中国とはどんな国だろうー中国はいかにチベットを侵略したか(その1) | 日本人の進路

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中国とはどんな国だろうー中国はいかにチベットを侵略したか(その1)





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中国はいかにチベットを侵略したか(その1)








打倒中国共産党より

中国はいかにチベットを侵略したか
マイケル・ダナム著 要約
 







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チベットの歴史① 古代王朝時代

http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history1.htm




チベットにはだいたい2100年の歴史があり、西暦前127年にニャティ・ツェンポ王が即位したときから始まる。とはいっても最初の700年ぐらいは神話の時代であり、歴史的事実として捉えることはできない。その一方でこの700年の神話にはチベットの世界観と、有史以来のチベット文明の発展を伺い知ることができる。


西暦629年に第33代ソンツェン・ガンポ王が即位してから史実として実証できる本格的なチベットの歴史が始まることになる。ソンツェン・ガンポ王はネパールの王女ブリクティ(チベット名ペルサ)、641年には唐の王女文成公主を后として迎えた。文成公主は顔に赤土を塗る風習を嫌ったため、ソンツェン・ガンポ王はこれを禁じたという。また、16人の留学生をインドに派遣し、彼らは帰国後、チベット文字の考案、チベット語の仏典翻訳、など仏教文化の発展に尽くした。ジョカン大聖堂が建立されたのもこの時代である。こうしてソンツェン・ガンポ王の時代にチベットは唐、ネパール、インドとの関係を強化し、チベット文化は本格的な発展をみせるようになるのである。ソンツェン・ガンポ王は649年になくなった。
 



ソンツェン・ガンポ王の孫にあたるマンソン・マンツェンが第34代国王に即位した。この時代、チベットは唐の制度を参考に吐蕃の行政・軍事・租税登録・徴発制度を改めて整備した。667年にガル・ティンディンが宰相に就任すると積極的に軍事行動を拡大し、西暦670年にトルキスタン4鎮(クチャ、カラシャフル、ホータン、カシュガル)を制圧。7世紀後半はトルキスタンをめぐってチベットと唐の間で激しい攻防が繰り広げられる。


676年にはティ・ドゥーソン王が第35代国王に即位。678年には青海の地でチベット軍と唐が激戦を繰り広げ、チベットが勝利を収める。だが692年には唐がトルキスタン4鎮を奪還した。

704年に第36代ティデ・ツクツェン王が即位。710年に唐の王女金城公主を后に迎えた。722年にチベットはキルギット(現在のパキスタン)を占領、さらにトルキスタン4鎮を再び攻略した。752年には南詔がチベットの属国となった。
 



第37代ティソン・デツェン王(在位755~797)の時代にチベットは大きく勢力を拡張した。唐で安史の乱が発生するとその混乱に乗じて甘粛地域を占領。763年にはついに唐の都長安を占領するまでに至った。チベットは西方にも勢力を拡大し、アラビヤやトルコと国境を接するに至った。779年にはサムイェ寺が建立され、多くの仏典が翻訳された。782年にインド仏教と中国仏教で宗論を行わせ、中国仏教が敗れたため、ティソン・デツェン王インド仏教を重視し、中国仏教を禁止した。


797年に第38代ムネ・ツェンポ王が即位するが短命に終わり、798年に第39代ティデ・ソンツェン王が即位した。


第40代ティ・ラルパチェン王(在位815~836)の時代に、チベット軍は各地で連戦連勝し、821年には唐との間に平和条約が結ばれた。この条約を刻んだ唐蕃会盟碑は長安の宮殿正門の外、ググメル山の中蔵国境地帯、ラサのジョカン大聖堂正面の三箇所に建立された。
 



ジョカン大聖堂正面の碑は現存している。文面は中国語とチベット語で書かれ、次のように書かれている
「チベットおよび唐は、現在の国境を遵守すべし。国境の東はすべて第唐帝国に、西は大チベット帝国に属す。これより後、いずれの国も兵を挙げて隣地を侵してはならない」


841年にティ・ラルパチェン王は暗殺され、兄のランダルマ王が即位した。第41代ランダルマ王はチベットの伝統宗教であるボン教の復興を試み、843年に廃物令を発した。仏教を弾圧し、仏教寺院を破壊し、僧侶は還俗を強要された。846年にランダルマ王は僧侶によって殺害された。ランダルマ王はチベット史では極悪人扱いを受けている。


ランダルマ王の死後、その息子のユムテンとウスンの権力争いにより王国は分裂した。877年には古代王朝は完全に滅亡し、チベット王国はたくさんの小王国に分裂することとなった。
 







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チベットの歴史② 分裂国家の時代


http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history2.htm



古代チベット王朝が滅亡後、9世紀後半から1世紀半ほどの間、チベットの年代記は王の系譜を残すのみで(それすら不完全なものしか残っていない)、詳しいことはほとんどわかっていない。その後もチベットは小王国が割拠する時代が、モンゴル帝国が勢力を伸張するまで400年ほど続くことになる。ただし、チベットの古代王朝滅亡時、唐もすでに弱体化しており、908年に滅亡した唐は五大十国時代というさらなる混乱の時代を迎えていたので、チベットが外部から侵略をうけることはほとんどなかった。


西暦840年に西チベットに誕生したグゲ王国は、荒廃した仏教の復興に取り組み、カシミールに留学生を送った。帰国した留学生のうち、リンチェンサンポはは西チベットにトディン寺やタボ寺を建立し、ゴク・レクペーシェラプは1073年に中央チベットにサンプ寺を建立した。また1042年にはベンガルから導師アティーシャを招いた。アティーシャは1054年に亡くなるまで、グゲ王国のほか、サムイェ、ラサ、ニェタンなど中央チベットでも仏教の復興に取り組んだ。
 



この時期、チベット人は隠匿されていた経典を再発見し、古い宗派に対する新しい宗派が次々と勃興した。1054年にカギュー派が、1073年にサキャ派、1100年カルマ派1175年ディクン派が創始されている。


特に1073年にコンチョクゲルポ(1034~1102)が創始したサキャ派は、息子のクンガーニンポ(1092~1158)、さらにその二人の息子へと受け継がれ、コンチョクゲルポのひ孫にあがるサキャパンティタ(1182から1251)の時代に政治的にも学問的にも大いに発展することになり、特にモンゴル帝国の庇護を受けてからしばらくはチベットの支配層にまで上り詰めることになる。
 













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チベットの歴史③ チベット文化圏の拡大

http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history3.htm




1240年、チンギス・ハンの孫に当たるゴダン・ハン率いるモンゴル帝国軍がチベットに侵攻し、ラサ北方のペンポにいたった。しかしゴーダン王子はサキャ派の指導者であるサキャ・パンディタの導きで仏教に帰依し、モンゴル帝国軍は撤収した。 



フビライ・ハンも、ゴダン・ハンの路線を受け継いで、サキャ・パンディタの後継者であるパスパの導きで仏教を取り入れた。こうしてチベットとモンゴルの間に「寺と檀家の関係」いわゆるチュ・ユン関係がはじまり、その後の数百年にわたるチベット・モンゴル間の強い宗教的連帯の基礎が固まった。フビライ・ハンは仏教を国教とし、パスパは仏教会の最高権威となる。1254年にフビライ・ハンはパスパにいくつかの称号を授与した。パスパはモンゴル帝国の帝師に任命され、文化・宗教顧問として活躍、1269年にはモンゴル語を表記するためのパスパ文字を発明した。1271年にモンゴル帝国が大元大モンゴル国と改めてからも、引き続きパスパが帝師を務め、1280年のパスパの死後も、サキャ派の僧侶が大元・大モンゴル国の帝師を務めた。チベットは1254年から1350年まで24人のサキャ派の僧侶によって支配されることになった。


当時のチベットはモンゴル帝国の影響下におかれたものの、聖俗の権威を二分した相互依存関係と呼ぶのが相応しい。すなわち、モンゴル帝国の皇帝と宗教の導師が優劣なく互いに依存していたのである。チベットの宗教指導者が皇帝の保護を受けてチベット統治を保障してもらう一方、皇帝は帝国の正当性を宗教指導者に保障してもらったのである。
 



大元大モンゴル国が衰退に向うとサキャ派も倒れ、1350年、中央チベットはカギュー派の分派であるパクモ・ドッパ派の僧チャンチュプ・ギェルツェンの支配下に収まった。チャンチュプ・ギェルツェンはチベットの政治制度からモンゴル色を一掃し、チベット独自の制度を導入した。以後86年間この一派の僧侶がチベットを支配した。大元大モンゴル国は1368年に北上し、代わって明王朝が誕生した。チベットと明王朝の関係は疎遠で、たまに一部の僧侶が個人的に明を訪れ、皇帝から世俗の称号をもらう程度であった。また、1391年にダライラマ1世ケンドゥン・ドゥプが誕生しているが、実際にダライラマの称号がモンゴルから与えられるのは1577年のダライラマ3世からであり、この時に2代さかのぼって称号がおくられるのである。


1434年に第5代目のドッパ・ギャルツェンが死去すると、リンプン一族が1436年から1556年までチベットを支配した。


さらに1556年から1642年まではツァン地方の王がチベットを支配した。
 



その一方で1556年にチベットを攻撃したモンゴルは僧侶を捕虜とし、アルタン・ハンの元に連れて行かれた。しかしアルタン・ハンは仏教の虜となり、1577年、デプン僧院からソナム・ギャツォをモンゴルに招いた。アルタン・ハンはゲルグ派に改宗し、ソナム・ギャムツォはダライラマの称号を与えられた。このとき、ゲルグ派の2代上の僧侶にまでさかのぼってダライラマの称号が与えられたため、ソナム・ギャムツォはダライラマ3世となった。


1588年にダライラマ3世が亡くなると、翌年誕生したモンゴルの王子ユンテン・ギャツォがダライラマ4世とされた。だが当時のチベットはツァン地方の王が支配しており、ゲルグ派の根絶を狙っていた。1619年にはカワン・ロザン・ギャツォがダライラマ5世とされたが、秘密にするしかなかった。
 











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チベットの歴史④ ダライラマ政権時代


http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history4.htm


1566年以降、中央チベットはツァン州の族長デパ・ツァンパによって支配されていた。だがモンゴル軍とゲルグ派の連合によりツァンパ軍は撃退され、1642年、ダライラマ5世はチベットの宗俗をつかさどる指導者となり、「ガンデン・ポタン」と呼ばれるチベットの政治組織を作り上げた。


ダライラマ法王は満族と良好な関係を築いた。まだチベットにおける覇権を確立する前の1639年、満州の皇帝ホンタイジはダライラマ法王を首都である瀋陽に招待した。ダライラマ自信は行くことができず、代理を派遣したところ、ホンタイジから丁重な扱いを受けた。こうしてかつてモンゴル族とそうであったように、満族ともチュ・ユンの関係が結ばれた。清が中国を併合した後の1652年、ダライラマ5世は清の順治帝の招待により北京を訪問。国家元首として盛大な歓迎を受けた。ダライラマ5世と順治帝は互いに高い称号を与えあい、チュ・ユンの関係が確認された。
 



ダライラマ5世はチベットの恒久的な平和を望み、自らを観音菩薩の化身、ソンツェン・ガンポの化身であることを示すべく、ラサに宮殿を建てることを決め、1647年にポタラ宮が完成した。


1682年にダライラマ5世は死去したが、摂政のサンギェー・ギャツォはダライラマ5世の遺言に基づき、チベット国内の混乱を避けるため、15年間5世の死を隠匿した。どうしても公に姿を表さなければならないときは替え玉を利用した。サンギェー・ギャツォを西モンゴル系のジュンガル帝国と同盟を結び、清朝及び東モンゴルに全面戦争を仕掛けたが失敗に終わり、1697年にジュンガル帝国のガルダンは自殺に追い込まれた。サンギェー・ギャツォはダライラマ15世の死を公表し、戦争の責任をガルダンに押し付け、清朝との関係改善を試みた。
 



ダライラマ6世は優れた詩を沢山残したが、乱交に目の余るものがあり、しばしばポタラ宮を抜け出しては情事に勤しんでいた。1705年、モンゴル・ホショット族のラザン・ハンはこの乱交を口実に1705年、ダライラマ6世を退位させ、自分の孫にあたるイェシー・ギャツォをダライラマに任命した。


しかしこうしたラザン・ハンの振る舞いはチベットで反感をかい、東トルキスタンを支配していた別のモンゴル系の王朝であるジュンガルに助けを求めた。1717年、ジュンガル族はラザン・ハンを敗退させた。だがダライラマ7世は当時清朝により保護されていた。1720年に清朝はチベットに侵入し、ジュンガル軍を敗退させた。こうしてダライラマ7世は正式に即位した。
 



1723年に清軍は撤退したが、その代わり2名の駐蔵大使(いわゆるアンバン)をラサに常駐させるようになった。アンバンには満族かモンゴル族が任命された。一般的にはこれをもってしてチベットは清朝の支配下に入ったとされるが、実際にアンバンとは大使、つまり外交官であり、チベットに対する実権を握っていたわけではない。


1727年に再びジュンガル軍がラサに侵攻してきたが、チベットはこれを撃退。その後の20年、チベットは全盛時代を迎えるが、1747年に宰相に就任したポラナは強硬な反清朝政策をとったため、1750年にアンバンによって暗殺された。これに対しチベットはアンバン、及びラサに駐在していた100人余りの清兵を皆殺しにした。

1751年に清の乾隆帝はラサに軍を派兵した。
 



1788年にはネパールがンガリ地方のロンシャールとルトク地方を侵略、1791年にはシガツェを侵略した。チベット政府は清朝に援軍を要請し、乾隆帝は2万の軍隊を派兵、チベット、清連合軍はネパールを撃退し、さらにネパールの首都であるカトマンズを占領するに至った。しかしこれをきっかけにアンバンがチベットの内政問題に間接的に介入するようになる。


チベットは1841年にカシミールからの侵略を経験した。続いて1855年に再びネパールがチベットを侵略。今回もチベットは清に派兵を要請したが、すでに弱体化していた清は何もできず、チベットは単独でネパールと交戦したが敗北し、条約が締結された。この条約は1956年まで存続した。
 



清朝の弱体化していく中で、イギリスが徐々にチベットに関心を示すようになった。イギリスは1876年に清と北京条約を結び、イギリスの探検使節が清とインドを往来するときはチベットを往来する権利を有することを認めさせた。だがこれにチベットは反発し、イギリス人を絶対チベットには入れないと宣言した。1887年にチベットはシッキムとの国境にリントウ検問所を設置し、鎖国政策を強化した。


1888年にはシッキムとの国境でチベット軍とイギリス軍の武力衝突が数回発生した。翌年にはイギリスが清朝とのあいだで、英領インドとチベットとの国境を定める軽かった条約を締結したが、チベット政府は交渉の当事者ではなかったことに反発し、北京条約とカルカッタ条約を拒否した。


鎖国政策を取り続けるチベットにも、国際情勢の激変の波が押し寄せていることは明らかだった。そのような中で、1895年、ダライラマ13世が19歳で国王に即位した。
 











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チベットの歴史⑤ ダライラマ13世時代


http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history5.htm



19世紀末に入ると、南下政策を進めるロシアの影響力がチベットにも及び始めた。イギリスはこの状況を打破するため、ついに1904年1月、ヤングハズバンド率いる3000人のイギリス軍がチベットに侵攻し、8月にはラサを占領した。ダライラマ13世はモンゴルに亡命し、9月にはチベット・イギリス両国間でラサ条約が締結され、チベットは事実上イギリスの影響下に入ってしまった。 



チベットに対する宗主権を否定された清朝は、形式的だけでも宗主権を維持すべく、1906年にイギリスと北京条約を締結した。イギリスとしては、チベット占領が目的ではなく、チベットをロシアと対抗するための緩衝地帯とすることが目的であった。翌1907年には日露戦争で痛手を被っていたロシアと英露協定を締結し、「チベットの領土保全、内政不干渉」などを盛り込んだ。だが蚊帳の外におかれた清朝は危機感を持ち、1910年にチベットを侵略。東チベットに西康省を設置し、チベットをも清の一省に組み込もうとした。ダライラマ13世は英領インドに亡命。これを機に清朝はダライラマ法王の廃位を宣言した。


チベットは存亡の危機を迎えたが、翌1911年には清で辛亥革命が勃発。清朝は崩壊した。チベット政府はアンバン、及び清朝の兵士を全てチベットから追放した。ラサに戻ったダライラマ13世は1912年7月、独立宣言を発表した。1913年にはモンゴルの首都ウランバートルで、チベットとモンゴルは中国の支配を受けない独立国であることを宣言した相互援助条約を締結した。
 



1913年10月より、インドのシムラでチベット、イギリス、中国の三国間でシムラ会議が開催された。会議は6ヶ月に及び、翌年4月、3国代表によって仮調印された。その大まかな内容は①チベットを外チベットと内チベットの二区にわける。②中国政府はチベット全土の宗主権を持つが、チベット政府が完全な自治権を持つことを承認し、これを省にしてはならない。③イギリス政府はチベットの如何なる領土も併合してはならない、というものであった。だが正式調印の段階で清朝は署名を拒否、イギリスとチベットの二カ国間で正式調印された。


ダライラマ13世はチベットの近代化の必要性を認識し、郵便、電報システムを導入。仏教の興隆に力を注ぎ、この時期にチベット仏教文化は目覚しい発展を遂げた。
中華民国はチベットへの野心を全く捨ててはいなかった。イギリスが第一次世界大戦に没頭しているのを契機に、中国は1917年に東チベットを侵略、翌1918年にイギリスの中国駐在イギリス副領事の調停で休戦した。
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1927年、蒋介石はダライラマ13世に書簡を送り、中国の一部となるよう勧告したが、ダライラマ13世はこれを拒否した。蒋介石は1930年にも書簡を送ったが、再びダライラマ13世は拒否した。


1932年、青海地方や東チベットでチベット軍と中国軍との戦闘が相次ぎ、翌年には国境線画定協定が調印されるなど、チベットと中国の関係は和戦両様であった。


翌1933年、ダライラマ13世が亡くなった。
 






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チベットの歴史⑥ ダライラマ14世幼少期のチベット 


http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history6.htm




1934年にダライラマ13世の葬儀が行われ、各国が使節を派遣し、中華民国も黄慕松らを参列させた。黄慕松はこのときもチベット政府に対し、中華民国の一部になるよう勧告するが、逆にチベット政府はシムラ条約の承認と、東チベットの返還を要求した。結局会談はものわかれに終わり、中国側は連絡員2名をラサに駐留させ、後に蒙蔵委員会と名乗ることになった。蒙蔵委員会は現在でも台湾に現存するが、チベット政府は当初から一貫して蒙蔵委員会を正式な代表部とは認めていない。 



1935年7月6日に、チベット北部のタクツェルの農家で、ラモ・ドンドゥプが誕生。2年後にダライラマ13世の転生と認定され、テンジン・ギャツォと命名された。1939年2月にダライラマ14世の即位式典が行われた。


1942年、当時は第2次世界大戦の真っ只中であり、日本軍が英・米から重慶への武器供給ルートであったビルマ・ルート(援蒋ルート)を遮断したため、イギリスと中国は、インドから南チベットを経由して重慶を結ぶ新ルートの解放をチベット政府に迫ったが、チベット政府は中立を貫くとしてかたくなに拒否した。


国際情勢が激変する中で、チベットにとっては近代化が急務になっていた。1943年にチベット政府は外交を担当する部署として1908年に設置されていたゴルカ局を発展させ、外交局を設置。さらに1944年に税制改革、無料労役制度の廃止、政府貸付の農民の滞納負債利子全額免除などの改革が次々と断行された。
 



第2次世界大戦が終結した翌年の1946年、チベットは連合国側諸国に祝賀使節団を送り、1947年にインドのデリーで開催されたアジア諸国会議にもチベット代表団が出席、会場にはチベット旗が翻った。1947年には通商代表団をインド、イギリス、アメリカ、中国に派遣した。この際に訪問団はチベット政府発行のパスポートを用いた。チベットが独立国家として世界から受け入れられていることは明らかだった。1949年にはラサの中華民国代表部(いわゆる蒙蔵委員会)に対して閉鎖、退去を命じた。チベットは本格的に世界各国と外交関係を築こうと意欲を見せているところだった。


ところが1949年10月に中国共産党が政権を樹立し、中華人民共和国が誕生、中国共産党はラジオを通じて、チベット人民を外国の帝国主義の手から解放するためにチベットに進駐すると宣言した。そして東部国境地帯に大軍を派遣した。チベットは歴史上かつてない存亡の危機に直面することとなった。
 



チベット政府はただちにイギリス、アメリカ、インド、ネパールの各国政府に、中国の侵略行為の停止を勧告することを決定した。さっそく代表団が結成され4カ国に派遣された。だがアメリカとイギリスは同情の意を表明したものの、チベットへの支援を拒否、インド政府も和平交渉を行うよう助言するのみであった。チベットを支援してくれる国はどこにもなかった。


やむなくチベットは中華人民共和国と交渉をおこなうことになった。そこでツェチャ・トゥプテン・ギャルポ、ツェポン・シャカプパの2名の代表を派遣することを決定。代表団はインドを訪問し、ネール首相と会談、さらに駐印中国大使が着任したことから本格的な交渉が始まった。だが交渉がまだ終了していない1950年10月7日、人民解放軍はチベットへの武力侵略を開始した。
 








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チベットの歴史⑦ 平和解放という名の侵略



http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history7.htm




私はチベットの歴史をまとめるにあたって、チベット中心の時代区分を構成するよう心がけた。チベットの歴史なんだから当たり前ではないか、と思われるかもしれないが、チベット史に言及した書籍、ウェブサイトを見ると、中国の時代区分に準拠したものが多い。例えば元代のチベット、明代のチベットとか、明王朝との関係、清王朝との関係、中華民国との関係などのようにである。確かにそのほうが日本人には分かりやすいのだろう。だがそのような歴史観はまるで間接的にチベットが中国の一部分であるかを認めているかのようだ。 



私はあくまでもチベットを中心にすえた時代区分にこだわり、辛亥革命は隣国の出来事と捉え、ダライラマ13世時代のチベット、ダライラマ14世幼少期のチベットという時代区分を設けたのである。だとするならば、ダライラマ14世の時代区分を少なくとも1959年のインド亡命まで継続させるべきという意見もあるかもしれない。しかし私は1950年の中国共産党によるチベット侵略で時代区分を区切るのが適切であると確信している。神話の時代を除いて1400年に及ぶチベットの歴史において、チベットにおける1950年という年はチベット史を真っ二つに分割できるほど、日本史における明治維新や中国における辛亥革命などよりも重要度が高いのである。それまで封建的ではあったが、比較的平和な歴史を築いてきたチベットは、突如として筆舌に尽くしがたい暗黒の時代に突入した。それま間違いなくチベットにとって、悪い意味での重大な転換点となる年だったのである。 


1950年10月7日にチベット侵略を開始した4万人の中共軍は、カム(東チベット)の州都チャムドを侵略した。8千人のチベット軍は防戦したがわずか2日で敗退し、チャムドは陥落した。カムの省長であったンガワン・ジグメは残された武器弾薬を爆破するよう命じた。後にンガワン・ジグメはチベット史上最悪の売国奴として人々から恨まれるようになる。


中共軍がチベット侵略を開始して10日後の1950年10月17日、チベット政府はダライラマ14世テンジン・ギョツォに政治と宗教の全権を賦与した。間もなく法王は安全のため、インド国境近くのヤートンに避難した。
 



中国による侵略行為に対してインド政府は10月26日、非難声明を発表、イギリス政府もインドの立場を支持した。だがこれらの声明はチベットにとって直接的な助けとなるものではなかった。11月に入りチベット政府はダライラマ名義で国連への提訴を行った。11月17日、中米のエルサルバドルがすぐさま国連で正式に議題するよう提起したが、結局国連で議題になることはなかった。12月8日にチベット政府は再度国連に書簡を提出したが、状況は変わらなかった。もはやチベットには中国との直接交渉しか道は残されていなかった。


1951年4月、チベット政府はンガワン・ジグメを団長とする7人の代表団を北京に派遣した。これら代表団にはチベット政府の意向を伝えること、中国政府の主張をチベット政府に伝えるという権限しか与えられていなかった。にも関わらず中国政府は彼ら代表団にラサと連絡を取ることを許さず、机を強く叩き、大声で罵倒し、協定に署名しなければラサに武力侵攻すると恫喝した。代表団はラサと連絡をとることさえ許されなかった。こうして1951年5月23日、「チベットの『平和解放』に関する十七条協定」が調印された。代表団は協定を締結するための印璽を持参していなかったが、中共政府は印璽を偽造して無理やり調印させた。 5月27日にはラジオ放送で十七条協定の全文が放送され、ヤートンに非難していたダライラマ14世は初めて協定の存在を知った。
 



7月には、7人の代表団のうち、ンガワン・ジグメを除く代表団6人がインドを経由して、ダライラマのいるヤートンに戻った。ここでダライラマがラサに帰還するか、それともインドに亡命するかで貴族たちの間に激しい論争が行われた(ヤートンからインドまでは一日で辿り付く事ができた)。論争に全く収拾がつかず、最終的に憑依状態のお告げ師の勧告により、ダライラマはラサに戻ることになった。ダライラマは9月6日にラサに戻った。


9月9日には中共軍がラサに進駐し、チベット政府に圧力をかけた。9月末にチベット議会が召集され、北京から戻ったンガワン・ジグメも参加した。すでに中共軍はチベット各地に軍事侵略を開始し、各都市はことごとく中共軍に占領されていた。万策が尽きたダライラマ法王は10月24日、毛沢東に手紙を送り、十七条協定の批准を表明した。


チベットの苦難の歴史が始まった。人口7万人のラサに2万人の人民解放軍が進駐し、膨大な食料供給を強要され、食料価格が暴騰。ラサ市民は瞬く間に飢餓に襲われた。チベット人にとって初めて経験した飢餓であった。

中国はチベット支配を強化するため、四川省の成都市とラサを結ぶ全長2413キロの西蔵公路と、西寧とラサを結ぶ全長1965キロの青蔵公路建設のため、多くの耕作地が無補償で徴用された。さらにチベット人がほとんど無報酬で強制労働を強いられ、完成までに数千人の命が奪われた。
  



徐々にチベット人の間で中国に対する怒りが高まり、中国を罵る歌を歌ったり、中国を批判する集会を開いたり、ポスターが貼られたりするようになった。チベット政府の世俗の首相ルカンワは、張経武将軍に対し、「チベット政府を援助するために来たという将軍の保障にも拘らず、中国側は今まで全く助けるようなことはしていない。それどころか中国軍の存在自体が私たちにとって深刻な苦しみとなっている。あなた方の行動のほとんどが人々の怒りと憤懣を増大させるばかりである」と厳しい口調で非難した。激怒した中国側はダライラマ法王に対し、ルカンワ首相の罷免を要求。ダライラマ法王はルカンワ首相の勇気ある行動を賞賛していたが、中国側の恫喝にどうすることもできず、ルカンワ首相は1952年に辞任した。


1953年12月、毛沢東はインド首相ネールと会談し、パンチシーラ平和五原則協定を締結した。この協定により、インドとチベットとの交易は全て中国経由で行われることとなった。これは中国のチベットに対する主権を認めた最初の国際条約となった。
 



1954年、北京で憲法制定のための全国人民代表大会が準備されており、ダライラマ法王にも出席の要請があった。中国の国会の一因になることは法王の尊厳に関わる問題であったが、それよりもダライラマ法王は北京で直接中国首脳とか会見できる機会を重視した。チベット人は誰もが大反対し、一般民衆も巻き込んでラサは混乱状態に陥ったが、ダライラマの決意は固かった。



1954年7月、ダライラマ法王は北京を訪問した。ダライラマにとって初めての近代文明との接触であった。飛行機、汽車、近代的建築、病院、大学、全てが経験したことのないものであった。ダライラマは北京滞在中にすこぶる丁重なもてなしを受け続けた。毛沢東国家主席、周恩来首相、劉少奇、朱徳国家副主席らと相次いで会談を行ったほか、インドのネール首相、ソ連のフルシチョフ首相ら数多くの外国要人とも会談した。ダライラマは毛沢東に対しても大変好感をもち、中国の宗主下でのチベットの将来に若干の希望を持つようになっていた。
 



だが北京で離れる前日、ダライラマは毛沢東から「宗教は毒だ。宗教は人口を減少させ、物質的進歩を無視する」という言葉を聞いたとき、ダライラマは平静を装いながらも大きなショックを受けていた。チベットの将来に希望を見出しかけていたところに、再び暗雲が立ち込めていた。 








チベットの歴史⑧ チベット動乱

http://dadao.kt.fc2.com/tibet-history8.htm



ダライラマは1955年3月、北京を離れラサに向った。ダライラマは生まれ故郷のアムドを経由した。途中で住民に幸せかと問うと、「中国共産党と毛主席のおかげで大変幸せです」と涙ながらに答えるのを見て、大きなショックを受けた。実際のところ、アムド地方は荒れに荒れていた。アムドの人々は中国共産党に徹底的に非協力的であったため、中共は苛酷な税の取立て、土地の収奪、さらには僧侶への広範な迫害を行っていた。ダライラマがアムドを経由する直前にもゴロク族と中共軍が戦闘を交えたばかりであった。 



中国政府はすでに1951年にチベット東部に解放委員会を設置し、1954年には南部のシガツェにパンチェンラマを頂点とするパンチェン行政庁を設立した。代々パンチェンラマは宗教的権力はあっても世俗的権力は持たないものとされてきたが、中国政府はパンチェンラマ10世を操り人形として動かしていた。こうしてチベットは解放委員会、パンチェン行政庁、ラサのチベット政府の三つに分割されていた。


そして1956年4月、チベット自治区準備委員会が成立し、ダライラマ法王が主席、パンチェンラマが副主席に任命された。委員には97名が任命されたが、過半数の51名を中国政府代表が占め、残りはチベット政府代表15名、パンチェン行政庁10名、チャムド解放委員会10名、寺院大衆代表11名となっていた。準備委員会が発足するとチベット民衆の間に反対するビラがまかれたり抗議集会が開かれたりした。これに対し中国政府は集会を禁止し、次々と逮捕に踏み切った。
 



1956年、インド政府は仏陀生誕2500周年記念祭にダライラマ法王を招待した。当初中国政府はダライラマのインド訪問を認めない方針であったが、「ダライラマが自由にインドを訪問できることをアピールしたほうが中国にとっても有益である」とのネール首相の勧告を受け入れ、容認に方針転換した。


1956年11月、ダライラマとパンチェンラマはインドを訪問し、念願であったブッダガヤ大菩提寺を参拝した。1957年初頭にパンチェンラマは帰国したが、ダライラマはインドに留まり、ネール首相に亡命受け入れを要請したが受け入れられず、1957年1月にニューデリーを離れ、チベット国境近くのカリンポンに到着した。周囲のチベット人は帰国に強行に反対した。6年前と同じパターンだ。帰国派と亡命派との間で論争が延々と続いた。ダライラマは政治的議論にうんざりし、チベットに帰国する決意を固め、4月にようやくラサに帰還した。
 



東チベットでは1956年夏ごろからチベット人義勇兵と中共軍による戦闘が本格化した。ゴロク地方に3千人の中共軍が駐留すると、ゴロク族は一斉に武器を取り、中共侵略軍800人を血祭りに挙げた。すかさず中共軍も反撃し、ゴロク族の居住地をことごとく襲撃し、家畜を略奪し、数千人を無差別に虐殺した。生き残ったゴロク族は山に逃げ込み、今後はひたすら中国人を殺すためにのみ生き続けることを誓った。


戦乱は各地に広がった。南カムではサムペリン寺院が中共軍に包囲され、爆撃により2000人が虐殺された。ニャロン地区ではチベット人が中共軍の陣地を包囲し、激しい戦闘の末、2000人以上の中共軍を打倒した。しかし2万人の中共軍部隊が投入されたため、チベット人義勇兵は撤退し、ゲリラ戦を展開することになる。リタン地方ではリタン僧院に数千人のチベット人が立てこもり、中共侵略軍を血みどろの激戦を繰り広げた。最終的にリタン僧院は跡形もなく爆撃され、5000人が虐殺された。爆撃機はマルカムなどほかの地方の僧院も徹底的に爆撃した。
 



1958年になるとチベット人義勇兵は勢いを増し、山岳地帯の利点を生かしてゲリラ戦でさかんに人民解放軍を攻撃した。さらに義勇軍による戦闘は南部にも拡大し、東部や南部では事実上義勇軍が支配する地域も出現した。


こうした解放戦争に対する中国側侵略軍の報復は残虐極まりないものであった。人民解放軍は見せしめのため、何千という寺院や町を砲撃や爆撃で破壊、寺院の貴重な仏像や経典を容赦なく略奪した。破壊されなかった寺院も中共軍にトイレとして利用され、経典はトイレットペーパーとして使用された。僧侶に還俗を強制したり、著名な僧侶に対しては公衆の面前で尼僧と性交させたりした。中共人民解放軍による報復はそれこそ無差別大量殺戮の様相を呈した。



以下に『中国はいかにチベットを侵略したか』から引用しよう。
 



 「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。
 貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたんだ?」と中共兵に嘲られた」


 


もうひとつ引用しよう。
 


 


 「女性たちは公衆の面前で素っ裸にされ、夫が罪を認めないと彼女たちはその目の前で強姦された。また、夫たちは人々の前で妻と性交するよう強制される場合もあり、その後たいてい処刑された。そして妻や娘は中共兵に投げ与えられた。
 尼僧もこの暴力から免れることはできなかった。裸にされた僧侶は、これも素っ裸にされた尼僧と性交するよう強制され、中共軍はこれみよがしに、「これがチベット仏教とその純潔さだ」と嘲笑った。その後僧侶たちの多くは処刑され、尼僧は中共兵の餌食にされた。年に関係なくいたるところで女性は強姦され、それも何度も犯され、揚句殺されていった」


 


 チベット東部から数千人の民衆が難民としてラサになだれこんでいた。さらに4万人の中共軍がラサと近郊に駐留し、ラサ市民の食料は窮乏した。1958年11月には各新聞にチベット仏教を口汚く罵しり、仏陀を反動主義者として非難する記事が掲載され、チベット人の民族感情を大きく傷つけた。


1959年2月、3月10日に軍の駐留キャンプで行われる予定の観劇にダライラマは招待された。その際にわざわざ慣例に反して「護衛をつけないように」という要求をつきつけたので疑念が急激に高まった。誰もが、ダライラマ法王が拉致されてしまうのではないかと不安がたかまった。  



 1959年3月10日、ラサの人口の半分に相当する3万人がノルブリンガ宮殿を取り囲み、道路を遮断した。集まった人々はダライラマ法王を守るために必死だった。民衆は法王が観劇に参加しないよう主張し、「チベットに独立を」「中国人は帰れ」などと叫んだ。中共に魂を売ったパクパラという高級官僚がダライラマを説得するためにノルブリンガを訪れたが、民衆に取り押さえられ、叩き殺されてしまった。


閣僚の一人が宮殿の屋上に上り、法王は観劇に参加しない旨を群集に伝え、群衆に静まるよう懇願した。そして二人の閣僚が軍区司令部に赴き、ダライラマ法王が観劇に参加できないことを伝えた。2時間ほどして二人の閣僚はノルブリンガ宮殿に戻ったが、群集は依然として宮殿の周囲から立ち去ろうとしなかった。民衆の中共に対する怒りはすでに頂点に達していた。
 



 3月11日、ラサの民衆は市内各所にバリケードを築き、武器を手にし、決戦に備えた。あらゆる道路上に「中国人は中国へ帰れ!」「中共を追い出せ!」などと書かれたポスターが貼られた。こうした状況はラサのインド領事館からデリーのインド政府に詳しく報告されていた。ネール首相は一切の情報を封印していたが、イギリス人ジャーナリストパターソンがデリーで情報をキャッチし、諸外国の報道陣にも伝えられた。


3月12日には、12000人のチベット人女性がポタラ宮前の広場に集まって集会を開き、チベットの独立を主張、さらにラサ市内をデモ行進した。中共軍はダライラマに書簡を送り、チベット民衆の行動を到底放任するわけにはいかない、さもなくば武力で鎮圧すると警告した。チベット政府は引き続き民衆に解散するよう訴えたが効果はなかった。事態は一触即発の状態に陥っていた。いつ中共軍が全面的な武力弾圧に出てきてもおかしくなかった。
 



 ダライラマ法王及び政府閣僚は、これ以上ラサにとどまることは身の安全上懸命ではないとの結論に至り、3月16日深夜、変装して夜陰に紛れて民衆が取り囲んだノルブリンガ宮殿を脱出し、インドへ向けて亡命へのたびに向った。


 3月19日、ついに最悪の事態が発生した。中共軍はノルブリンガ宮殿に一斉砲撃を開始したのだ。砲撃は41時間継続し、3月22日まで続いた。この無差別大量虐殺により、数万人のチベット人が殺されたという。ノルブリンガ宮殿の周囲は足の踏み場のないほどチベット人の死体で溢れかえっていた。悪臭は耐え難く、もはや人間のいる場所ではなくなっていた。
 



 3月28日、中国政府はチベット政府を解散し、その職権をチベット自治区準備委員会に移行、パンチェンラマを主席代行に、ンガワン・ジグメを秘書長に任命した。ンガワン・ジグメはチベットの売国奴として知られ、1910年生まれ、現在でも存命である。


 ダライラマ法王は1959年3月31日、長旅の末、ついにインドに到着した。インド入国に当たっては、ダライラマの動向を随時把握していたCIAがアイゼンハワー大統領に連絡し、ホワイトハウスからネルーに直接連絡し、ダライラマ一行の入国が事前に許可されていた。


4月、ダライラマ14世はダラムサラで亡命政府の設立と、チベット「平和解放」十七条協定の無効を宣言した。チベットの民族と文化を守り抜くための、ダライラマ法王の長い長い道のりが始まったのである。
 














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日本のサヨク共産主義者、アナーキスト ・特亜勢力(シナ共産党工作員、反日韓国朝鮮人、反日なりすまし日本人) は日本を破滅に導く売国奴であり、日本の弱体化、中共への植民地化を進める「日本滅亡推進勢力」であると思われる方はクリックをお願いします 
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