2024/08/13 山形新聞朝刊

鶴岡市 小田郁 64歳
 本県から満州開拓団・義勇隊への参加は約1万7千人。全国では長野県に次いで多い。わが家とは無縁だと思っていたが、違った。

 鶴岡から渡満し開拓団の学校の教員となった夫妻の消息を調べるため、今年2月、古い名簿の写しを見ていた時だ。突然、叔父の名が目に飛び込んできた。本籍が黒塗りだが生年月日から叔父に間違いない。父の兄弟姉妹11人のうちただ1人、南方で戦死した叔父のことを聞いてはいた。軍装の写真も勲章も仏壇にあった。しかし、出征前の叔父が参加していたとは。

 それから調べて分かったこと。事情を知る伯母の手記も見つかり、叔父が「義勇隊に行った」と書かれていた。1938(昭和13)年当時、祖父が海に近い小さな村の学校に校長として赴任、一家はそろってその地域に居住。その村から義勇隊に参加した7人の中に叔父はいた。一時期ブームとも言われた開拓団に若者たちが希望に燃えて参加したのか。校長としての祖父は国策にわが息子も参加させるべきだと苦渋の決断をしたのか、あるいは積極的に後押しをしたのか。

 寒さ厳しい満州の地、食料事情や生活環境など耐えがたい辛苦もあっただろう。訓練の末の南方派遣だったのか。「昭和19年7月マリアナ方面で戦死」。没後80年、若くして戦死した叔父に妻子はいない。今、初めて叔父の軌跡を知った私たちいとこは等しく「遺族」として叔父の魂を悼む。