(北沢祐生)
【写真説明】
(上)「神社山」から「満州大日向村」があった場所を望む6年前の訪中参加者ら=いずれも2019年5月28日、中国吉林省(下)6年前の訪中で、かつての「満州大日向村」の集落があった周辺を歩く市川渥夫さん
堀川正登さん(左)が作った「満州大日向村」の集落ごとの地図を見ながら、当時を思い起こす市川渥夫さん=軽井沢町、北沢祐生撮影
2025/06/14 信濃毎日新聞朝刊
阿智村の満蒙開拓平和記念館は、これまでに同館に寄贈された旧満州(中国東北部)からの帰国者のさまざまな品を紹介する「モノから見る満州・満蒙開拓」を開いている。80年以上前の戦時を生きた人々の苦労がにじむ34点を展示している。
同記念館の「光の回廊」に飾った荷物札は、満州の都市佳木斯(チャムス)で教師をしていた男性が終戦が近づいた1945(昭和20)年5月、帰国する際に中国から静岡県の自宅に送った荷物に付けていた。届いたのは荷物札だけで、荷物がどこに行ってしまったのかは不明のままだ。
14歳で満州に渡った旧和(かのう)村(現東御市和)出身の少年が、義勇軍の夏服として使っていた半袖の白いシャツもある。この少年は終戦後、シベリアに抑留され、4年後に24歳で帰国できたという。灰色の靴は旧川路村(現飯田市川路)の開拓団に参加し、敗戦時11歳だった少年が使っていた。引き揚げの際、中国人が作ってくれたと説明している。
他にも、シベリア抑留時に作られたスプーン、中国・吉林の収容所にいる時に作ってもらったわらじといった品が並ぶ。当時の世相がうかがえる品は、南満州鉄道の列車や満州各地の名所が描かれたマッチ箱のラベル、「満洲日日新聞」の看板などがある。
開館から12年の間に、帰国者やその親戚など約1600人から私物や資料などが寄贈された。普段は倉庫にしまってあるが、これまでに2回、寄贈品展を開いて公開し、今回が3回目。同記念館の三沢亜紀事務局長(58)は「展示品から当時の状況や物の背後にある物語を感じてほしい」と話している。29日まで(火曜と第2、4水曜休館)。