『神曲』煉獄登山12.晩祷の賛美歌 | この世は舞台、人生は登場

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   『煉獄篇』第8歌の冒頭は、『神曲』の中の最も美しい詩行の一つだと言われています。まず、その原詩を鑑賞してみましょう。

 

   いとしい友にさよならを言ったその当日というものは、海を旅する人は旅立ちの心が後ろ髪を引かれて心がゆらぐものです。また旅に出発したすぐの陸を旅する人は、去りゆく日を悼むように終祷の鐘が遠くの方で聞こえるならば、愛惜の念が心を痛めるものです。すでに、そのような時刻(太陽が沈んで昼間の終わり)になっていました。そして、私の聴覚が無力になり始めました。すると、霊魂たちの中から一人が立ち上がり、聴いてくれと言っているようにみえましたが、手で合図をしていました。(『煉獄篇』第8歌1~9、筆者訳)

〔原詩解読〕

   上の詩行には、故国フィレンツェを追放されて、流浪の旅を余儀なくされたダンテの心境が鮮明に表出しています。ローマ教皇ボニファティウス8世とフィレンツェ市が対立していた時、教皇の要請を受けたシャルル・ドィ・ヴァロア(1270~1325:フランス王フィリップ4世の弟)が率いる数百の騎士団によって数千のフィレンツェ軍は敗北をきっします。その時、国政の中心にいたダンテは死刑宣告(1302年1月27日発令)を受けましたが、兄弟や親友の計らいで、いち早く町を脱出しました。とりあえず、フィレンツェの南東60㎞の町アレッツォに逃れた後、終生帰ることが許されなかった亡命生活が始まりました。親友の芸術家ジョット( Giotto di Bondone、1267頃~1337)が建設したサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘楼から一日の日課の終わりを告げる終祷の鐘(原文では普通の鐘の音を意味する“aquilla”ですが“compieta”のこと)の音が、ダンテの耳にも届いていたことでしょう。ダンテの流浪の旅は、このブログの終わりにもふれます。

 

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とジョットの鐘楼

ジョットが描いたダンテの肖像画

   前述の冒頭の描写は、極めて美しい情景を描き出していますが、文型もかなり難解ではあります。わが国の翻訳者たちもかなり苦労して訳しているのが、その訳文からもうかがい知れます。ここで、私が尊敬する二人のダンテ学者の翻訳を紹介しておきましょう。まず、平川祐弘先生の訳文は次のように、それ自体が詩として名文になっています。

 

  親しい友に別れを告げた日、はや夕暮となると

    海を行く人には帰心が湧き、

    心は情にやわらいでくる。

  遠くから沈みゆく日を悼む鐘の音が聞こえると、

    異郷に来た旅人は

    愛惜の情に胸が痛む、

  その時私の耳には物音一つ聞こえなくなった。

    見ると魂の一人が立ち上がって

    みなに向かいよく聞くように手で合図した。

 

 次に示すのは、もう一人の有名なイタリア文学者野上素一先生の訳詩です。

 

  なつかしい友達に別れを告げた日に、

  航海をする者の思いが立ち戻ってきて

  心がやわらぎ、暮れる日を悼むような

  鐘の音をとおくに聞くときに、

  はじめて異郷に旅をする人を

  愛で刺しつらぬく時刻となった。

  私が聞こうとしても何も聞こえなくなった時、

  一人の魂が立ち上がり、聞いて欲しいとばかり

  手で合図をしているのを認めた。

 

   両翻訳とも、かなり苦労して日本語にしているこが推測されます。原詩には二種類の旅人が登場しています。一人は「海をゆく旅人」で原文は“navicanti”で「船乗り」の意味もあります。もう一人は「陸をゆく旅人」で原文は“peregrino”で、原義は「巡礼者」ですが、両訳とも明快な区別がなされていないようです。そして、後者の旅人を修飾している“novo(=nuovo)”という形容詞の意味は英語の〈new〉と同じですが、野上訳では「はじめて異郷に旅をする」と解釈されていて、平川訳では「異郷に来た」となっています。その形容詞には「よく知らない初めての」という意味があるので、両氏の解釈はどちらも適切です。しかし、私の解釈は、「海をゆく旅人」が淋しさを感じている時は「いとしい友にさよならを言ったその当日(lo di c’han detto ai dolci amici)」なので、それと照応させて「陸をゆく旅人」も「旅に出発したすぐの」状態であったというのがその根拠になっています。

   その後、ダンテは「聴覚が無力になり始めました(incominciai a render vano l’udire)」。すなわち、何も聞こえなくなったのです。かといって、聴覚に外的障害を受けたわけではありません。煉獄前域の最後の区域で、巡礼者ダンテとウェルギリウスの案内役をつとめているのは吟遊詩人ソルデルロの霊魂です。彼は、第6歌58行目で登場して、その煉獄前域の山で浄罪をしているイタリアの皇帝や王たちフランスの王族たちをダンテたちに紹介する役割を担っています。ここで、ダンテが「耳が聞こえなくなった」と言っているのは、そのソルデルロの説明が耳に入らなくなったという意味です。ダンテはある別の事柄に注意が向くと、今までの関心事には全く興味を失ってしまいます。その現象は、『煉獄篇』第4歌(1~12)で哲学的に説明されています。私のブログ「『神曲』煉獄登山4.ダンテの信じた認識論」を参照して下さい。

 

祈りは東を向いて

      では、ソルデルロの説明が耳に入らなくなるほどダンテの興味を引いたものは、一人の霊魂が立ち上がり何かを聴かせようとして手で合図をしている姿でした。その霊魂は、東の方を向いて合掌すると、賛美歌を歌い始めました。「目を東の方へ向ける(ficcando li occhi verso l’oriente)11」という所作が何を意味しているのかは、諸説があります。「東方(oriente)」なので、ダンテの時代に東の最果てと思われていた「インド・ガンジス」なのか、それともキリスト教の聖地エルサレムなのか、いろいろ推測することができます。しかし、忘れてはならないことは、巡礼者ダンテは『神曲』の旅の最中で、現時点は「煉獄島」にいるということす。理解を助けるために、天動説の天体図を参考にしてみましょう。

 

 

  上の挿絵は、アンドレアス・セラリウス (Andreas Cellarius、1596年頃~1665年)の描いた『大宇宙の調和 (Harumonia Macrosmica)』に、筆者の判断で南北を逆転させて、さらに分かりやすくするために加筆したものです。当然、原画では北が上で南が下に設定されています。ところが、『神曲』の世界では、現実の地球には存在しない「煉獄」と、その上に「天国」を設定しなければなりません。それゆえに、煉獄は南極の近くに想定する必要があるのです。ということは、煉獄にいるダンテたちから見ると、太陽は北側の上空を東から西へ自転していることになります。そして、「シオンの山とこの煉獄の山とは、地球上それぞれ別の半球に属しているが、同一の視線を有している(『煉獄篇』IV, 68~71)平川訳」と、ウェルギリウスがダンテに教えています。すなわち、シオン山のあるエルサレムは、煉獄から見て東方ではなく、真北に位置しているのです。

  では、なぜ東を向いて祈るかという問題の信憑性のある答えは、むしろ常識的なものでしょう。「東」とは、太陽が昇る方向であるので、神の栄光も恩寵も東の方から射してくると思われていました。教会も東を向いて祈ることができるように祭壇が設置されていました。『煉獄篇』の第8歌の場面は、日没後の時刻なので太陽は西方に位置していますが、祈りは東に向かって捧げているのです。

   その霊魂が、「とても敬虔に(sì devotamente)13」、そして「とても優しい旋律で(con sì dolci note)14」、その賛美歌を歌い出したとき、その歌声でダンテは「私に私自身を忘れさせた(fece me a me uscir di mente)15」と言っています。その時に歌われた曲は、日課の終わりを告げて鳴らされる「終祷の鐘」に照応して、一日の最後の祈りで歌われる賛美歌『昼の光が消える前に』でした。『神曲』の中では『テ・ルキス・アンテ(Te lucis ante)』というラテン語の題名しか紹介されていませんが、その賛美歌の原文は次のようになっています。

〔日本語訳〕

  昼の光が消える前に、万物の創造主よ、我らはあなたに嘆願します。いつも変わらぬお慈悲でもって見守りくださる守護者であられんことを。

  夢魔や眠りに現れる悪霊は遠くへ去らんことを。我らに害をなす敵を粉砕せよ。そして、我らの肉体が汚れないものであらんことを。

  与えたまえ、全能なる父よ、あなたと共に、また聖霊と共に、君臨している主イエス・キリストによって(安らかな眠りを)与えたまえ。アーメン

 

   この賛美歌『昼の光が消える前に』は、三つの詩節(スタンザ)から構成されています。最初に立ち上がった一人の霊魂が、敬虔な態度で優しい旋律で独唱し始めました。すると彼の後から他の霊魂たちも加わりました。ダンテはその様子を次のように描いています。

 

   すると他の霊魂たちも優しく敬虔に、両目を天界の車輪(原動天)の方を見上げながら、彼の後に続いて全員がその賛美歌のすべて歌いました。(『煉獄篇』第8歌16~18、筆者訳)

〔原文解読〕

   すなわち、最初の歌い出しは一人の霊魂による「独唱」でしたが、それに全員が加わって合唱になったのです。『昼の光が消える前に』は、教会で祈りを捧げる者であれば誰もが知っている有名な賛美歌でした。それゆえに、ダンテの読者には、その題名を聞いただけで全歌詞を知っていることが期待されています。そして、その賛美歌のどの部分が独唱で歌われ、どこから合唱に移ったのかということは問題にされます。最も説得力のある、また最も感動的な解釈は、第1スタンザが独唱で歌われて、第2スタンザから全員の合唱になったとするものです。その理由は、第2スタンザの7行目の「我らに害をなす敵を粉砕せよ (hostem nostrum comprime)」という詩句です。この賛美歌は神への祈願なので、全体的には「願わくは、・・・であらんことを」という意味の接続法による願望命令文が使われています。しかし、この詩句には、直接法の命令文が使われていますので、ここから調子が強くなります。さらに、「敵を粉砕せよ」という文言は、間もなく『煉獄篇』に登場してくる「天使と蛇の戦い」の場面を予告するものにもなっています。その天使と蛇の登場場面を紹介しておきましょう。まず、緑の衣をまとった二人の天使がやって来て、霊魂たちを護るために次のような態勢を取りました。

 

   炎と燃える二本の剣を持った二人の天使が天界を出て下の方へ降りて来るのが見えました。その剣は、(殺傷のためではなく防御用なので)先端を折って切っ先を無くしていました。天使たちは、若葉色の衣をまとい、緑色の翼で羽ばたいていました。霊魂の群を真ん中に挟み込むように、一方の天使は私たちの少し上の方に立ち、もう一方の天使は反対側の端に降りました。両天使の金髪の頭ははっきりと見えましたが、顔は目が眩んで見えませんでした。(『煉獄篇』第8歌25~36、筆者による意訳)

 

  天使が「天界を出る」の原文は“uscire de l’alto”で、字義通りに訳せば「高い所から出る」という単純な意味です。第8歌の18行目にも「天界の車輪 (le superne rote)」とい詩句が出ています。その両方の詩句とも同じものを指していて、広義に解釈すれば「天国」のことですが、具体的には「原動天」を指していると言えます。なぜならば、至高天に御座する神の意志を即座に受けることができる場所は原動天で、そこはまた「天使たちの詰め所」になっているからです。その場所については、『天国篇』第28歌において描かれ、また天使の位階が詳しく説明されます。

 

   霊魂たちを守護する天使が防御態勢を取っているところに、蛇が現れますが、次のように撃退されます。

 

   この小さな谷を護る塁壁の隙間に一匹の蛇 (biscia)が現れました。おそらくその蛇はエヴァに苦い食べ物 (il cibo amaro)を食べさせた奴だ。その悪の紐 (la mala striscia)は、草花の間をぬうようにやって来て、ときどき頭の向きを変えて、毛繕いをする獣のように、背中を舐めていた。・・・緑の翼が空気を切って進んで来る音を聞いて、蛇 (serpent)は逃げた。すると天使は、旋回をして彼らの定位置 (le poste =原動天) へまた同じように飛んでいった。(『煉獄篇』第8歌97~108、筆者による意訳)

 

   ここに現れたのは、エヴァを誘惑して禁断の果実すなわち知識の木の実を食べさせた蛇でした。しかし、その蛇も天使の羽音を聞いただけで逃げ去り、天使たちも原動天へ帰って行きました。

 

旧友ニーノ判事(Giudice Nino)

   崖の上から王侯たちの霊魂を眺めていた三人(ダンテ、ウェルギリウス、ソルデッロ)は、谷底に降りて行って、直接話し掛けることにしました。底に着いた時、昔なじみのニーノ判事(giudice Nino)に出会ったので、ダンテは「君が地獄堕ちの亡者の間にいないのを見たとき、どんなに嬉しかったことか (quanto mi piacque quando ti vidi non esser tra’ rei)53~54」と安堵の気持ちを表しました。

   ピサ出身のニーノ・ヴィスコンティは、サルディーニャ島の四つの独立国(ジュディカート:giudicato)の一つガルーラ(Gallura)の判事でした。そして、彼の母親は、ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカの娘でした。ということは、ニーノ判事とウゴリーノ伯爵とは、孫と祖父の関係ですが、この二人は対立することになりました。その模様は、『地獄篇』第33歌に描かれていますので、詳しく知りたい場合は私のブログ『地獄巡り49.氷の地獄コキュトスの第2区画アンテノーラ』の中の「ルッジェーリ大司教に復讐するウゴリーノ伯爵」の箇所を参照して下さい。

   ニーノは、祖父との権力争いに敗れて、サルディーニャ島の彼の領地へ逃げました。その島における彼の判事としての活動の模様は『地獄篇』第22歌で描かれています。

   1288年、ニーノ判事が自軍の再編制のためにフィレンツェへ逃亡してきた時、ダンテとは非常に親密な交友があったようです。両者が、同じ歳でしかも共に教皇派(グエルフ)の戦士であったことを考えれば当然でした。ニーノ判事は、煉獄にいる他の霊魂たちと同様に、ダンテが現世へ戻る存在であることを知って、次のような頼み事をしました。

 

   あの大海のかなたへ戻ったならば、娘のジョヴァンナに私のために祈るよう伝えてくれ、天は罪のない人々の願いは聞きとどけてくれるはずだ。彼女の母は喪の白い面帕(おもぎぬ)をはずしてしまったから、もう私を愛してはいないのだろう、だが気の毒にまた喪章を欲しがるにちがいない。目で見、肌でふれ、しばしば火を点けぬかぎりは、女の愛の火は身内で長く燃えぬものだ、彼女を見るとなるほどよくそのことがうなずける。 (『煉獄篇』第8歌70~78、平川祐弘訳)

   ジョヴァンナ(Giovanna)は、ニーノ・ヴィスコンティとエステ家のベアトリーチェとの間に、1291年に誕生しました。1296年、5歳になった時に、時の教皇ボニファティウス8世によって、トスカーナのヴォルテッラという町で、教会の聖なる娘に選ばれました。しかし、皇帝派がその町を支配するようになると、フェラーラとミラノで、母ベアトリーチェと一緒に生活しました。その時、トレヴィーゾの貴族リッツァルド(Rizzardo da Camino)と結婚しました。しかし、1312年に夫に先立たれると、生活に困窮するようになりました。1312年、フィレンツェに移り住むと、彼女の父ニーノ判事が同市に尽くした功績により譲渡金を受けることができたようです。彼女は、1339年ごろ、50歳前にこの世を去ったと言われています。

   ダンテが『神曲』の中で冥界訪問をしているのは1300年の4月という設定になっていますので、父ニーノとダンテが煉獄で出会っている時点は、ジョヴァンナは9歳ぐらいで、聖なる娘として教会に仕えている時代でした。それゆえに、「罪のない人々(li ’nnocenti)」とは「子供」を意味しているので、神に仕えるジョヴァンナの祈りは天に聞き届けられやすいのです。

   娘のジョヴァンナに引き替え母親のベアトリーチェは、夫ニーノの死の4年後の1300年6月に、ミラノの貴族ガレアッツォ・ヴィスコンティ(Galeazzo Visconti)と結婚しました。ところが、その結婚よりも前に、ピアチェンツァ(Piacenza)のアルベルト・スコット(Alberto Scotto)と婚約をしていました。しかし、ガレアッツォの父マッテオ(Matteo Visconti)は、エステ家との同盟関係を維持したので、息子の嫁として彼女を確保しました。そのために、ベアトリーチェもミラノに移り住みました。ところが、その2年後の1302年、怨念を晴らしたいと思っていたアルベルトの助力を得たトッリアーニ(Torriani)家によってヴィスコンティ家はミラノから追放されてしまいました。その時、夫ガレアッツォはトスカーナで逃亡生活を送った後、1328年に死去しました。一方、ベアトリーチェは、息子のアッツオ(Azzo)が統治していたミラノへ戻り、1334年にその地で亡くなったと言われています。

   上述の『煉獄篇』の箇所では、登場人物ニーノ判事は「彼女の母は、もう私を愛してはいないのだろう(la sua madre più m’ami)73」と言って、その理由として「喪の白い面帕をはずしてしまったから(poscia che trasmutò le bianche bende)74」と述べています。ダンテの時代では、夫に死なれた寡婦は黒い衣を着て、頭には白い面帕を巻いていました。そして、再婚するときはそれを脱ぐことになります。平川先生が「面帕(おもぎぬ)」と訳している原語は〈benda〉の複数形〈bende〉ですが、現代イタリア語では〈soggolo〉と言い、英語では〈wimple〉と呼びます。(下の貼付絵を参照)。

ソッゴーロ(伊語)、ウィンプル(英語)

 

   『神曲』の物語の中では、ダンテたちがニーノ判事と面談している日時は、前述したように1300年の4月です。妻ベアトリーチェが再婚したのが、その年の6月なので、煉獄で面談している時期は、ガレアッツォとの婚姻が間近に迫っていました。そのために、「おもぎぬ」を脱いで、結婚準備をしていたのです。ところが、その2年後の1302年には、新しい夫ガレアッツォがミラノを追放されることになるので、その喪服がまた必要になり「また欲しがることになるであろう(ancor brami)」と、ニーノ判事は予言しているのです。

   さらに、ニーノは予言を続けて「ミラーノの騎士が掲げる〔旗印の〕蝮(まむし)は、ガルーラの雄鶏がしてくれたほど立派な墓を拵えてはくれまい」と言っています。「ミラノ兵が宿営するとき掲げるマムシ(la vipera che Melanesi accamp)80」とは、ミラノのヴィスコンティ家の家紋なので、ガレアッツォ・ヴィスコンティすなわちベアトリーチェの再婚相手を指しています。また、「ガルーラの雄鶏(il gallo di Gallura)81」とは、ニーノの出身地ピサと彼が判事を勤めたサルディーニャ島のガルーラのヴィスコンティ家の家紋でした。すなわち、雄鶏とはニーノ自身を指していて、同じヴィスコンティ家でも、ミラノへ嫁ぐよりも、寡婦のままピサで過ごした方が立派な最期をむかえることができる、と霊魂のニーノは予言しているのです。

  ガレアッツォ・ヴィスコンティ        ニーノ・ヴィスコンティ

クルラード・マラスピーナの霊魂

   最初に、ダンテが生きたまま煉獄に来ているのを知ったニーノ判事は、側に坐っていた霊魂に向かって「起きろ、クルラード!神の恩寵が成し遂げた御業を見に来い(65~66)」と叫びました。すると、その霊魂は次のようにダンテに話し掛けました・

 

   ヴァル・ディ・マーグラやその近辺の確実な報せをもし知っているのなら、教えてくれ。私はその旧の領主だ。クルラード・マラスピーナと呼ばれた、先代の方ではない、後を継いだ方だ。一族に注いだ〔偏〕愛をいまここで浄めている。(『煉獄篇』第8歌115~120、平川祐弘訳)

 

   ここで名乗りを上げたクルラード・マラスピーナ(Currado Malaspina)とは、ルニジアーナ(Lunigiana)の領主のことでした。その国には同名の領主が二人いて、クルラード1世とクルラード2世です。その1世と2世との関係は祖父と孫になります。そして、ここで登場している霊魂のクルラードは、「先代の方ではなく、後裔の方だ (non sono l’antico, ma di lui discesi)」と言っていますので、孫の2世の方です。クルラード2世は、1294年に死去しましたので、煉獄前域で浄罪を始めて6年が経ったことになります。1302年にフィレンツェを追放されて亡命生活を余儀なくされたダンテは、1306年にルニジアーナに滞在しています。彼が身を寄せたのは、クルラード2世のもとではなく、その従弟にあたるマラスピーナ(Malaspina)家でした。モンタネッリの『ルネサンスの歴史(上)』(pp.71~76)によれば、ダンテのような亡命政治家は厚遇を受けたようです。明日は我が身で、誰の身にも亡命の悲運が襲うかも知れない時勢だったので、客人を尊重する暗黙の規則になっていたのです。さらに、聖職者以外に読み書きのできる者は少なかったので、教養をもった亡命者は貴重な存在であったかも知れません。ダンテは、滞在中に外交使節として貢献したと言われています。

   ボッカチオの伝えるところによれば、とモンタネッリは続けています。ジェンマ夫人は、ダンテ家の打ち壊しの前に家を片付けていた時、文箱の中に夫の詩稿を見つけ、何気なく取りのけておきました。それが、『神曲』地獄篇冒頭の7歌であったと言うことです。その原稿を受け取ったのがルニジアーナ滞在中で、ダンテは、そのために『神曲』を書き続ける意欲を持ったと言われています。ということは、ルニジアーナは、大作が誕生する因縁の国にもなりました。

 

ダンテ流浪の道

 

 

   クルラード2世の「マーグラ渓谷とその周辺のことを教えてくれ」という懇願に応えて、ダンテは次のように述べています。

 

   あなたの国へは私はまだ行ったことがない。しかしその国の名は、ヨーロッパ広しといえどもあまねく知られている。あなたの家の誉れとなるような評判がたち、皆異口同音に主君を讃えその国を讃えている、それで行ったことのない者でも噂には聞いているのだ。〔煉獄の〕上へ行きたいと願う私が、誓っていうが、刀の勲にせよ〔客人を遇する〕財布の勲にせよ、誉れある御一家の人々は家名を汚してはいない。罪深い首府が世界を歪めているが、御一族は習いと性に幸いされて、ただひとり邪道を排し、正道を進んでいる。 (『煉獄篇』第8歌115~132、平川祐弘訳)

 

   1306年にクルラード2世の国ルニジアーナに客人として滞在しているにもかかわらず、ダンテが「あなたの国へは行ったことがない」と言っているのは、物語の中で両人が出会っている年が6年前の「1300年」であるからです。ルニジアーナ国に対して最大の賛辞を与えているのは、亡命者の身分を厚遇してくれた恩義のためであることは言うまでもありません。「罪深い首府」と訳されている原文は“il capo reo”ですので、「邪悪な頭」という意味になります。それゆえに、「ローマ」を指すことも可能ですが、むしろ「ローマ教皇」を、さらに具体的には時の教皇「ボニファティウス8世」を指していると見なす方が妥当かも知れません。すなわち、ダンテは、ボニファティウスによってフィレンツェを追われ、ルニジアーナで厚遇された、ということを表現しているのです。

 

地獄の亡者も煉獄の霊魂も予言能力者

   クルラード2世の霊魂は、ダンテとの別れ際に次のような予言をしました。

 

   では行きたまえ、白羊宮が四つの脚ですっかりおおい跨がっている床の上に、太陽が七たび臥す前に、もし裁きの流れが止むものでなければ、他人の噂などよりももっと太い釘で、そうした有難い評判が君の頭の心に深く打ち込まれるはずだ。 (『煉獄篇』第8歌133~139、平川祐弘訳)

 

   翻訳は分かりやすいのですが、比喩的表現が多いので、内容を説明しておきましょう。

   「白羊宮が四つの脚ですっかりおおい跨がっている床の上 (nel letto che ’l Montone con tutti e quattro i pie cuopre e inforca)134~135」(現代伊語:pie=piede, cuopre=copre, )とは、春分をはさんだ前後およそ一ヶ月間を意味しています。ということは、まさにダンテが『神曲』の旅をしている期間です。その期間は、太陽が白羊宮(Montone:雄羊)の上に留まって、それと共に地球を一周します。(前出のアンドレアス・セラリウスの『大宇宙の調和図』を参照)。そして、四月下旬から五月下旬までの次の期間は、太陽は金牛宮(牡牛座)の上に留まって共に地球を周ります。

   「その床の上に、太陽が七たび臥す前に (il sol non si ricorca sette volte nel letto)133~134」(現代伊語:ricorca=ricorica,) とは、太陽が12宮の上を一巡して、それを七回繰り返すということ、すなわち七年を意味しています。厳密には「七回転しない」と言っています。物語の中で想定されている現在時刻は1300年4月10日復活祭の夜なので、その日時から七年たたないうちにとは、1307年以前にと言うことです。すなわち、ダンテがルニジアーナでマラスピーナ家の客人になっていた時期を指しています。

クルラード2世の霊魂が言う「その有難い評判 (cotesta cortese oppinione)136」(cotesta=codesta, oppinione=opinione)とは、ダンテが述べた「あなたの家の誉れとなるような評判がたち、皆異口同音に主君を讃えその国を讃えている」という評判のことです。そして、6年後にダンテ自身がその地に滞在することになって、「他人の噂 (altrui sermone)138」よりもはるかに「誉れある御一家 (gente onrata)128」であることを実感することになる、とクルラードは予言しているのです。

 

   『神曲』の中では、地獄にいる亡者も煉獄にいる霊魂も、クルラードのように予言能力を持っています。それも百発百中の予言です。なぜならば、1300年から執筆までの間に起こった事件を予言の形で記述しているからです。すなわち、ダンテが地獄・煉獄・天国を巡る冥界訪問を設定した1300年の四月の時点までに起こった出来事は「史実」として描写され、それ以後に起こったことは、未来時制を用いて「予言」という形式で表現されているのです。