読売新聞2026/04/24 05:00


 満州(現中国東北部)に渡った「満蒙開拓団」の犠牲者を追悼する慰霊碑が立ち並ぶ多摩市の「拓魂公苑」で今月12日、慰霊祭が開かれた。存命者が少なくなる中、過去を学ぶ場にもなり、歴史を後世に伝えていくための模索が続いている。(石井恭平)



 「犠牲になった開拓団、青少年義勇軍、動員された朝鮮の方、犠牲になった中国、モンゴルの方を含めて、黙とうをささげます」

 司会のあいさつで、約70人が黙とうをささげた。その中に、横浜市から訪れた中島千代吉さん(97)の姿もあった。

 中島さんは山形県に生まれ、1943年に14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」に参加。翌年に満州に渡り、病院で衛生業務に当たった。45年8月の降伏直前に始まったソ連の侵攻などで、所属した部隊346人のうち約90人が死亡した。中島さんはソ連軍に拘束された後、病気になった別の部隊の日本人の世話係として満州の収容所に残された。看病したが約60人が亡くなり、自身は翌年10月に日本の土を踏むことができた。

 「看病した名前も分からない病人は誰も日本に戻って来られなかった。自分だけ生き残ってしまった罪悪感がある」と話す中島さんは、70年代から毎年、拓魂公苑を訪れて慰霊碑に献花する。「仲間の部隊やほかの慰霊碑が集まっている拓魂公苑は心のよりどころ」と語った。


■■保全が課題


 拓魂公苑は、満州からの引き揚げ者らが63年、「拓魂」と書かれた碑を建設したのが始まりで、引き揚げ者らでつくる全国拓友協会が毎年4月の第2日曜日に慰霊のための「拓魂祭」を開催してきた。周囲には各開拓団や青少年義勇軍の慰霊碑の石柱170柱が並ぶ。

 2001年に都に土地や慰霊碑が協会から寄贈され、都立公園の一部になった。その後協会が解散すると開拓団の関係者らが追悼してきたが、20年に研究者や支援団体で作る「『満蒙開拓』を考える連絡会」が結成され、一般市民も参加する形で慰霊祭を執り行っている。

 同連絡会でシベリア抑留者の支援などをしている有光健さん(75)によると、各地の開拓団の慰霊碑が集まっている場所は全国で唯一という。碑の老朽化が進んでおり、都は石柱を鉄製の柵で補強する転倒防止工事を行ったが、今後地震などで倒壊した場合、誰が修復を行うのかは決まっておらず、保全が課題だ。


■■歴史学ぶ場所


 一方で、拓魂公苑は満州の歴史に関心を持つ若い世代が集まる「場所」ともなっている。3月まで東京芸大の大学院生だった台東区の阿部修一郎さん(30)は、今回初めて慰霊祭に参加した。

 能登半島地震の被災地のドキュメンタリーを撮り、被害の記録をどう残していくかをテーマに研究した。過去にも目を向けるようになり、満蒙開拓の歴史がどのように受け継がれているのかを知りたいと考えて参加した。阿部さんは「当事者や遺族以外の人も集まり、緩やかな形で記憶を受け継ぐ場所があるのは大事だと思う」と語った。

 有光さんは、「『拓魂』という言葉には満蒙開拓を顕彰する意味合いがあるが、今は客観的に歴史を学びたいという人たちが多く集まっている。直接関係ない市民が満州の犠牲者を悼む集いに移り変わりつつあり、歴史認識の問題を含めて整理していくことは宿題だ」と話している。



東京新聞2026年4月20日 06時00分


 戦前戦中に旧満州(中国東北部)へ農業移民などとして国策で送り出された「満蒙(まんもう)開拓団」の犠牲者らの慰霊式が12日、東京都多摩市の「拓魂(たくこん)公苑」であった。慰霊式は開拓団が編成されたそれぞれの地域で営まれるケースが多く、全ての犠牲者を対象にした集いは他にないという。(森本智之)


◆1963年に慰霊碑を建立、毎年4月に慰霊式を開いてきた



 公苑は、多摩市の丘の上にある。1963年、元開拓団員らでつくる「全国拓友協会」が慰霊碑を建立。これを機に毎年4月に式を開いてきた。2009年に協会は解散した後も有志が引き継いでいる。

 満州への移民は、1932年に「満州国」が建国されたのがきっかけだ。支配を確立する目的のほか、当時の日本国内は農村部の耕地が不足し社会問題になっていたという事情があった。途中からは今の高校生前後の年代の青少年義勇軍も創設された。移民の総数は約27万人。そのうち約8万人が終戦直前のソ連参戦などで亡くなった。日本に戻れなかった残留孤児や婦人、ソ連によるシベリア抑留者も生み出した。


◆逃避行で3歳の弟は「処分」され

 慰霊式には、最盛期には2000人も集ったと言われるが、戦後80年を過ぎて当事者は減り、この日の参加者は60人ほどだった。

 「あと余命いくばくもないので、きょうは最後のつもりで参加しました」。東京都板橋区の星健一郎さん(91)は新潟県出身。1937年に一家で満州へ渡り1945年の終戦時は10歳だった。8月9日、ソ連が参戦すると、開拓団の仲間約200人での逃避行が始まった。父とは離れ離れになり、母が星さんや幼いきょうだいを連れて逃げた。


 一番下の弟は「当時3歳」。開拓団の幹部から「足手まといになるから置いていった方がいい」と声を掛けられた。「処分するということです。おふくろは随分渋ったけど、みんなに迷惑掛けるのは困るからと泣く泣く置いてきました。そういう子が他にもたくさんいたんです」

 「開拓団の団長や、弟を執行した人は責任を感じていた。戦後は毎年、家に来て仏壇に参っていましたから」

 弟の名前は光正ちゃん、という。写真も残っていないが、星さんははっきり覚えているという。


◆「負け戦に駆り出されてみんな死んだんだ」


 横浜市の中島千代吉さん(97)は元義勇軍。「もう満州のことを思い出すのは嫌だ」と言いながら、1970年代から約半世紀にわたり毎年、参列している。「自分は生きてるからね。罪悪感があるんです」。当時16歳。ソ連軍機からすさまじい機銃掃射を受け、多くの仲間を失ったという。「山積みになった死体は忘れられない。負け戦に駆り出されてみんな死んだんだ」

 名古屋市の細井博充さん(74)の父は元義勇軍でシベリア抑留も経験した。漫画が得意で、満州では小さな子どもたちの遊び相手になっていた。2005年に81歳で亡くなった。告別式のあいさつでそのことを紹介すると、参列者の一人から「お父さんは『のらくろのお兄ちゃん』と呼ばれていた。満州で私たち一家は命を助けてもらった」と涙ながらに声を掛けられた。ソ連参戦時、小さい子どもらの一家を軍のトラックで優先的に逃がすよう交渉してくれたという。細井さんは「父は毎年、参列していた。父の気持ちを酌んで私も来ています」と話した。


◆開拓団の歴史には「国家と個人の関係を問い直す意味」


 ノンフィクション作家の梯(かけはし)久美子さんは自著で、開拓団について「国の勧めに従って海を渡った農民たちは(中略)戦後、国とは何か、国策とは何かという問いに直面せざるを得なかった」と書いた。開拓団を研究する高橋健男さん(80)=新潟県見附市=はこの言葉を踏まえ、「開拓団の歴史を知ることは、現代の私たちにとっても国家と個人の関係を問い直す意味がある」と話した。

朝日新聞2026/4/18 (土) 10:00方正=岩田恵実


 中国東北部・黒竜江省方正県にある、満蒙開拓団員らの遺骨が納められている日本人公墓から、「中日友好園林」と書かれた門が姿を消した。かつては「日中友好」を象徴する場所だったが、日中関係が変容するなかで、中国当局にとって扱いにくい施設となっているようだ。



 公墓は方正県中心部から車で15分ほどの田園地帯にある。昨年7月時点では「中日友好園林」と記された門があり、施錠されていた。ところが今年3月末に再び公墓を訪ねたところ門がなくなっており、有刺鉄線の柵が設置されていた。門前にあった「園林は中日友好関係を進めるのに重要な意義を持つ」などと中国語で書かれた碑もなくなっていた。


高市首相の国会答弁の影響は

 公墓は地元政府が管理している。現地にいた管理担当者に尋ねると、門は昨年秋に撤去されたといい、「倒壊の恐れがあった」と説明した。撤去時期は昨年10月ごろといい、昨年11月の高市早苗首相の台湾有事をめぐる国会答弁は「関係ない」と話した。

 公墓の敷地内に入れないか頼んだが、「防犯カメラがある」として断られた。中国人も立ち入りは制限されているが、「日本人であれば、もっと入ることができない」と語った。


 多くの開拓団員を出した長野県にある満蒙開拓平和記念館などによると、旧満州には27万人の開拓団員が日本から送られた。戦争末期に侵攻してきたソ連軍から逃れるため、開拓団員らは開拓地から日本に逃れようとし、その経由地となったのが方正県だった。

 しかし中国メディアなどによると、命からがら同県に逃れてきた約1万5千人のうち、約5千人が飢えや病気で死亡したとされる。そして行き場をなくした約4千人の女性や子どもが中国人の家庭に引き取られた。


周恩来首相が許可

 また、生き残るために現地で中国人の妻になった松田ちゑさんが1963年、開墾作業の際に開拓団員らとみられる多くの遺骨を見つけたとされる。「葬ってやりたい」と役所に願いでると、中央政府に話が上がり、当時の周恩来首相が許可して公墓が設置されたという。

 95年には、残留孤児として中国の家庭で育った遠藤勇さんが日本に帰国を果たした後、育て親らのための「中国養父母公墓」を近くに設置した。

 こうした縁から、方正県はかつては日本との関係づくりに力を入れていた時期があった。残留孤児らが日本に帰国後、親族を呼び寄せたことなどを機に、多くの人が日本に移住。日本とのつながりを県の特色にしようと、街の看板に日本語を併記させたこともあった。日本からの投資に期待していた側面もあるとされる。


「最も日本のスパイが多い」との投稿も

 だが、2011年、同県が70万元(当時約840万円)をかけて開拓団員の慰霊碑を建立すると、全国から「なぜ侵略者の慰霊碑を建てるのか」と批判が殺到した。同県は碑を撤去。看板から日本語も消され、日本とのつながりを隠すようになった。

 現在でも中国のSNS上でこの慰霊碑建立が話題となり、方正県は「お金のために気骨をなくした県だ」、「最も日本のスパイが多い」といった投稿が相次いでいる。

 県はこうした経緯から、門のように日本との関係を示すものを撤去し、注目されないように公墓を取り扱っている可能性がある。

 多くの開拓団員を出した長野県の満蒙開拓平和記念館の寺沢秀文館長は慰霊のため10回以上にわたって公墓を訪れてきた。しかし、近年は当局から敷地内の立ち入り許可が下りなくなり、元開拓団員も多くが亡くなっているという。一方で、寺沢館長は「戦争の記憶を風化させないというのは中国にとっても日本にとっても大事だ」といい、門の新設や、墓参りの再開を望んでいる。

 公墓や日中交流に関する会報をつくっている日本の民間団体「方正友好交流の会」の大類善啓理事長は、「公墓の存在は戦争の加害や被害を超えた国際主義に基づいている」といい、門の撤去について「時代が変わってしまった。新設してほしいが、現在の政治状況では難しいだろう」と話す。



朝日新聞2026/4/6 (月) 11:00


 戦前、愛知県内で唯一旧満州(中国東北部)に地域ぐるみで送り出された東三河郷開拓団の慰霊祭が5日、同県新城市の桜淵公園であった。敗戦後の混乱で600人中200人以上が現地で死亡しており、1971年に拓魂碑を建立。慰霊を続けている。

 桜の花見客でにぎわう公園の奥の拓魂碑前に集まったのは約30人。元団員は年々減り、この日は父母きょうだい7人を現地で失った名古屋市西区の橋本克巳さん(90)のみ。橋本さんは「国策とは何だったのか。あまりに酷(ひど)い結果だった」と語った。現在、生存者は橋本さんを含め3人という。この日は平和学習に取り組む豊橋ユネスコ協会の会員も約10人が参加した。

 戦前、国策で進められた満州開拓だが、軍需産業が多く労働力不足だった愛知では、同開拓団が唯一。新城市など東三河から送られた。参列した下江洋行・新城市長(61)は「長野県などに比べ、開拓団の歴史が知られていない。行政としても語り継ぎに努力したい」と語った。


朝日新聞2026/4/8 (水) 14:00

編集委員・大久保真紀


連載「引き裂かれた絆」 第11回(最終回)

 中国残留日本人孤児だった庄山紘宇さん(88)=熊本県菊陽町=は、80歳のときに再婚した。

 相手は、当時中国黒竜江省ハルビン市に住んでいた郜鳳琴(カオフォンチン)さん(82)。2018年の暮れのことだ。

 「妻の母は日本人。でも、妻は日本政府に残留孤児と認定されず、日本に帰りたくても帰れないと聞いたから」。庄山さんはそう語る。


 郜さんは5歳のとき、自転車屋を営む中国人の養父母に引き取られた。周囲から「日本鬼子(リーベングイズ)」「小日本(シャオリーベン)」などと呼ばれ、7~8歳のころには「自分は日本人なのかもしれない」とうすうす気づいていた。

 でも、我が子のように育ててくれた養父母に直接尋ねることはできなかった。14歳から働き、18歳で結婚。2人の子どもができた。


 1972年の日中国交正常化の後のことだ。

 病を患う養父から、古びた一枚の便箋(びんせん)を渡された。

 実母が自分を養父に引き渡す際に書き残したもの。手書きで「生活難で育てられない」と書かれてあった。日付は1949年6月。

 養父は言った。「お前は日本人。肉親を捜しなさい」


 その便箋に、実母とともに名前が書かれていた中国人男性を必死で探した。なんとか見つけ出して訪ねると、こんな説明をしてくれた。

 実母は戦後すぐに郜さんを養家に託し、道で行き倒れているところをこの男性に助けられ、一緒に暮らすようになった。

 郜さんをいったん養家から引き取ったが、貧しくて育てられず、結局、別の養家に預けたのだという。それが郜さんを育てた養父母だった。


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