2011年12月06日(火) サーチナ
田小雪(日本名・小田純子・26歳)その2
愛知県豊田市の美容院『サロン・ド・カヅミ』の見習いとなった小雪は、再びトヨタの工場の時のような厳しい日本式の生活が始まった。毎朝7時半から朝礼が始まり、4店舗の美容師30人余りが、本店に集まってくる。「おはようございます!」と大声で挨拶して入り、万が一、声が小さいと出直しである。
朝礼が終わると、だだっ広い店舗の床磨きを始める。もし床磨きの後に前日の客の髪の毛が一根でも落ちていようものなら、佐野店長の怒声が容赦なく飛んでくる。床磨きの次は、ガラス磨きである。お客様が自分の晴れの姿を見る正面のガラスに、指紋の一つでも残っていれば、再び佐野店長の雷が落ちる。「半年間の床磨き、ガラス磨きを経てからが美容師の道」というのが店長の口癖だった。
日中も床を掃き清めたり、ハサミを揃えたりと、息つく間もないほどだった。夜の閉店後は、タオルや前掛け類の洗濯が待っていた。50着以上もの前掛けなどを畳み終える頃には、深夜の1時、2時になっていた。
小雪の場合は仕事に加えて、日本語の困難さも伴った。「ドライヤー持ってきて」「ドライヤーって何ですか?」「髪、乾かして」「乾かすって何ですか?」。万事がこんな調子だったので、毎日、先輩美容師たちのイジメに遭った。客や先輩美容師に対しては、当然敬語を使わねばならないが、小雪の日本語能力たるや、敬語どころか簡単な挨拶もおぼつかない程度だったのだ。とにかく先輩から何を言われても「ハイ、分かりました」と返事しないと、「舐めるな!」と毒づかれた。
こうした数カ月経った頃には、同期入社の7人で、残ったのは小雪だけになっていた。まるで軍隊のような生活だったが、トヨタの工場と違って、仕事には面白味もあった。特に、個々の客を前にして、このようにカットとパーマをして、こんな形に髪を仕上げていったら映えるだろうなと想像すると、ワクワクしてくるのだった。先輩が実際に施したヘアスタイルを眺めて、私が想像したものの方が美しいわと、独り内心ほくそ笑むこともあった。
こうして一年ほど過ぎた時、日本語も上達し、先輩たちのイジメもなくなった。この頃から、美容師資格のない小雪は、閉店後に先輩に頭を下げて、先輩を客に見立ててカットやパーマの練習をするようにした。
3年が過ぎて、美容師の通信教育の専門学校卒業証書を得た。卒業式に行ってみると、入学式の時は300人以上いた「同級生」が、5人しか残っていなかった。小雪は、美容師の国家試験を受ける準備に入った。試験は筆記と実技に分かれていたが、この頃は実技の方は自信がついていた。だが筆記試験は、美容の世界は小雪が一番苦手なカタカナの羅列なので、とにかく片っ端からカナカナの美容用語を覚え込んだ。
だがいざ試験に臨んだら、すんなりと合格した。ついに美容師となったのだ。両親にも報告し、佐野店長や先輩美容師たちが、祝福してくれた。
美容師になってからの小雪の実力は、誰もが認めるところだった。小雪は美容椅子に座った客を見て、その客の髪をどういじれば客の姿が一番引き立つかが透けて見えたのだ。だがヘアスタイルを決めるのは、あくまで客の側である。そこで小雪は、3種類の提案をする。その中から客に決めてもらうのだ。
小雪はまもなく、『サロン・ド・カヅミ』のトップ美容師に昇進した。大量の「自分の客」ができ、佐野店長は小雪に、絶大なる信頼を寄せた。いつしか後輩たちの面倒もみるようになった。
『サロン・ド・カヅミ』で働き始めて丸6年が過ぎた2007年秋、22歳になった小雪は、カリスマ美容師たちが技を競う東京で、勝負してみたくなった。インターネットで東京の美容師募集案内を捲っていたら、「エスパシオ 11月23日に田園調布でオープン」という店が目に留まった。電話をしたら、店長が面接するという。
小雪は、新幹線に乗って、はるばる東京まで出てきた。品川で山手線に乗り換え、渋谷で東横線に乗り換えと、散々迷ってようやく田園調布駅についた。小雪は、だだっ広い田園の風景を想像していたが、田園などどこにもなかった。駅前の喫茶店で会った店長は50歳前後の男性で、話していて好感が持てたが、シャイで無口な人だった。「あさってオープン予定だから早く来てくれ」と言われ、小雪は決意を固めた。
『サロン・ド・カヅミ』へいったん戻り、佐野店長に事情を話すと、店を挙げて送別会を開いてくれた。両親には、「必ず成功してこの町に錦を飾る。それまでは戻らない」と誓った。
『エスパシオ』は、東京屈指の高級住宅街の真ん中にオープンしただけあって、緑を基調とした洗練された店だった。男4人、女2人の美容師で始め、美容師たちのレベルも高かった。客も富裕層が多く、有名人たちも足を運んだ。
小雪の実力は折り紙つきで、『エスパシオ』でもまもなくトップ美容師となった。国生さゆりや光GENJIのメンバーなど、「小雪の客」となる有名人も現れた。豊田市で淡い夢を抱いていた、「日本で有名人になりたい。なれないなら有名人の傍で美容を担当したい」という願望は、達しつつあった。またこの頃、実らぬ恋も経験した。
常連客の中には、独り暮らしの小雪を正月に自宅に招いてくれたり、何かとプレゼントをしてくれる人々もいた。 2009年からは、常連客たちの要望で、店が休みの火曜日の夕方、中小企業の社長ら10人ほどに中国語を教えるようになった。不動産、建築、医薬品、自動車・・業種の違いこそあれ、誰もが中国ビジネスで一攫千金を狙っていた。世界的な金融危機を経て、日本経済は急転換を見せ、中国依存度が高まっていった。小雪が中国出身であることが、差別感を持ってではなく、逆に羨望の眼差しで見られる時代になったのだ。
その中の一人から、広東省に投資して美容院を作りたいので店をやらないかと勧められた。中国の最北の出身である小雪は、広東省には行ったこともなく、まったく自信がなかった。それでその話は結局、お断りしたが、「中国で店を出す」という、これまで思いもよらなかった「選択肢」があることに気づいた。
「私の生まれ育った中国で勝負してみようか」--2011年5月、小雪は店に4日間の休暇をもらって、北京に「視察の旅」に出た。
まず向かったのは、「北京で一番有名な日本人カリスマ美容師」が経営している工人体育場脇の巨大な美容院だった。このまだ30代の若い男性美容師は、10 年ほど前に香川県から北京へ出てきて店を出し、北京の多くのセレブ達を顧客に取り込み、大成功を収めていた。「劉翔がアテネ・オリンピックの前にここで髪を切ったら金メダルを獲得した」とか、「有名女性誌主催のミスチャイナ・コンテントの審査員になった」など、北京で話題には事欠かなかった。
小雪は客として予約なしでこの美容院に入り、シャンプーとブローをしてもらった。その間、中国人の美容師たちと、何気ない世間話をした。そして、店内のインテリアから使っているシャンプー類、美容師たちの態度と実力、客層など、あらゆるものを記憶にとどめ、店を出た。
続いて、中国人のカリスマ美容師が経営している何軒かの美容院にも足を運んだ。すでに髪は丁寧にセットしているので、ドアの外にジッと立って、店から出て来る客の頭部を観察したのだ。小雪にはそれだけで、すべてが読み取れた。
こうして4日間の視察を終えた小雪は、東京へ戻る機内で、決心を固めていた。「星の数ほど美容師がいる日本と違い、中国では実力のある美容師がまだまだ少ない。私は美容師としての腕には絶対的な自信があるし、中国語の言葉の壁もない。私が勝負すべきは、北京だ!」。
2011年8月、小雪は4年弱勤めた『エスパシオ』に別れを告げた。この時も、店長や常連客らが、盛大な送別会を開いてくれた。
こうして8月16日の深夜、小雪は3カ月前に降り立ったばかりの北京へ舞い戻ってきた。所持金は30万元(約360万円)、荷物は大型のスーツケース一個だけで、残りはすべて東京に捨ててきた。北京には一人の知人もいなかったが、背水の陣を敷く決意で、退路を断ったのだった。
13歳でチチハルを後にしてから、ちょうど同じ13年が経ち、小雪は26歳になっていた。
<ヘアーサロン小雪 北京市朝陽区建国路93号 万達広場6号楼2108 電話:010-58207995>
(続く)(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)
田小雪(日本名・小田純子・26歳)その2
愛知県豊田市の美容院『サロン・ド・カヅミ』の見習いとなった小雪は、再びトヨタの工場の時のような厳しい日本式の生活が始まった。毎朝7時半から朝礼が始まり、4店舗の美容師30人余りが、本店に集まってくる。「おはようございます!」と大声で挨拶して入り、万が一、声が小さいと出直しである。
朝礼が終わると、だだっ広い店舗の床磨きを始める。もし床磨きの後に前日の客の髪の毛が一根でも落ちていようものなら、佐野店長の怒声が容赦なく飛んでくる。床磨きの次は、ガラス磨きである。お客様が自分の晴れの姿を見る正面のガラスに、指紋の一つでも残っていれば、再び佐野店長の雷が落ちる。「半年間の床磨き、ガラス磨きを経てからが美容師の道」というのが店長の口癖だった。
日中も床を掃き清めたり、ハサミを揃えたりと、息つく間もないほどだった。夜の閉店後は、タオルや前掛け類の洗濯が待っていた。50着以上もの前掛けなどを畳み終える頃には、深夜の1時、2時になっていた。
小雪の場合は仕事に加えて、日本語の困難さも伴った。「ドライヤー持ってきて」「ドライヤーって何ですか?」「髪、乾かして」「乾かすって何ですか?」。万事がこんな調子だったので、毎日、先輩美容師たちのイジメに遭った。客や先輩美容師に対しては、当然敬語を使わねばならないが、小雪の日本語能力たるや、敬語どころか簡単な挨拶もおぼつかない程度だったのだ。とにかく先輩から何を言われても「ハイ、分かりました」と返事しないと、「舐めるな!」と毒づかれた。
こうした数カ月経った頃には、同期入社の7人で、残ったのは小雪だけになっていた。まるで軍隊のような生活だったが、トヨタの工場と違って、仕事には面白味もあった。特に、個々の客を前にして、このようにカットとパーマをして、こんな形に髪を仕上げていったら映えるだろうなと想像すると、ワクワクしてくるのだった。先輩が実際に施したヘアスタイルを眺めて、私が想像したものの方が美しいわと、独り内心ほくそ笑むこともあった。
こうして一年ほど過ぎた時、日本語も上達し、先輩たちのイジメもなくなった。この頃から、美容師資格のない小雪は、閉店後に先輩に頭を下げて、先輩を客に見立ててカットやパーマの練習をするようにした。
3年が過ぎて、美容師の通信教育の専門学校卒業証書を得た。卒業式に行ってみると、入学式の時は300人以上いた「同級生」が、5人しか残っていなかった。小雪は、美容師の国家試験を受ける準備に入った。試験は筆記と実技に分かれていたが、この頃は実技の方は自信がついていた。だが筆記試験は、美容の世界は小雪が一番苦手なカタカナの羅列なので、とにかく片っ端からカナカナの美容用語を覚え込んだ。
だがいざ試験に臨んだら、すんなりと合格した。ついに美容師となったのだ。両親にも報告し、佐野店長や先輩美容師たちが、祝福してくれた。
美容師になってからの小雪の実力は、誰もが認めるところだった。小雪は美容椅子に座った客を見て、その客の髪をどういじれば客の姿が一番引き立つかが透けて見えたのだ。だがヘアスタイルを決めるのは、あくまで客の側である。そこで小雪は、3種類の提案をする。その中から客に決めてもらうのだ。
小雪はまもなく、『サロン・ド・カヅミ』のトップ美容師に昇進した。大量の「自分の客」ができ、佐野店長は小雪に、絶大なる信頼を寄せた。いつしか後輩たちの面倒もみるようになった。
『サロン・ド・カヅミ』で働き始めて丸6年が過ぎた2007年秋、22歳になった小雪は、カリスマ美容師たちが技を競う東京で、勝負してみたくなった。インターネットで東京の美容師募集案内を捲っていたら、「エスパシオ 11月23日に田園調布でオープン」という店が目に留まった。電話をしたら、店長が面接するという。
小雪は、新幹線に乗って、はるばる東京まで出てきた。品川で山手線に乗り換え、渋谷で東横線に乗り換えと、散々迷ってようやく田園調布駅についた。小雪は、だだっ広い田園の風景を想像していたが、田園などどこにもなかった。駅前の喫茶店で会った店長は50歳前後の男性で、話していて好感が持てたが、シャイで無口な人だった。「あさってオープン予定だから早く来てくれ」と言われ、小雪は決意を固めた。
『サロン・ド・カヅミ』へいったん戻り、佐野店長に事情を話すと、店を挙げて送別会を開いてくれた。両親には、「必ず成功してこの町に錦を飾る。それまでは戻らない」と誓った。
『エスパシオ』は、東京屈指の高級住宅街の真ん中にオープンしただけあって、緑を基調とした洗練された店だった。男4人、女2人の美容師で始め、美容師たちのレベルも高かった。客も富裕層が多く、有名人たちも足を運んだ。
小雪の実力は折り紙つきで、『エスパシオ』でもまもなくトップ美容師となった。国生さゆりや光GENJIのメンバーなど、「小雪の客」となる有名人も現れた。豊田市で淡い夢を抱いていた、「日本で有名人になりたい。なれないなら有名人の傍で美容を担当したい」という願望は、達しつつあった。またこの頃、実らぬ恋も経験した。
常連客の中には、独り暮らしの小雪を正月に自宅に招いてくれたり、何かとプレゼントをしてくれる人々もいた。 2009年からは、常連客たちの要望で、店が休みの火曜日の夕方、中小企業の社長ら10人ほどに中国語を教えるようになった。不動産、建築、医薬品、自動車・・業種の違いこそあれ、誰もが中国ビジネスで一攫千金を狙っていた。世界的な金融危機を経て、日本経済は急転換を見せ、中国依存度が高まっていった。小雪が中国出身であることが、差別感を持ってではなく、逆に羨望の眼差しで見られる時代になったのだ。
その中の一人から、広東省に投資して美容院を作りたいので店をやらないかと勧められた。中国の最北の出身である小雪は、広東省には行ったこともなく、まったく自信がなかった。それでその話は結局、お断りしたが、「中国で店を出す」という、これまで思いもよらなかった「選択肢」があることに気づいた。
「私の生まれ育った中国で勝負してみようか」--2011年5月、小雪は店に4日間の休暇をもらって、北京に「視察の旅」に出た。
まず向かったのは、「北京で一番有名な日本人カリスマ美容師」が経営している工人体育場脇の巨大な美容院だった。このまだ30代の若い男性美容師は、10 年ほど前に香川県から北京へ出てきて店を出し、北京の多くのセレブ達を顧客に取り込み、大成功を収めていた。「劉翔がアテネ・オリンピックの前にここで髪を切ったら金メダルを獲得した」とか、「有名女性誌主催のミスチャイナ・コンテントの審査員になった」など、北京で話題には事欠かなかった。
小雪は客として予約なしでこの美容院に入り、シャンプーとブローをしてもらった。その間、中国人の美容師たちと、何気ない世間話をした。そして、店内のインテリアから使っているシャンプー類、美容師たちの態度と実力、客層など、あらゆるものを記憶にとどめ、店を出た。
続いて、中国人のカリスマ美容師が経営している何軒かの美容院にも足を運んだ。すでに髪は丁寧にセットしているので、ドアの外にジッと立って、店から出て来る客の頭部を観察したのだ。小雪にはそれだけで、すべてが読み取れた。
こうして4日間の視察を終えた小雪は、東京へ戻る機内で、決心を固めていた。「星の数ほど美容師がいる日本と違い、中国では実力のある美容師がまだまだ少ない。私は美容師としての腕には絶対的な自信があるし、中国語の言葉の壁もない。私が勝負すべきは、北京だ!」。
2011年8月、小雪は4年弱勤めた『エスパシオ』に別れを告げた。この時も、店長や常連客らが、盛大な送別会を開いてくれた。
こうして8月16日の深夜、小雪は3カ月前に降り立ったばかりの北京へ舞い戻ってきた。所持金は30万元(約360万円)、荷物は大型のスーツケース一個だけで、残りはすべて東京に捨ててきた。北京には一人の知人もいなかったが、背水の陣を敷く決意で、退路を断ったのだった。
13歳でチチハルを後にしてから、ちょうど同じ13年が経ち、小雪は26歳になっていた。
<ヘアーサロン小雪 北京市朝陽区建国路93号 万達広場6号楼2108 電話:010-58207995>
(続く)(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)