2024/08/14 毎日新聞/埼玉

 太平洋戦争終結後の1946年に中国・旧満州から日本に引き揚げた女性が後年、苦難の道中を手記に残していた。戦後埼玉で暮らし、2022年に104歳で亡くなった宮崎静江さん。70歳の頃、記憶をたどり自身の体験を記したという。ソ連兵や中国の人たちによる襲撃。幼いわが子を失った体験……。壮絶な出来事が記録されている。

 ◇冷たくなる次男、飢えの苦しみ…
 1949年生まれの娘、竹内敬子さんは「この手記により家族の戦争体験を知ることができ、今の時代にウクライナやパレスチナ自治区ガザで起きていることを考えるきっかけにもなっている」。専門家は「戦争の現実を伝える、価値ある内容」と評価している。

 宮崎さんは18年、長野県で生まれ、36年に事実上日本の植民地だった満州へ。南満州鉄道(満鉄)関連の会社で働いていた男性と40年に結婚式を挙げた。終戦間際の45年8月、旧ソ連の侵攻を受け国境の町・黒河を出発。夫は終戦直前に軍に駆り出され、3人の子を連れての逃避行となった。

 手記の冒頭は8月12日。旧ソ連との戦いが始まったと知らされ、荷馬車で黒河を離れたが「飛行機が高度を下がったと思う間もなく撃ちだす」。その後、愛琿から乗った汽車では「繰り返し機銃掃射が続いた。急に扉が開いてけが人が運び込まれた」とつづっている。

 8月15日、南下して到着した北安で天皇の玉音放送をラジオで聞いた。満鉄関連の施設にいたが、中国の人々が押し寄せ、たんすや雨戸を持ち出す様子を目撃。「200~300人の中国人が私たちを1カ所に集め、周りを取り囲み、持っている物を出せと強迫する」
 2日後から学校の教室で60~70人での共同生活を開始。「食べ物は1日3回、コーリャンと雑炊が配給になるだけ」「はしかがはやり始め2、3歳の子どもがばたばたと死んでいく」と記す。

 北安でしばらく過ごした後、汽車で南下。道中を「死んでしまった赤ちゃんをおぶっていた人も川の上から赤ちゃんを捨てた。ドボン、ドボンといくつもの音がする。捨てる人の顔も死人と同じ色」と振り返っている。

 秋以降にたどり着いた新京では知人宅に。2歳の次男は、「夜となく昼となく品物を取りに来る」ソ連兵から抱いて逃げる中、気がつくと冷たくなっていた。「かわいそうに思う一方、親孝行のために死んでくれたのかとも思った。小さい子ども3人を連れていた私はさすがに疲れていた」
 近くの公園は日本人の墓標でびっしり。次男の亡きがらを埋めたが、翌日には周囲はローラーで地ならしされた状態に。「戦に負けた者の悔しさがこみ上げてくる。わき出る涙をどうすることもできなかった」という。

 2人の子と向かった奉天では義姉の家で暮らし、露店が並ぶ広場で自身もたばこなどを売る生活。「商人育ちの私は誰にも負けたくなく大声を張り上げた。饅頭屋など何をやっても人より売れる。気持ちもすっかり落ち着き、体も元に戻ったようだ」と書いている。

 奉天で46年を迎え、暖かくなってから錦県、葫蘆島へと移り、ようやく米国の荷物船で帰国の途に。「馬や牛を運んでいたのか、わらが一面に敷いてある」。持ってきた食べ物は底をつき、飢えに苦しんだ。9月、博多港に上陸。「頭から足の先まで、きな粉餅のように(殺虫剤の)DDTをかけられた」「ご苦労さまの声に迎えられ、やっと帰れたと実感が湧き涙が落ちる」と結んでいる。

 ◇弱者苦しむ戦争の本質、象徴的に 駒沢大・加藤聖文教授、引揚者は「難民」
 戦争に負け、それまで“支配する側”にいた日本が逆の立場になっていく状況下で、一般の人々はどのような事態に直面したのか。そのことを示すエピソードが、旧満州から日本に引き揚げる道中の体験を記したこの女性の手記には、象徴的に分かりやすく書かれている。

 満州から引き揚げる渦中にいた人たちはいわば“難民”だ。爆弾が落ちてくるといった「直接的な」被害とは異なり、長期にわたる「間接的な」被害で多くの人が犠牲になっている。戦争が起きた時、一般市民はこのような形で命を落とすようなことが多い。

 満州の場合、戦争は既に終わっているのに、もう戦闘は行われていないのに、人々は厳しく苦しい体験を強いられた。それが戦争というものの本質であり、ウクライナやパレスチナ自治区ガザで起こっている出来事も同様だ。

 戦争は社会秩序を破壊する力が桁外れに大きく、新しい秩序が生まれるまでは混乱が続いて弱者が苦しむ状況になる。この手記には現実には何が起きうるかが記されており、今の人たちが「なぜ戦争をしてはいけないのか」を理解するために重要な意味を持つだろう。

 また、そもそもこのような人たちがなぜ満州で生活していたのか想像する必要がある。そこから、大日本帝国が満州などの植民地を獲得していった歴史が見えてくる。近代の歴史の文脈の中で引き揚げの事実も考えなければならない。

 ■ことば
 ◇満州からの引き揚げ
 1931年の満州事変を機に日本は満州を占領し、翌32年に「満州国」建国を宣言した。終戦時、開拓移民らを含め約155万人の日本人が満州にいたとされる。国家の保護がなく放置された状態となり、帰国(引き揚げ)は困難を極めた。うち17万人余りが死亡。兵士ら57万5000人がソ連によりシベリアなどに抑留され強制労働に従事。肉親と離れて取り残された残留孤児も生まれた。

 ■人物略歴
 ◇加藤聖文(かとう・きよふみ)氏
 1966年、愛知県出身。専門は日本近現代史、歴史記録学。著書に「海外引揚の研究 忘却された『大日本帝国』」「満蒙開拓団 虚妄の『日満一体』」など。

■写真説明 旧満州からの引き揚げ体験を手記に残した宮崎静江さん(手前、100歳のころ)と娘の竹内敬子さん=さいたま市で2019年(いずれも家族提供)
■写真説明 旧満州で生活していた当時の宮崎静江さん