2015/12/08 人民網「中日フォーカス」
「中国帰国者・日中友好の会」は戦後の中国残留孤児によって組織された日本の団体。東京・上野近くにある同団体の事務所には、毎日のように歌や踊りを学ぶ白髪の残留孤児らの姿が見られ、いつも楽しそうな笑い声が事務所に響きわたっている。経済的に豊かな日本社会においては、何ら特別な光景ではないかもしれない。しかし、彼らが今こうして長閑な日々を過ごすに至るまでには、非常に困難な道のりがあった。数年前、彼らは街頭や裁判所前で声をあげ、自分たちの権益を守る活動をしていた。その中心人物となっていたのが同団体の理事長である池田澄江さんだ。
池田さんはこれまで、徐明、今村明子、池田澄江という3つの名前をもっていた。それはちょうど池田さんの人生を三段階に分けるように、その名前には対応する異なる情況があった。池田さんが歩んできた道は戦後の残留孤児の中で最も悲惨というわけではないが、その人生は劇的で、思いもよらない悲劇の連続だった。その悲劇に直面するたび、池田さんは歯を食いしばって耐え、自らがその難関を乗り越えるとともに、他の孤児の支援にも尽力してきた。今の最大の願いは「中日平和友好」、一番なし遂げたいことは「中日両国の架け橋」だ。
中国で育った「徐明時代」
徐明という名は使用した時間が最も長い名前で、過去71年の人生で37年間、日本に帰国した2年目まで用いていた。
自分の名前や生年月日を知ったのは52歳になってからだった。それまで中国の養父母ですら池田さんの生みの親が誰なのかも知らなかった。1945年、日本の敗戦後、日本人の大規模な帰国が始まり、池田さんの生母は生後10ヶ月の池田さんを黒竜江省牡丹江の李という姓の中国人家庭に託し、母親代わりに育ててくれるよう懇願した。その後、子どものいなかった徐家が池田さんを引き取り、徐明と名づけて池田さんを育てた。
7歳の頃までは、周囲の子どもたちの暮らしと比べればまだ幸せだった。養父母は商人で、暮らし向きも良く、家族で牡丹江市内の四合院に住んでいた。「可愛らしい服を買っては着せ、いつもお花のように着飾ってくれた」、「外出するときは必ず私を連れ、転ばないよう、迷子にならないようにと常に気にかけてくれた」と池田さんは養母の愛情を思い起こす。
池田澄江氏
当時の池田さんは「小日本鬼子(日本人に対する蔑称)」の意味を知らず、たとえ周りの子どもにそう呼ばれても特に気にとめることもなかった。養母も「それはただのあだ名。あだ名がないと大きくなれないんだよ」といって励ました。しかし、7歳になったある日の出来事がきっかけで、この蔑称に特別な意味があることを池田さんは知ってしまう。小学校2年生のときで、抗日戦争を題材に扱った映画を映画館で鑑賞する活動を学校が設け、日本兵が中国人を殺戮する光景をスクリーンを通して目の当たりにした。池田さんを含む校内の生徒全員が憤りに満ちていたとき、突然同級生が池田さんを「小日本」といって責め立てた。池田さんは恐怖のあまり映画館の椅子の下に潜り込んで出て来れなくなった。
この情況に気づいたある先生が池田さんを責めた生徒に、「映画の中の日本兵は悪い人。でも池田さんはただの子ども」だと説明したという。池田さんは感激し、先生が「弱い者を守る偉大な存在」に思えたと振り返る。このときから池田さんの夢は大きくなったら教師になり、この先生のように他人を助けたいと思うようになったという。
8歳の頃、警察が日本人残留孤児の登記確認にやってきた。養母は初めてはっきりと池田さんが日本人であることを告げるも、池田さんはそれでも自分と周りの子どもの違いが分からず、養母を実の母親だと思いこみ、周囲の人の日本人に対する評価を少し気にするようになっただけだった。「日本軍は悪いけど、日本人が皆悪いというわけではない」と養母は慰めた。
9歳になった頃、突然家が破産に追い込まれ、四方八方から借金返済に追われる生活へと一転、養父は投獄され、池田さんと養母の暮らしは貧しさを極めた。年越しの日は隣人からもらった肉を売ってとうもろこしを買い、数日間にわけて食べた。新年に新しい服を着れない池田さんを不憫に思い、養母は自分が嫁入りにもらった服を出して綿入りの上着にして池田さんに着せた。
生活を食いつなぐ養母にも限界がきていた。ある晩、池田さんは養母が寝床にいなくなったことに気づき、慌てて探してみると、養母が首をつる用意をしていた。池田さんは涙を流しながら「母がいなくなったら私はどうするの」と叫んだ。幼い池田さんのためにと、養母は歯を食いしばって耐え凌いだ。その後、池田さんは師範学校に入学、卒業後は山間部の林場にある小学校に配属され、幼少期の夢が実現する。その後、同僚の紹介で林場の作業員と結婚し、3人の子どもに恵まれた。
池田さんは多くの中国人と同じように中国での生活を続けていたが、気がかりが一つだけあった。「自分の身分はなんなのか、私を生んだのは誰なのか」。幼い頃、家庭が困難に直面するたび、「生みの両親が私と養母を助けにきてくれますように」と秘かに念じたこともあった。
1972年の中日国交正常化の知らせには、嬉しさのあまり夜も眠れずにいた。その新聞を部屋の真ん中に貼り付け、何度も何度も読んだ。その後すぐ池田さんは牡丹江に転勤となった。「中日友好の日が来た、生みの両親に会ってみたくなった」そう思った。養母のことを思いこっそりと情報を集めていたが、何ら結果は得られず、思い切って養母に自分の思いを伝えてみると、養母は気を悪くするどころか、進んで当初池田さんを引き取った李家に連れて行ってくれた。残念ながら李家はかなり前に引っ越したということで、結局重要な手がかりは見つからず仕舞いとなった。
養母の博愛は改めて池田さんの養母への敬意の念を深めた。池田さんは「養母は苦労の中を生きた人。私は実の子ではないかもしれないが、養母の愛は生母に勝る。養父母の愛は永遠に忘れられない。来世があるなら来世も養父母の子でありたい」と養父母への感激の思いを語る。養母はすでに他界して30年近くが経つが、残留孤児の養父母を見るたびに自分の養父母を思い出し、「様々な苦労をしながら敵国の子を育てる。どんな情況であれ、私たちそんな彼らの行為に感謝すべき。彼らがいなかれば私たちの今日はない」と自分に語る。
日本で必死に生きた「今村明子」時代
1980年、池田さんは牡丹江を訪問した日本代表団の記者に依頼し、日本の新聞紙面を通じて親戚を探した。すると北海道の吉川という姓の老人の目にとまり、自分が中国に残した娘かもしれないという手紙が池田さんに届いた。双方の描写には類似点が多く、血液型も一致した。
1981年、生みの父親が見つかったと思い込んだ池田さんは6ヶ月の訪問ビザを申請、3人の子を連れ訪日した。当初吉川さん家族は池田さんにとても親切で、言葉こそ通じないが、辞書を片手に楽しく過ごした。その後吉川さんは現地の関係当局に出向き家族である証明を取ろうとしたが、父娘関係の証拠が足りないとしてDNA鑑定を勧められた。3ヶ月後の診断結果、なんと2人は親子ではないことが発覚した。
この結果に吉川さんの池田さんに対する態度は一変、ヒステリックになって池田さんが中国から持ち帰ったものすべてを捨て、追い出されるように家を出ることとなった。当時池田さん夫婦の収入は高くはなかったが、吉川さんにきちんとした贈り物を贈りたいと、出国前にミシンや自転車、腕時計などを売り払って多少価値あるものを用意して贈っていたが、それも無駄になってしまった。関税で両替した日本円も親子4人が中国に帰るだけの航空券は買えず、知人もいない。このとき自殺が頭をよぎった池田さんは、遺書まで何通も書き、中国で待つ夫と養父母に送ろうとしたとき、当時自殺を図ろうとした養母が絶望に満ちた私の姿を見て踏みとどまったのを思い出し、子どものために生きる決意をし、再び方法を考えた。
やるせない思いの中、池田さんは手続きの際に通訳をしてくれた在日華人を思い出し、具体的な住所も知らぬままタクシーでその通訳事務所へ向かった。タクシーのメーターが上がるたび、途中で諦め子どもを連れて降りようと考えた。ある場所まで辿りつくも、道端で途方に暮れていると、そう遠くない場所に建つビルに馴染みのある名前が見えた。ちょうど捜し求めていた通訳事務所だった。
事務所の支援の下、日本にある中国領事館と連絡を取ることができた。領事館を訪れると、親しみのある中国語が聞こえ、思わず涙が溢れた。多少手がかりがつかめた後、池田さんは引き続き日本で家族を探し始めた。日本政府は材料が不十分としてビザの延期を拒否したが、現地の中国人と日本人記者などの支援を得ながら、子どもを連れて北海道から東京に移動、東京での家族探しが始まった。
明らかに戦後の日本人残留孤児であるにも関わらず、日本政府に拒まれる池田さんの遭遇は日本のメディアを通じて広く知れ渡った。そんなある日、河合という名の中国残留経験をもつ弁護士が裁判を手助けすると進んでやってきた。日本の家族を見つけ出せずにいたが、多くの人の支えがあって池田さんは1982年についに日本国籍を取得することができた。日本国籍取得の際に日本名をつけるよう要求されたため、かつて支援してくれた通訳者の苗字と養父母がくれた名前を残して「今村明子」と改名した。
その後池田さんは夫を日本に連れてきたいと考えたが、正式な仕事もなく、夫もビザを取得することができなかった。日本語ができないためにレストランの皿洗いや清掃員のアルバイトをするしかなかった。家族団らんを果たすため、そして老後の生活を保障するため、池田さんは正規の仕事を求め河合弁護士の事務所を訪ねたところ、河合弁護士は自分の事務所で試用期間1ヶ月からスタートして迎えてくれた。池田さんはこのチャンスをつかむため毎日9時から8時まで、事務所を隅々まで清掃し、コピーを手伝い、できることはなんでもやった。その勤勉さが認められ、1ヶ月後に試用期間は3ヶ月に延長され、その後半年に延長され、2年経ったときに正式に法律事務所の正社員として迎えられた。
業務は残留孤児の日本国籍取得サポート。関連の申請には申請者個人の経歴を説明する必要があったため、池田さんはこの間に他の残留孤児の様々な経歴を知ることになる。「1300人の書類を見た。一人一人の書類を見るたびに涙が溢れた」、「私も残留孤児だが、彼らは私よりもっと悲惨」。色々な思いを巡らせながら必死で彼らをサポートした。
家族を探すことだけが望みではなくなった「池田澄江」時代
「今村明子」として13年間日本で生活した後、池田さんにまたも劇的な運命の転機が訪れる。しかも今回は嬉しい進展だった。
池田さんはこの日のことをはっきりと覚えていた。1994年12月4日、池田さんの法律事務所が残留孤児とその親族を対象に説明会を開き、池田さんは通訳としてその場に居合わせた。説明会が終わり、池田さんはすぐには去らずに、個別に質問などに答え、その後会場隣のカフェで休憩を取った。
このとき、説明会に参加していた日本人女性2人が池田さんの前に座り、池田さんに話しかけた。中国語も流暢だった。池田さんも50年前に中国で孤児として残った話や、中国で育った日々の話をした。すると、2人の女性の妹も当時牡丹江に残り、李という姓の中国人に預けられたと言うではないか。その妹の境遇と自分の境遇が余りに似ていているため、池田さんは養父母の家の周囲の地図も描きながらより具体的に当時の様子を説明した。池田さんの説明を聞き終えるやいなや、2人の女性は興奮した様子で立ち上がり、「あなた私の妹よ」と叫んだ。池田さんは全身鳥肌が立ち、「こんな偶然ってあるの?こんなところで姉に会えるなんて」と思わず立ち上がったが、北海道の吉川さんの一件が蘇り、すぐに「でもそうとは限らない。以前間違ったことがある」と冷静になってしまった。
翌日、池田さんはこのことを事務所の人に伝えると、「本当にお姉さんかもしれない」とDNA鑑定を勧められた。運命が再び池田さんをからかうことはなかった。17ヶ月と5日後のDNA鑑定の結果、カフェで偶然出会った女性は池田さんの正真正銘の姉だったのだ。52歳を迎えていた池田さんは、このとき初めて自分は1944年10月14日生まれで、生みの両親が自分に授けた名前は「池田澄江」だったということを知った。戸籍上では「死亡」となっていたが、今度は「今村明子」は「池田澄江」となった。
池田さんはついに家族との再会という夢を果たしたわけだが、それは最大の願いではない。「確かに紆余曲折を経てついに家族を見つけ、自分の出自を突き止めることができたが、事務所にある2600人以上もの残留孤児の案件のうち6割以上が今でも家族を見つけられずにおり、親がつけた名前や生年月日を知らずにいる。まだまだ多くの人が助けを必要としている」と語った。
2005年に中国のメディアが池田さんの元を訪ねてきて、ある日本人残留孤児を見つけて欲しいと言ってきた。なんでも、彼は日本に戻ってから中国の年老いた養父母を見に来ることもなく、日本人孤児に「恩知らず」なやつがいるという噂まで広がっているとか。池田さんはすぐさまその人を探し出し、彼が中国の養父母に会いに行くことを手伝った。
「多くの人が残留孤児の境遇を知らない。当時多くの孤児が言葉も通じないといった原因で仕事を見つけられず、日本政府の月4万から6万円の最低生活手当てで暮らし、差別を受け、日本社会に溶け込めずにいた。しかも、この手当てを受ける人は出国が禁じられており、出国できるお金があるということは手当てなどいらないことになるという理屈で、出国すれば手当てがなくなる。そのため多くの孤児が中国に戻ることができなかった」と池田さんは語る。
当時池田さんは他の残留孤児らと権益保護を訴え東奔西走した。「残留孤児は苦しい生活を余儀なくされている。この問題は日本政府が作り出したもの。あの戦争がなければこんなに苦しい思いをすることはなかった。日本政府は責任をとれ」。池田さんは各地の残留孤児らに連絡を取って署名活動を行ったが、日本政府が対応することはなかった。その後声をあげる人は増えたが、政府はなお相手にすることはなかった。それでも諦めることなく、2002年に2213名からなる残留孤児団体を組織して国を相手に訴訟を起こし、法律を活用して自分たちの権利を訴えた。「中国でも私たちの心中を知らない人は多い。勝訴して孤児を連れて中国に帰り、我々が恩を忘れていないことを伝えたい」という一心だった。
勝訴できると信じていたものの、2007年の判決で原告敗訴が決まった。それでも一連の活動で戦後の残留孤児は少なくとも日本社会の注目を集めた。2007年、中国国務院の温家宝総理(当時)が日本の国会で演説を行った際に、残留孤児の中日交流における重要性を表明した。池田さんは、この演説が残留孤児の生活状況の改善に大きく寄与したという。
2008年、日本政府はついに残留孤児とその家族を対象にした支援措置を講じた。公営の交通機関の一部が無料になり、医療も無料になり、各家庭に6万6千円の手当てがついた。各方面の多くの人たちの支えと、残留孤児らが一致団結して勝ち得た成果だ。池田さんは、原告団はこれで解散するのではなく、結束しなければならないと、2008年に「中国帰国者・日中友好の会」を設立、日本各地に散らばる戦後の残留孤児を束ねて意義ある活動をしようと立ち上がった。
新中国成立60周年を迎えた2009年は、同団体設立2年目の年でもあり、池田さんはかつての約束を守って「謝恩団」を組織し、残留孤児を率いてハルビンと北京を訪れた。そして養父母の墓に参拝し、中国国民への謝意を表明した。抗日戦争勝利70周年の今年も、池田さんは再び「謝恩団」を率いてハルビンと北京を訪問、李源潮国家副主席の謁見を受けた。
2008年の四川大地震発生の際には、池田さんは日本各地の残留孤児に連絡して義捐金を募った。その額は1750万円に上り、その大部分の資金で被災地に中日友好小学校を建設、様々な教育物資を寄付した。「口で中国が好きと言うだけでなく実際の行動で表現しなければならない。皆決して裕福ではないが、それでも快く出してくれた」という。
取材中、「私たちは日本人。でも中国で生まれ育った。中国は最愛の故郷であり、日本は私たちの祖国。日本は私たちの両親や兄弟姉妹が暮らす故郷であり、私たちは心から中日両国の人々を愛している」と池田さんはたびたび涙を流した。残留孤児の物語は、戦争を経験していない若い人でも、平和の大切さを感じることができると池田さんは信じている。「中日両国の平和と友好は私の最大の願いであり、中日両国の友好の架け橋として、命をかけてでも全力で貢献していきない」と池田さんは語った。(編集IM)
「中国帰国者・日中友好の会」は戦後の中国残留孤児によって組織された日本の団体。東京・上野近くにある同団体の事務所には、毎日のように歌や踊りを学ぶ白髪の残留孤児らの姿が見られ、いつも楽しそうな笑い声が事務所に響きわたっている。経済的に豊かな日本社会においては、何ら特別な光景ではないかもしれない。しかし、彼らが今こうして長閑な日々を過ごすに至るまでには、非常に困難な道のりがあった。数年前、彼らは街頭や裁判所前で声をあげ、自分たちの権益を守る活動をしていた。その中心人物となっていたのが同団体の理事長である池田澄江さんだ。
池田さんはこれまで、徐明、今村明子、池田澄江という3つの名前をもっていた。それはちょうど池田さんの人生を三段階に分けるように、その名前には対応する異なる情況があった。池田さんが歩んできた道は戦後の残留孤児の中で最も悲惨というわけではないが、その人生は劇的で、思いもよらない悲劇の連続だった。その悲劇に直面するたび、池田さんは歯を食いしばって耐え、自らがその難関を乗り越えるとともに、他の孤児の支援にも尽力してきた。今の最大の願いは「中日平和友好」、一番なし遂げたいことは「中日両国の架け橋」だ。
中国で育った「徐明時代」
徐明という名は使用した時間が最も長い名前で、過去71年の人生で37年間、日本に帰国した2年目まで用いていた。
自分の名前や生年月日を知ったのは52歳になってからだった。それまで中国の養父母ですら池田さんの生みの親が誰なのかも知らなかった。1945年、日本の敗戦後、日本人の大規模な帰国が始まり、池田さんの生母は生後10ヶ月の池田さんを黒竜江省牡丹江の李という姓の中国人家庭に託し、母親代わりに育ててくれるよう懇願した。その後、子どものいなかった徐家が池田さんを引き取り、徐明と名づけて池田さんを育てた。
7歳の頃までは、周囲の子どもたちの暮らしと比べればまだ幸せだった。養父母は商人で、暮らし向きも良く、家族で牡丹江市内の四合院に住んでいた。「可愛らしい服を買っては着せ、いつもお花のように着飾ってくれた」、「外出するときは必ず私を連れ、転ばないよう、迷子にならないようにと常に気にかけてくれた」と池田さんは養母の愛情を思い起こす。
池田澄江氏
当時の池田さんは「小日本鬼子(日本人に対する蔑称)」の意味を知らず、たとえ周りの子どもにそう呼ばれても特に気にとめることもなかった。養母も「それはただのあだ名。あだ名がないと大きくなれないんだよ」といって励ました。しかし、7歳になったある日の出来事がきっかけで、この蔑称に特別な意味があることを池田さんは知ってしまう。小学校2年生のときで、抗日戦争を題材に扱った映画を映画館で鑑賞する活動を学校が設け、日本兵が中国人を殺戮する光景をスクリーンを通して目の当たりにした。池田さんを含む校内の生徒全員が憤りに満ちていたとき、突然同級生が池田さんを「小日本」といって責め立てた。池田さんは恐怖のあまり映画館の椅子の下に潜り込んで出て来れなくなった。
この情況に気づいたある先生が池田さんを責めた生徒に、「映画の中の日本兵は悪い人。でも池田さんはただの子ども」だと説明したという。池田さんは感激し、先生が「弱い者を守る偉大な存在」に思えたと振り返る。このときから池田さんの夢は大きくなったら教師になり、この先生のように他人を助けたいと思うようになったという。
8歳の頃、警察が日本人残留孤児の登記確認にやってきた。養母は初めてはっきりと池田さんが日本人であることを告げるも、池田さんはそれでも自分と周りの子どもの違いが分からず、養母を実の母親だと思いこみ、周囲の人の日本人に対する評価を少し気にするようになっただけだった。「日本軍は悪いけど、日本人が皆悪いというわけではない」と養母は慰めた。
9歳になった頃、突然家が破産に追い込まれ、四方八方から借金返済に追われる生活へと一転、養父は投獄され、池田さんと養母の暮らしは貧しさを極めた。年越しの日は隣人からもらった肉を売ってとうもろこしを買い、数日間にわけて食べた。新年に新しい服を着れない池田さんを不憫に思い、養母は自分が嫁入りにもらった服を出して綿入りの上着にして池田さんに着せた。
生活を食いつなぐ養母にも限界がきていた。ある晩、池田さんは養母が寝床にいなくなったことに気づき、慌てて探してみると、養母が首をつる用意をしていた。池田さんは涙を流しながら「母がいなくなったら私はどうするの」と叫んだ。幼い池田さんのためにと、養母は歯を食いしばって耐え凌いだ。その後、池田さんは師範学校に入学、卒業後は山間部の林場にある小学校に配属され、幼少期の夢が実現する。その後、同僚の紹介で林場の作業員と結婚し、3人の子どもに恵まれた。
池田さんは多くの中国人と同じように中国での生活を続けていたが、気がかりが一つだけあった。「自分の身分はなんなのか、私を生んだのは誰なのか」。幼い頃、家庭が困難に直面するたび、「生みの両親が私と養母を助けにきてくれますように」と秘かに念じたこともあった。
1972年の中日国交正常化の知らせには、嬉しさのあまり夜も眠れずにいた。その新聞を部屋の真ん中に貼り付け、何度も何度も読んだ。その後すぐ池田さんは牡丹江に転勤となった。「中日友好の日が来た、生みの両親に会ってみたくなった」そう思った。養母のことを思いこっそりと情報を集めていたが、何ら結果は得られず、思い切って養母に自分の思いを伝えてみると、養母は気を悪くするどころか、進んで当初池田さんを引き取った李家に連れて行ってくれた。残念ながら李家はかなり前に引っ越したということで、結局重要な手がかりは見つからず仕舞いとなった。
養母の博愛は改めて池田さんの養母への敬意の念を深めた。池田さんは「養母は苦労の中を生きた人。私は実の子ではないかもしれないが、養母の愛は生母に勝る。養父母の愛は永遠に忘れられない。来世があるなら来世も養父母の子でありたい」と養父母への感激の思いを語る。養母はすでに他界して30年近くが経つが、残留孤児の養父母を見るたびに自分の養父母を思い出し、「様々な苦労をしながら敵国の子を育てる。どんな情況であれ、私たちそんな彼らの行為に感謝すべき。彼らがいなかれば私たちの今日はない」と自分に語る。
日本で必死に生きた「今村明子」時代
1980年、池田さんは牡丹江を訪問した日本代表団の記者に依頼し、日本の新聞紙面を通じて親戚を探した。すると北海道の吉川という姓の老人の目にとまり、自分が中国に残した娘かもしれないという手紙が池田さんに届いた。双方の描写には類似点が多く、血液型も一致した。
1981年、生みの父親が見つかったと思い込んだ池田さんは6ヶ月の訪問ビザを申請、3人の子を連れ訪日した。当初吉川さん家族は池田さんにとても親切で、言葉こそ通じないが、辞書を片手に楽しく過ごした。その後吉川さんは現地の関係当局に出向き家族である証明を取ろうとしたが、父娘関係の証拠が足りないとしてDNA鑑定を勧められた。3ヶ月後の診断結果、なんと2人は親子ではないことが発覚した。
この結果に吉川さんの池田さんに対する態度は一変、ヒステリックになって池田さんが中国から持ち帰ったものすべてを捨て、追い出されるように家を出ることとなった。当時池田さん夫婦の収入は高くはなかったが、吉川さんにきちんとした贈り物を贈りたいと、出国前にミシンや自転車、腕時計などを売り払って多少価値あるものを用意して贈っていたが、それも無駄になってしまった。関税で両替した日本円も親子4人が中国に帰るだけの航空券は買えず、知人もいない。このとき自殺が頭をよぎった池田さんは、遺書まで何通も書き、中国で待つ夫と養父母に送ろうとしたとき、当時自殺を図ろうとした養母が絶望に満ちた私の姿を見て踏みとどまったのを思い出し、子どものために生きる決意をし、再び方法を考えた。
やるせない思いの中、池田さんは手続きの際に通訳をしてくれた在日華人を思い出し、具体的な住所も知らぬままタクシーでその通訳事務所へ向かった。タクシーのメーターが上がるたび、途中で諦め子どもを連れて降りようと考えた。ある場所まで辿りつくも、道端で途方に暮れていると、そう遠くない場所に建つビルに馴染みのある名前が見えた。ちょうど捜し求めていた通訳事務所だった。
事務所の支援の下、日本にある中国領事館と連絡を取ることができた。領事館を訪れると、親しみのある中国語が聞こえ、思わず涙が溢れた。多少手がかりがつかめた後、池田さんは引き続き日本で家族を探し始めた。日本政府は材料が不十分としてビザの延期を拒否したが、現地の中国人と日本人記者などの支援を得ながら、子どもを連れて北海道から東京に移動、東京での家族探しが始まった。
明らかに戦後の日本人残留孤児であるにも関わらず、日本政府に拒まれる池田さんの遭遇は日本のメディアを通じて広く知れ渡った。そんなある日、河合という名の中国残留経験をもつ弁護士が裁判を手助けすると進んでやってきた。日本の家族を見つけ出せずにいたが、多くの人の支えがあって池田さんは1982年についに日本国籍を取得することができた。日本国籍取得の際に日本名をつけるよう要求されたため、かつて支援してくれた通訳者の苗字と養父母がくれた名前を残して「今村明子」と改名した。
その後池田さんは夫を日本に連れてきたいと考えたが、正式な仕事もなく、夫もビザを取得することができなかった。日本語ができないためにレストランの皿洗いや清掃員のアルバイトをするしかなかった。家族団らんを果たすため、そして老後の生活を保障するため、池田さんは正規の仕事を求め河合弁護士の事務所を訪ねたところ、河合弁護士は自分の事務所で試用期間1ヶ月からスタートして迎えてくれた。池田さんはこのチャンスをつかむため毎日9時から8時まで、事務所を隅々まで清掃し、コピーを手伝い、できることはなんでもやった。その勤勉さが認められ、1ヶ月後に試用期間は3ヶ月に延長され、その後半年に延長され、2年経ったときに正式に法律事務所の正社員として迎えられた。
業務は残留孤児の日本国籍取得サポート。関連の申請には申請者個人の経歴を説明する必要があったため、池田さんはこの間に他の残留孤児の様々な経歴を知ることになる。「1300人の書類を見た。一人一人の書類を見るたびに涙が溢れた」、「私も残留孤児だが、彼らは私よりもっと悲惨」。色々な思いを巡らせながら必死で彼らをサポートした。
家族を探すことだけが望みではなくなった「池田澄江」時代
「今村明子」として13年間日本で生活した後、池田さんにまたも劇的な運命の転機が訪れる。しかも今回は嬉しい進展だった。
池田さんはこの日のことをはっきりと覚えていた。1994年12月4日、池田さんの法律事務所が残留孤児とその親族を対象に説明会を開き、池田さんは通訳としてその場に居合わせた。説明会が終わり、池田さんはすぐには去らずに、個別に質問などに答え、その後会場隣のカフェで休憩を取った。
このとき、説明会に参加していた日本人女性2人が池田さんの前に座り、池田さんに話しかけた。中国語も流暢だった。池田さんも50年前に中国で孤児として残った話や、中国で育った日々の話をした。すると、2人の女性の妹も当時牡丹江に残り、李という姓の中国人に預けられたと言うではないか。その妹の境遇と自分の境遇が余りに似ていているため、池田さんは養父母の家の周囲の地図も描きながらより具体的に当時の様子を説明した。池田さんの説明を聞き終えるやいなや、2人の女性は興奮した様子で立ち上がり、「あなた私の妹よ」と叫んだ。池田さんは全身鳥肌が立ち、「こんな偶然ってあるの?こんなところで姉に会えるなんて」と思わず立ち上がったが、北海道の吉川さんの一件が蘇り、すぐに「でもそうとは限らない。以前間違ったことがある」と冷静になってしまった。
翌日、池田さんはこのことを事務所の人に伝えると、「本当にお姉さんかもしれない」とDNA鑑定を勧められた。運命が再び池田さんをからかうことはなかった。17ヶ月と5日後のDNA鑑定の結果、カフェで偶然出会った女性は池田さんの正真正銘の姉だったのだ。52歳を迎えていた池田さんは、このとき初めて自分は1944年10月14日生まれで、生みの両親が自分に授けた名前は「池田澄江」だったということを知った。戸籍上では「死亡」となっていたが、今度は「今村明子」は「池田澄江」となった。
池田さんはついに家族との再会という夢を果たしたわけだが、それは最大の願いではない。「確かに紆余曲折を経てついに家族を見つけ、自分の出自を突き止めることができたが、事務所にある2600人以上もの残留孤児の案件のうち6割以上が今でも家族を見つけられずにおり、親がつけた名前や生年月日を知らずにいる。まだまだ多くの人が助けを必要としている」と語った。
2005年に中国のメディアが池田さんの元を訪ねてきて、ある日本人残留孤児を見つけて欲しいと言ってきた。なんでも、彼は日本に戻ってから中国の年老いた養父母を見に来ることもなく、日本人孤児に「恩知らず」なやつがいるという噂まで広がっているとか。池田さんはすぐさまその人を探し出し、彼が中国の養父母に会いに行くことを手伝った。
「多くの人が残留孤児の境遇を知らない。当時多くの孤児が言葉も通じないといった原因で仕事を見つけられず、日本政府の月4万から6万円の最低生活手当てで暮らし、差別を受け、日本社会に溶け込めずにいた。しかも、この手当てを受ける人は出国が禁じられており、出国できるお金があるということは手当てなどいらないことになるという理屈で、出国すれば手当てがなくなる。そのため多くの孤児が中国に戻ることができなかった」と池田さんは語る。
当時池田さんは他の残留孤児らと権益保護を訴え東奔西走した。「残留孤児は苦しい生活を余儀なくされている。この問題は日本政府が作り出したもの。あの戦争がなければこんなに苦しい思いをすることはなかった。日本政府は責任をとれ」。池田さんは各地の残留孤児らに連絡を取って署名活動を行ったが、日本政府が対応することはなかった。その後声をあげる人は増えたが、政府はなお相手にすることはなかった。それでも諦めることなく、2002年に2213名からなる残留孤児団体を組織して国を相手に訴訟を起こし、法律を活用して自分たちの権利を訴えた。「中国でも私たちの心中を知らない人は多い。勝訴して孤児を連れて中国に帰り、我々が恩を忘れていないことを伝えたい」という一心だった。
勝訴できると信じていたものの、2007年の判決で原告敗訴が決まった。それでも一連の活動で戦後の残留孤児は少なくとも日本社会の注目を集めた。2007年、中国国務院の温家宝総理(当時)が日本の国会で演説を行った際に、残留孤児の中日交流における重要性を表明した。池田さんは、この演説が残留孤児の生活状況の改善に大きく寄与したという。
2008年、日本政府はついに残留孤児とその家族を対象にした支援措置を講じた。公営の交通機関の一部が無料になり、医療も無料になり、各家庭に6万6千円の手当てがついた。各方面の多くの人たちの支えと、残留孤児らが一致団結して勝ち得た成果だ。池田さんは、原告団はこれで解散するのではなく、結束しなければならないと、2008年に「中国帰国者・日中友好の会」を設立、日本各地に散らばる戦後の残留孤児を束ねて意義ある活動をしようと立ち上がった。
新中国成立60周年を迎えた2009年は、同団体設立2年目の年でもあり、池田さんはかつての約束を守って「謝恩団」を組織し、残留孤児を率いてハルビンと北京を訪れた。そして養父母の墓に参拝し、中国国民への謝意を表明した。抗日戦争勝利70周年の今年も、池田さんは再び「謝恩団」を率いてハルビンと北京を訪問、李源潮国家副主席の謁見を受けた。
2008年の四川大地震発生の際には、池田さんは日本各地の残留孤児に連絡して義捐金を募った。その額は1750万円に上り、その大部分の資金で被災地に中日友好小学校を建設、様々な教育物資を寄付した。「口で中国が好きと言うだけでなく実際の行動で表現しなければならない。皆決して裕福ではないが、それでも快く出してくれた」という。
取材中、「私たちは日本人。でも中国で生まれ育った。中国は最愛の故郷であり、日本は私たちの祖国。日本は私たちの両親や兄弟姉妹が暮らす故郷であり、私たちは心から中日両国の人々を愛している」と池田さんはたびたび涙を流した。残留孤児の物語は、戦争を経験していない若い人でも、平和の大切さを感じることができると池田さんは信じている。「中日両国の平和と友好は私の最大の願いであり、中日両国の友好の架け橋として、命をかけてでも全力で貢献していきない」と池田さんは語った。(編集IM)