2025/12/27 毎日新聞

第二次世界大戦で日本が国内外に残した爪痕を記録し続けてきた写真家、江成常夫さん(89)の600点以上の写真群や関連資料が、昨年までに米大学付属機関に収蔵された。「全人生を賭した写真が次世代に残り、日本の歴史を語り継ぐ」と江成さんは話す。


 収蔵先の米テキサス大のドルフ・ブリスコー・アメリカ史センターは、アメリカの近現代を知ることに主眼を置く。出来事を考察するため、当時の新聞やメモなども保管。ベトナム戦争や湾岸戦争時の報道写真も多く収蔵する。

 江成さんの写真群などはすでに一般公開されている。センターの担当者は「第二次世界大戦は米日の共有の歴史だ。彼の写真はアメリカ史を学ぶ者に重要な研究対象となる」と収蔵の意義を説明する。


 江成さんは、2・26事件が起きた1936年に生まれた。62年に毎日新聞社に入社。写真部でカメラマンとして64年の東京五輪、70年の大阪万博や71年の沖縄返還協定調印などニュースを追った。しかし、「日本はかつてない過ちを記憶から遠ざけようと、経済発展で走り続けた」との思いが残り、74年に退社し写真家の道を選んだ。

 80年代以降、終わらない戦後を問いかける作品群を次々と送り出す。


「花嫁のアメリカ 歳月の風景 1978-1998」より。1934年静岡県出身のこの女性(中央)は、海兵隊員の夫と知り合い結婚して渡米。働きながら3男3女を育てた=1978年撮影


 「花嫁のアメリカ」(81年)では、在日米軍兵士や軍属と結婚し、渡米した日本人女性を現地で撮影。日本の家族への仕送りを続ける人、勘当状態で出国した人など複雑な事情を抱え、異国で暮らしていた人々の肖像をまとめた。


「シャオハイの満洲」より。残留孤児のこの男性は、敗戦時に何歳だったのか、日本人父母の名前も分からない。親族もいつの間にかいなくなっていたという=1981年4月撮影


 「シャオハイの満洲」(84年)では、旧満州(現在の中国東北部)で暮らす残留孤児を訪ね歩いた。裕福に暮らす人は少ない。言葉が通じない同じ日本人から、しきりに名刺を求められたことが忘れられない。

 米国と中国で出会った日本人は30年代生まれの同世代も多かった。戦後日本の恩恵を享受してきた江成さんは、彼らとの境遇の違いに申し訳ない思いが消えないという。農家出身の江成さんは、旧満州に自分がいたかもしれないとの思いがよぎったこともあった。

 想像を絶する犠牲者を生んだ広島、長崎、沖縄、太平洋諸島も巡礼するように訪れた。江成さんの作品の底流にある「鎮魂」の思いが活動を支える。

 同センターは「江成氏の写真作品は、歴史への畏敬(いけい)の念をささげることに焦点を当てている。日本人の視点を通じ、大戦の歴史と今の国際情勢を結びつける糸となる」と評価する。

 重い経験を語る先人が年々世を去るなか、当時を記録した写真が人類の記憶になる。【小出洋平】


名無しの子

公式HP:https://www.nanashinoko.com/
<2025年製作/110分/中国>


「我是日本人还是中国人?」

——私は日本人?それとも中国人?
中国語しか話せない日本人、中国残留孤児。答えのない問いを胸に、80年の歳月を生きてきた彼らは言う。

中国語しか話せない日本人、中国残留孤児。答えのない問いを胸に、80年の歳月を生きてきた彼らは言う。
「私たちの戦争は、まだ終わっていない。」
1945年、第二次世界大戦末期の中国・旧満州。当時そこには、日本の国策によって移住した約150万人の日本人庶民が暮らしていた。
だが、終戦直前、日本軍は彼らを見捨てて撤退。
戦火の中、数多くの女性や高齢者が命を落とし、数千人の幼い子供たちが親と離れ離れになった。彼らは国籍を失い、孤児となり、“名無しの子”となった——。
本作は、日中共同取材チームが100人以上の残留孤児とその家族を、2年にわたって徹底取材。
1990年代に帰国するも、日本社会に馴染めず自殺未遂に追い込まれた一世。
差別の中で自らの居場所をつくるため、準暴力団「チャイニーズドラゴン」を結成した二世。
日中ハーフである自分のルーツを隠し、友人にさえ真実を語れない三世。
——あれから80年。
今もなお「私は誰なのか」を探る彼らの、アイデンティティの物語。
『再会長江』の竹内亮監督が、日中合作チームとともに魂を込めて描く、心の国境を越えるドキュメンタリー。


2025/11/15 共同通信ニュース  

 精神科医で劇作家の胡桃沢伸さん(59)が脚本と演出を務める一人芝居「鴨居に朝を刻む」が15日、初めて長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館で上演された。戦時中、同県河野村(現豊丘村)の村長として、国策の「満蒙開拓団」を送り出した祖父盛さんの日記をひもとき題材とした。

 盛さんは35歳の若さで村長になった。1943年10月、分村移民の送り出しを決めた。当時の日記には「安意のみを願っていては今の時局を乗りきれない」とあった。

 開拓団は敗戦後、現地の人に襲撃され、73人が「集団自決」(集団死)に追い込まれた。分村移民の身を案じていた祖父は、46年4月に村長を辞職し、3カ月後に自ら命を絶った―。

 37歳で集団死の事実を知った胡桃沢さんは、満蒙開拓の「加害」の側面について考え、歴史を伝える活動を続けてきた。

【写真・図表説明】祖父の日記ひもとき芝居に、満州開拓に送り出した村長


 上演に向けて最終調整する脚本・演出の胡桃沢伸さん(右)と主演を務める俳優の川口龍さん=15日午後、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館

 

2025/11/13 毎日新聞/東京

 敗戦時の混乱で旧満州(現中国東北部)などから帰国できず、過酷な人生を強いられた人たちへの理解を深める講演会「中国残留邦人等への理解を深める集いin東京」が24日、千代田区立日比谷図書文化館の日比谷コンベンションホールで開かれる。主催は、支援団体「首都圏中国帰国者支援・交流センター」。戦後80年、戦後世代の語り部たちが元残留邦人たちの記憶を語り継ぐ。

 残留邦人とは、戦前・戦中に旧満州や樺太(現ロシア・サハリン)に農業移民などとして渡り、1945年8月9日のソ連参戦などの混乱で取り残された人たち。逃避中や収容所での飢餓、伝染病などで多くが犠牲になった。親と離別して中国の養父母に育てられた孤児や、地元の男性と結婚して現地に残るしかなかった女性もいた。

 残留邦人は、中国からは72年の日中国交正常化以降、樺太などの旧ソ連地域は91年のロシア成立以降、次第に帰国できるようになった。ただ、すでに中高年になっており、帰国後に言葉の壁や文化の違いに苦しむ人が少なくなかった。

 同センターでは、記憶を語り継ぐため、戦後世代の語り部の育成に力を入れている。

 当日は、センターで研修を受けた語り部たちが講演。中国残留者や樺太残留者を伝える映像も上映し、語り部育成事業に協力している駒沢大の加藤聖文(きよふみ)教授の講演もある。

 午後1~4時15分。定員200人。入場無料。事前申し込みが必要。問い合わせは同センター(03・5807・3171、メールfukyu@sien-center.or.jp)。月曜日休み。【鈴木玲子】〔多摩版〕
■写真説明 戦後世代の語り部による講演=首都圏中国帰国者支援・交流センター提供
 

2025/11/12 徳島新聞朝刊

 中国と日本、そして徳島の友好に力を尽くしてきた徳島市国府町出身の残留孤児、烏(ウ)雲(ユン)さん(日本名・立花珠美)が亡くなった。

 子どもの頃、旧満州(中国東北部)で家族5人を一度になくし、中国人の養父母に育てられて生き抜いた。戦後、現地で砂漠の緑化活動を通じて故郷・徳島との友好をはぐくんできた功績は大きい。ご冥福を祈りたい。

 87年の生涯で烏雲さんが求めたのは平和だった。戦後80年の今年、「第一の祖国日本と、第二の祖国中国との友好関係を心から祈っている」と語った。

 国際情勢が緊迫の度を深める中、烏雲さんの波瀾(はらん)万丈の人生を知り、争いのない世界がどれほど大切か、理解を深めねばならない。

 烏雲さんの人生が大きく変わったのは7歳のとき、終戦直前だった。住んでいた満州に旧ソ連が侵攻し、日本人を襲った。

 男性は兵士として召集されており、逃げる一団のほとんどは高齢者と女性、子どもだった。途中、烏雲さんらはソ連軍戦車隊の攻撃を受ける。戦車にひかれ、銃撃された人は数知れない。幼い子どもを道連れに自ら命を絶つ母親もいた。

 終戦時、満州の邦人は推定155万人。国策で入植し、20万人が引き揚げの際に亡くなったとされる。無謀な戦争がもたらした悲劇を忘れてはならない。

 1972年の日中国交正常化以降、多くの中国残留邦人の身元が確認されたが、烏雲さんは日本に帰らず、中国に残る道を選んだ。

 日本人を敵視する人がいる中で愛情を注いでくれた養父母に対し、烏雲さんは後に「感謝しかない」と語っている。かつての敵、味方の国の枠を超えて結ばれた強い縁と言えよう。

 「育ててくれた養父母と中国への恩返しをしたい」と94年に始めたのが、内モンゴル自治区通遼市に広がるホルチン砂漠を緑化する「烏雲の森」づくりだ。樹木の切り過ぎで砂漠化が進み、住民は砂ぼこりなどに悩まされていた。

 徳島でも、共感した人たちが97年に烏雲の森沙(さ)漠(ばく)植林ボランティア協会を設立。これまでに小中高校生を含め、延べ600人以上が現地を訪れた。植えた苗木はポプラやニレなど約50万本に上る。

 この30年近くで苗は大きな木になり、乾いた砂漠が緑に変わった。同じように烏雲さんと徳島の会員らが築いた友好はしっかりと根を張り、成長してきたと言えるだろう。

 戦争体験者が少なくなり、中国残留孤児の存在が忘れられつつある中、日中の懸け橋となった烏雲さんの活動を思い起こし、伝え続ける必要がある。