南信州新聞2024/08/18

 長野県豊丘村史学会と村公民館は11日、同村出身で東京理科大学大学院に通う大橋遼太郎さん(24)を講師に迎え、歴史講演会・平和学習会を開いた。大橋さんは、中国で過ごした3年間の小学校生活をつづった書籍「七歳の僕の留学体験記」の著者。この日は「七歳の少年が体験した中国 戦争と友情と平和」と題し、中国での学校生活を通じて身近に感じた「戦争」について思いを語った。

 大橋さんは、満蒙開拓団として家族で旧満州に渡って残留孤児となり、1978年に永住帰国した祖父のいる中国残留邦人3世。99年に豊丘村で生まれ、2007年から10年まで母親の留学により中国で過ごした。帰国後は豊丘南小学校、豊丘中学校、飯田高校を卒業した。
 この日の講演では、中国での小学校生活を紹介。中国語に苦労しながらも、温かい先生やクラスメートに支えられ友情を深めていたが、ある国語の授業で戦争を突きつけられたと明かした。
 授業で扱われたのは、日本兵が中国の少年を殺してしまう内容の物語だった。「初めて戦争について知り、心が痛くなった。日本人の自分が責められている気がして怖くなった」。もう誰も一緒に遊んでくれないかもしれないと授業が終わっても動けないでいたが、周りにはいつもと変わらない笑顔の友人がいたという。
 この日をきっかけに、「自分が生まれる前に起き、今の自分たちの関係を邪魔しようとする戦争が憎い。でもなかったことにはできない。じゃあどうすればいい」と自問自答を始めた。「負の歴史を学び、そこから目を背けるのではなく、自分に何ができるかを考え続けていきたい」と決意した。
 現状について「日中両国で相手国に対する印象があまり良くない状態にあることが悲しい」とし、「実際に会って関わりを持つと、互いに親切で寛容であることが実感できる。自分の体験を多くの人に伝えることで相互理解を促し、友好平和に少しでも寄与できれば」と力を込めた。

中国新聞2024/08/16

 戦争体験の聞き取りを半世紀以上続けてきた世羅町小国の山下義心さん(88)が、「最後の活動」となる証言会を開く。米寿を節目に、9月8日にせらにしタウンセンターで開く「平和祈念の集い」を集大成とする。

 先の大戦で約800人が旧満州(中国東北部)に渡り、現地の第二世羅村で集団自決を選ぶなど200人以上が亡くなったとされる世羅郡。地域の歴史を知った山下さんは25歳ごろから、旧満州に渡った青少年義勇軍や看護師たち町内外の約50人から話を聞いてきた。「戦争だけはもう二度としてくれるな」。証言をした人の多くは、そう付け加えたという。

 戦争の悲惨さを伝えるために企画した体験者の証言会は約30回に上る。亡くなった人の体験や思いは山下さん自身が伝え、2022年には14人の声を集めた証言集も発行した。一方で話を聞ける人は年々少なくなっていた。

 集いは午後1時半からで、山下さんが所属する世羅郡文化財協会世羅西地区部会の主催。旧満州で生まれた元中国残留孤児の赤崎大(ひろし)さん(広島市西区)を招き、両親と幼い姉妹を亡くし、13歳で帰国を果たすまでの苦難などを語ってもらう。日中国交正常化50周年の記念イベントに出演した国際ピアニスト水上裕子さんの演奏もある。

 山下さんは「戦後80年近くたち、先の大戦の悲劇が人ごとになっていると感じる。一人でも平和の草の根運動に立ち上がってほしい」と願う。(矢野匡洋)
 

2024/08/14 毎日新聞/埼玉

 太平洋戦争終結後の1946年に中国・旧満州から日本に引き揚げた女性が後年、苦難の道中を手記に残していた。戦後埼玉で暮らし、2022年に104歳で亡くなった宮崎静江さん。70歳の頃、記憶をたどり自身の体験を記したという。ソ連兵や中国の人たちによる襲撃。幼いわが子を失った体験……。壮絶な出来事が記録されている。

 ◇冷たくなる次男、飢えの苦しみ…
 1949年生まれの娘、竹内敬子さんは「この手記により家族の戦争体験を知ることができ、今の時代にウクライナやパレスチナ自治区ガザで起きていることを考えるきっかけにもなっている」。専門家は「戦争の現実を伝える、価値ある内容」と評価している。

 宮崎さんは18年、長野県で生まれ、36年に事実上日本の植民地だった満州へ。南満州鉄道(満鉄)関連の会社で働いていた男性と40年に結婚式を挙げた。終戦間際の45年8月、旧ソ連の侵攻を受け国境の町・黒河を出発。夫は終戦直前に軍に駆り出され、3人の子を連れての逃避行となった。

 手記の冒頭は8月12日。旧ソ連との戦いが始まったと知らされ、荷馬車で黒河を離れたが「飛行機が高度を下がったと思う間もなく撃ちだす」。その後、愛琿から乗った汽車では「繰り返し機銃掃射が続いた。急に扉が開いてけが人が運び込まれた」とつづっている。

 8月15日、南下して到着した北安で天皇の玉音放送をラジオで聞いた。満鉄関連の施設にいたが、中国の人々が押し寄せ、たんすや雨戸を持ち出す様子を目撃。「200~300人の中国人が私たちを1カ所に集め、周りを取り囲み、持っている物を出せと強迫する」
 2日後から学校の教室で60~70人での共同生活を開始。「食べ物は1日3回、コーリャンと雑炊が配給になるだけ」「はしかがはやり始め2、3歳の子どもがばたばたと死んでいく」と記す。

 北安でしばらく過ごした後、汽車で南下。道中を「死んでしまった赤ちゃんをおぶっていた人も川の上から赤ちゃんを捨てた。ドボン、ドボンといくつもの音がする。捨てる人の顔も死人と同じ色」と振り返っている。

 秋以降にたどり着いた新京では知人宅に。2歳の次男は、「夜となく昼となく品物を取りに来る」ソ連兵から抱いて逃げる中、気がつくと冷たくなっていた。「かわいそうに思う一方、親孝行のために死んでくれたのかとも思った。小さい子ども3人を連れていた私はさすがに疲れていた」
 近くの公園は日本人の墓標でびっしり。次男の亡きがらを埋めたが、翌日には周囲はローラーで地ならしされた状態に。「戦に負けた者の悔しさがこみ上げてくる。わき出る涙をどうすることもできなかった」という。

 2人の子と向かった奉天では義姉の家で暮らし、露店が並ぶ広場で自身もたばこなどを売る生活。「商人育ちの私は誰にも負けたくなく大声を張り上げた。饅頭屋など何をやっても人より売れる。気持ちもすっかり落ち着き、体も元に戻ったようだ」と書いている。

 奉天で46年を迎え、暖かくなってから錦県、葫蘆島へと移り、ようやく米国の荷物船で帰国の途に。「馬や牛を運んでいたのか、わらが一面に敷いてある」。持ってきた食べ物は底をつき、飢えに苦しんだ。9月、博多港に上陸。「頭から足の先まで、きな粉餅のように(殺虫剤の)DDTをかけられた」「ご苦労さまの声に迎えられ、やっと帰れたと実感が湧き涙が落ちる」と結んでいる。

 ◇弱者苦しむ戦争の本質、象徴的に 駒沢大・加藤聖文教授、引揚者は「難民」
 戦争に負け、それまで“支配する側”にいた日本が逆の立場になっていく状況下で、一般の人々はどのような事態に直面したのか。そのことを示すエピソードが、旧満州から日本に引き揚げる道中の体験を記したこの女性の手記には、象徴的に分かりやすく書かれている。

 満州から引き揚げる渦中にいた人たちはいわば“難民”だ。爆弾が落ちてくるといった「直接的な」被害とは異なり、長期にわたる「間接的な」被害で多くの人が犠牲になっている。戦争が起きた時、一般市民はこのような形で命を落とすようなことが多い。

 満州の場合、戦争は既に終わっているのに、もう戦闘は行われていないのに、人々は厳しく苦しい体験を強いられた。それが戦争というものの本質であり、ウクライナやパレスチナ自治区ガザで起こっている出来事も同様だ。

 戦争は社会秩序を破壊する力が桁外れに大きく、新しい秩序が生まれるまでは混乱が続いて弱者が苦しむ状況になる。この手記には現実には何が起きうるかが記されており、今の人たちが「なぜ戦争をしてはいけないのか」を理解するために重要な意味を持つだろう。

 また、そもそもこのような人たちがなぜ満州で生活していたのか想像する必要がある。そこから、大日本帝国が満州などの植民地を獲得していった歴史が見えてくる。近代の歴史の文脈の中で引き揚げの事実も考えなければならない。

 ■ことば
 ◇満州からの引き揚げ
 1931年の満州事変を機に日本は満州を占領し、翌32年に「満州国」建国を宣言した。終戦時、開拓移民らを含め約155万人の日本人が満州にいたとされる。国家の保護がなく放置された状態となり、帰国(引き揚げ)は困難を極めた。うち17万人余りが死亡。兵士ら57万5000人がソ連によりシベリアなどに抑留され強制労働に従事。肉親と離れて取り残された残留孤児も生まれた。

 ■人物略歴
 ◇加藤聖文(かとう・きよふみ)氏
 1966年、愛知県出身。専門は日本近現代史、歴史記録学。著書に「海外引揚の研究 忘却された『大日本帝国』」「満蒙開拓団 虚妄の『日満一体』」など。

■写真説明 旧満州からの引き揚げ体験を手記に残した宮崎静江さん(手前、100歳のころ)と娘の竹内敬子さん=さいたま市で2019年(いずれも家族提供)
■写真説明 旧満州で生活していた当時の宮崎静江さん

2024/08/13 山形新聞朝刊

鶴岡市 小田郁 64歳
 本県から満州開拓団・義勇隊への参加は約1万7千人。全国では長野県に次いで多い。わが家とは無縁だと思っていたが、違った。

 鶴岡から渡満し開拓団の学校の教員となった夫妻の消息を調べるため、今年2月、古い名簿の写しを見ていた時だ。突然、叔父の名が目に飛び込んできた。本籍が黒塗りだが生年月日から叔父に間違いない。父の兄弟姉妹11人のうちただ1人、南方で戦死した叔父のことを聞いてはいた。軍装の写真も勲章も仏壇にあった。しかし、出征前の叔父が参加していたとは。

 それから調べて分かったこと。事情を知る伯母の手記も見つかり、叔父が「義勇隊に行った」と書かれていた。1938(昭和13)年当時、祖父が海に近い小さな村の学校に校長として赴任、一家はそろってその地域に居住。その村から義勇隊に参加した7人の中に叔父はいた。一時期ブームとも言われた開拓団に若者たちが希望に燃えて参加したのか。校長としての祖父は国策にわが息子も参加させるべきだと苦渋の決断をしたのか、あるいは積極的に後押しをしたのか。

 寒さ厳しい満州の地、食料事情や生活環境など耐えがたい辛苦もあっただろう。訓練の末の南方派遣だったのか。「昭和19年7月マリアナ方面で戦死」。没後80年、若くして戦死した叔父に妻子はいない。今、初めて叔父の軌跡を知った私たちいとこは等しく「遺族」として叔父の魂を悼む。

2024/08/11 大阪読売新聞=香川

 ◆「シベリアシリーズ」描く画家・千田さん 
 祖父はなぜ多くを語らなかったのか――。第2次世界大戦後、シベリアに抑留された祖父への問いの答えを探すように、孫の画家・千田豊実さん(42)(さぬき市)があの戦争を伝える活動に取り組んでいる。87歳で亡くなるまで体験を油絵に描き続けた遺志を継ぎ、抑留をテーマに作品を発表。今年からは戦争の語り部を囲む座談会を始めた。(浦西啓介)
 異様な1枚だった。

 白いキャンバスは漆黒に塗り込められ、やせ細った複数の人物がよろめき、地面に横たわる。千田さんの祖父、川田一一(かずいち)さんが1995年に描いた作品に、当時、中学2年生だった千田さんは息をのんだ。

 絵を習うことになった千田さんに、「俺のも買うてくれ」と頼んで道具を手に入れ、70歳で初めて絵筆を握った。「戦争で負けた国のもんはつかまるんや」。それ以上は語ろうとせず、千田さんも「怖くて何も聞けなかった」。収容所を描いたと知ったのは約半年後だった。


 さぬき市出身の川田さんは1943年、17歳で満州(現中国東北部)の南満州鉄道に入社。その後、徴兵されて高射砲隊員として終戦を迎え、旧ソ連軍の捕虜となり、現在のカザフスタンにあった収容所に送られた。帰国は48年12月だった。

 抑留者は「共産主義に染まったシベリア帰り」と差別された時代。川田さんも「何で帰ってきたんや」と心ない言葉をかけられたという。3年あまりの抑留体験を封印し、農業と畜産業で戦後を生きた。

 70歳で肺気腫を発症。胸の奥にしまった記憶を吐き出すようにキャンバスに向かった。「この夕日の赤はシベリアでしか見れん」「文章よりも絵の方が表現しやすい」。多摩美術大に進んだ千田さんに少しずつ語るようになり、2009年からは2人展を開催。10年には舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)でも作品を展示した。


 川田さんが残した作品は約30点。晩年には、引き揚げ船を見送るように舞うホタル、シラカバが立つ大地に手を合わせる遺骨収集団など、「異国で倒れた仲間への慰霊の気持ちが強くなった」と千田さんはいう。

 「体験していない自分が描けるのか」との迷いはあったが、戦争体験者が少なくなる中、「祖父の目を通してなら」と発想を転換し、シベリア抑留を描くことを決意した。

 初めての2人展に向け、09年に「生き続ける鼓動」「生き続けた鼓動」を制作。時間を象徴する白の点を画面にちりばめ、横一列に捕虜が行進している。月明かりの下、捕虜の列を描いた川田さんの「異国の丘―月照」がモチーフだ。

 12年10月に川田さんがこの世を去ってからも、「シベリアシリーズ」として、真っ赤な大地に無数の顔が見える「シベリアで眠る人々」などを発表してきた。


 死別から10年。「今に伝えるだけでなく、先の世代にも伝えなければ」と考えるようになった。

 昨年夏、知人で四国学院大准教授の仙石桂子さん(43)に「祖父の体験を演劇にできないか」と伝えた。劇団を主宰し、脚本・演出を手がける仙石さんは「戦争についてきちんと知らないままでは、頭の中だけで描くことになる」と考え、語り部や戦没者遺族に話を聞く座談会を始めることになった。

 5月の初回には、香川近代史研究会のメンバーを招き、旧日本軍の捕虜を収容した善通寺俘虜(ふりょ)収容所について、学生や市民ら約30人とともに学んだ。来年2月まで満蒙開拓団やシベリア抑留、引き揚げをテーマに3回開く。

 戦後80年の来年、舞台化を目指す。仙石さんは「抑留を直接描写するのではなく、千田さんら家族を通して、体験を語ることができず、苦しみ続けた川田さんを描くことで戦争の実相に迫りたい」と構想を練る。

 千田さんは誓う。「祖父は絵を描き、シベリア抑留を伝えることを晩年のライフワークにしていた。その使命を受け継いでいくことが、私の課題だと思う」
     ◇
 時とともに薄れゆく戦争の記憶。戦場の露と消えた肉親や友を思い、活動を続ける語り部、「戦争遺構」を次世代に伝えようとする人たちがいる。終戦から79回目の夏。あの戦争を後世に伝える姿を、四国で見つめる。

 写真=(上)川田さんの「異国の丘―月照」を見つめ、シベリア抑留を語り継ぐと誓う千田さん(さぬき市で)(下)千田さんの「生き続ける鼓動」=本人提供
 写真=舞台化への構想を語る仙石さん(善通寺市で)